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追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります  作者: 歩人


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第53話: 横領の真実

 ディートリヒ・ハイネは、十年間同じ夢を見続けている。


 暗い部屋。テーブルの上に並べられた書類。蝋燭の炎が揺れるたびに、羊皮紙の上の文字が生き物のように蠢く。


 「これに署名すれば、全て不問にしましょう」


 ヴィクトール卿の声が、優しく、残酷に響く。


 夢の中の私は、いつも同じ場所で止まっている。ペンを取る直前。指先が羽根ペンの軸に触れた瞬間。その一秒が、永遠のように引き延ばされる。


 署名しなければいい。ペンを置いて、席を立てばいい。


 それができなかった十年前の自分を——まだ、許せずにいる。




 目が覚めた。


 宿場町の安宿。窓の外はまだ暗い。枕元の蝋燭は燃え尽きて、黒い芯だけが残っている。ミストヴァレーの駐在員からの早馬による急報を受けてから、二日が経っていた。


 額の汗を拭った。冬だというのに、寝巻きが湿っている。


 十年間、同じ夢だ。同じ部屋、同じ書類、同じ声。目覚めるたびに確認する——ああ、やはり署名した後の世界にいる、と。


 寝台の脇に置いた革の書類鞄に手を伸ばした。鞄の中に、昨日届いた書簡がある。


 開封はしていない。差出人の名前を見ただけで、中身はわかる。


 アシュフォード侯爵家の紋章。鷲が剣を掴む銀の蝋印。


 ……開けなければ、命令は届かなかったことになるだろうか。


 馬鹿な考えだ。届かなかったところで、次の手紙が来る。それでも開けなければ、使者が来る。使者を追い返せば——その先は、考えたくもなかった。


 封を切った。




 十年前。


 三十二歳の私は、真面目な官僚だった。


 王国商務省の下級職員。辺境地域を巡回し、商業活動の監査と許認可を行う。地味で、報われることの少ない仕事。だが誠実にやっていた。報告書の一字一句に嘘は書かなかった。数字を誤魔化さなかった。それだけが、私の誇りだった。


 ある日、上司に呼び出された。


 「ハイネ。お前の管轄区域で横領の報告が上がった」


 心臓が止まるかと思った。横領。私の管轄で。


 「横領? 私は何も——」


 「証拠がある。帳簿の筆跡がお前のものと一致している」


 机の上に帳簿が広げられた。確かに、私の筆跡だった。いや——私の筆跡に、よく似ていた。


 しかし、その帳簿に書かれた数字を、私は見たことがなかった。存在しない取引。架空の商人。私の名前で処理された、覚えのない決裁。


 「これは偽物です。私は——」


 「筆跡鑑定は済んでいる。一致率は九十六パーセントだ」


 九十六パーセント。残りの四パーセントの違いを証明する術を、私は持たなかった。


 停職処分。査問委員会への召喚。


 噂は王都の商務省に瞬く間に広がった。「ハイネが横領した」。廊下ですれ違う同僚が目を逸らす。上司は面会を拒否する。弁明の機会すら——書類の山に埋もれて、消えた。


 妻のクラーラが荷物をまとめたのは、停職から二週間後のことだった。


 「……あなたが潔白だと信じたいわ。でも子供たちのことを考えると、実家に帰らせて」


 子供たちの顔。五歳のアンネと三歳のフリードリヒ。父の名前が汚された家で育てるわけにはいかない——妻の判断は、正しかったのかもしれない。


 実家に帰った妻から、手紙は来なかった。


 全てを失った。


 官僚としての地位。同僚の信頼。妻と子供。七年間かけて築いた、小さいが確かだった人生の全て。




 あの夜のことは、今でも手の感触として残っている。


 王都の外れにある安酒場。窓際の席で、三杯目の安酒を傾けていた。酔えなかった。酔うほどの金も残っていなかった。


 「お隣、よろしいですか」


 振り向くと、銀灰色のオールバックの紳士が立っていた。仕立ての良いフォーマル服。安酒場には不釣り合いな——いや、この男が立てば、どんな場所も「似合う」場所になるのだろう。そういう存在感だった。


 灰色の目が、微笑みながら私を見ていた。


 「ヴィクトール・アシュフォードと申します。……お名前は存じ上げていますよ、ハイネ殿」


 侯爵。王国でも有数の貴族が、なぜこんな場所に——なぜ私のような人間の名前を知っているのか。


 「お気の毒です。横領の濡れ衣を着せられるとは」


 濡れ衣。この男は「濡れ衣」と言った。世間の全員が私を有罪と見なしている中で——この男だけが。


 「私には……あの帳簿が偽物であることを証明する力があります」


 心臓が、跳ねた。


 「偽造帳簿の出所も、筆跡を模倣した人物も、全て把握しております。あなたは嵌められたのです、ハイネ殿」


 全て——把握している。この男は全て知っている。


 その瞬間、私は理解すべきだった。全てを把握しているということは、この男自身が——。


 だが、溺れる者は藁をも掴む。


 「ただし、条件がある」


 ヴィクトール卿が微笑んだ。温かそうな微笑み。目だけが——笑っていなかった。


 「私の目と耳になっていただきたい。辺境の情報を、定期的に報告していただくだけです。何も難しいことではない」


 「それは……」


 「お断りすれば、残念ながら横領の件は——そのまま、ということになりますね。禁固刑は免れないでしょう。お子さんたちは……父親が犯罪者という十字架を、一生背負うことになる」


 声は穏やかだった。脅迫の言葉を、世間話のように語る。それが——何より恐ろしかった。


 テーブルの上に、契約書が置かれた。


 ペンが差し出された。


 ……署名した。手が震えていた。インクが滲んで、最後の一画が歪んだ。


 「ようこそ、ハイネ殿。長いお付き合いになりそうですね」


 ヴィクトール卿の声が、優しく、残酷に響いた。


 あの日の夢を、十年間見続けている。




 書簡を読み終えた。


 宿場町の安宿の窓から、冬の夜明けが覗いていた。薄い灰色の光が部屋に差し込み、手の中の羊皮紙を照らしている。


 侯爵閣下の筆跡は、いつも通り完璧だった。美しく均整の取れた文字。一字の乱れもない。この文字が告げる内容がどれほど残酷であっても、筆跡だけは芸術品のように整っている。


 「源泉操作は完了した。西脈のアンカー設置により、ミストヴァレーの地脈出力は回復不能な水準まで低下するだろう。次の査察で、町の全商業活動を停止させよ。衛生基準の不適合、税務の滞納、安全基準の違反——理由は任せる。いつも通り、合法的に。ヴィクトール・アシュフォード」


 合法的に。


 いつも通り。


 書簡を畳んだ。指先が震えている。冬の寒さのせいだ——そう思うことにした。


 全事業の停止。


 農業も、養魚場も、牧場も、炭焼きも——銀泉楼も。


 あの町が、死ぬ。




 杯に酒を注いだ。安い麦酒。宿場町の宿には、これしかない。


 飲んだ。味がしなかった。十年前から、酒の味がわからなくなっている。


 窓の外を見た。街道が東西に延びている。西に向かえば、ミストヴァレー。命令を遂行する場所。


 ……命令を遂行する。いつも通りだ。何も変わらない。


 この十年間、私がやってきたことの繰り返し。町を訪れ、書類を広げ、規則を盾に人々の生活を締め上げる。「規則ですので」「手続き上、やむを得ません」「残念ながら——」。


 何十回、同じ言葉を繰り返してきただろう。


 エミール町長の怯えた顔。新しい店を開こうとした若者の、打ちのめされた顔。融資の道を断たれた職人の、諦めた目。


 全部、覚えている。覚えていないふりをしているだけだ。


 杯を空にした。もう一杯注ごうとして——やめた。


 代わりに、目を閉じた。


 暗闇の中に、別の光景が浮かんだ。




 収穫祭。


 あの日、私は「査察」の名目でミストヴァレーにいた。実態はヴィクトール卿への報告のための偵察だ。祭りの規模、参加者数、売上——数字を集めて報告書に書く。いつもの仕事。


 だが、あの祭りは——違った。


 広場に人が溢れていた。百五十人を超える来場者。棚田の米で作った餅を子供たちが頬張り、養魚場の主人が子供たちに釣りの仕方を教えていた。竿を握る小さな手を、皺だらけの大きな手が支えている。


 「こうだ、こう。竿を引くんじゃなくて、魚に合わせるんだ」


 子供が笑った。銀色の谷鱒が水面で跳ねて、陽光を弾いた。


 料理長の女が——ユーディットと言ったか——竈の前で怒鳴っていた。「火加減ッ! 蒸しが甘いぞ、リュカ!」「す、すみません師匠ッ!」。だがその声には怒りではなく、熱がこもっていた。


 霧杉炭の実演をやっていた大男——ガルドが、子供を肩車して窯を見せていた。普段は不愛想なあの男が、子供に向けてだけは、不器用な笑い方をしていた。


 棚田の老人——ヴァルターが、新米の握り飯を配っていた。「うまいか。うまいだろう。この谷の土と水が育てた米だ」。自慢げな顔。土に汚れた手。


 そして——セラフィーナ嬢。


 蜂蜜色の髪を風になびかせて、広場の隅から隅まで走り回っていた。客の案内をし、子供と一緒に笑い、裏方の段取りを確認し、また客の前に戻る。


 あの令嬢は——笑っていた。


 心の底から。嘘のない笑顔で。


 私が営業停止命令を叩きつけたあの令嬢が。許認可を三ヶ月遅らせたあの令嬢が。何度潰しても、何度壁を作っても、その度に書類で正面から殴り返してきたあの令嬢が。


 ……眩しかった。


 かつての俺が、ああでありたかった。規則と手続きに殺される前の——三十二歳の、真面目だけが取り柄だった官僚の俺が。


 祭りの報告書を書いた。数字を並べた。来場者数、売上推定、事業規模。


 その末尾に、こう書き足した。


 「なお、当該地域の復興は住民の自助努力によるところが大きく、継続的な成長が見込まれる。過度の介入は——」


 そこで筆を止めた。「過度の介入は慎むべき」——そんな一文を、侯爵閣下への報告書に書けるはずがない。


 結局、末尾の一文は消した。


 消したはずだった。


 だが報告書を封じる前に、もう一度読み返した。消した箇所の羊皮紙が、微かに擦れて色が変わっている。


 ——消し損ないがあったかもしれない。わざとではない。筆跡に几帳面な私が、消し残しをするなど。


 ……わざとでは、なかったはずだ。




 目を開けた。


 宿場町の安宿。灰色の朝。


 書類鞄を開いた。中には報告書の用紙がある。ヴィクトール卿への定期報告。「全事業停止の準備状況」を書くべき欄が、白く空いている。


 ペンを取った。インク壺に浸した。


 紙にペン先を当てた。


 ——書けなかった。


 「全事業停止の準備は整いました」。たった一行。いつもなら三秒で書ける。規則通りの報告。手続き上の文書。感情を挟む余地などない、事務的な一文。


 ペン先からインクが一滴、紙に落ちた。黒い点が滲む。


 ……あの令嬢の手帳にも、こんな黒い点が落ちたことがあるのだろうか。数字が並ぶ手帳。経営戦略と損益計算で埋め尽くされた、あの手帳に。


 違う。あの令嬢の手帳は、人の未来を壊すためのものではない。


 俺の報告書は——人の未来を横領するための書類だ。


 横領。


 十年前、俺に着せられた濡れ衣。帳簿を偽造されて、人生を奪われた。


 今、俺がやっていることは——帳簿こそ偽造しないが、書類と規則であの町の人たちの人生を奪っている。


 同じだ。


 やっていることの本質は、十年前に俺を嵌めたヴィクトール卿と——同じだ。


 ペンを置いた。


 報告書を鞄にしまった。白紙のまま。


 「……まだ、書かなくてもいいだろう。現地の状況を確認してからでも遅くはない」


 誰に向けて言ったのか。自分への言い訳だ。命令に背いたわけではない。ただ——少し、遅らせただけ。


 だがそれは、十年間で初めてのことだった。


 ヴィクトール卿の命令を受けて、即座に実行しなかったのは——十年間で、初めてだった。




 馬車が街道を西に進む。


 窓の外を冬枯れの風景が流れていく。エルデン街道の並木は葉を落とし、骨のような枝が灰色の空に伸びている。


 鞄を膝に置いている。中には白紙の報告書と、侯爵閣下の書簡。どちらも、今の私には重すぎる荷物だった。


 馬車が峠を越えた。


 霧が見えた。


 ミストヴァレー。名前の通り、谷底に霧が漂っている。冬の冷気と地脈の温度差が作る、この谷特有の景色。


 だが——いつもと違った。霧が薄い。地脈の熱が弱まっているのだ。侯爵閣下の「源泉操作は完了した」という言葉が、風景の変化として目の前にあった。


 谷に降りていく。霧の中に、建物の輪郭が見え始める。


 銀泉楼。


 煙突から——煙が上がっていた。


 源泉が止まったはずの旅館。温泉宿としての命を失ったはずの建物。


 それでも、煙突は煙を吐いている。厨房の竈に火が入っている証拠だ。


 馬車の窓に顔を近づけた。


 玄関の脇に、小さな看板が見えた。新しい木の板に、丁寧な字で書かれている。


 「本日の夕餉——冬野菜の囲炉裏鍋。温泉はお休み中ですが、お料理とおもてなしでお待ちしております」


 ……まだ、営業しているのか。


 源泉が止まっても。温泉が死んでも。客が来なくても。


 あの令嬢は——閉めていない。


 玄関の引き戸が開いた。蜂蜜色の髪の女性が出てきて、通りを掃いている。朝の掃除だ。冬の寒さの中、白い息を吐きながら、丁寧に箒を動かしている。


 普通の光景だ。何も特別なことではない。


 なのに——目が、離せなかった。


 馬車が銀泉楼の前を通り過ぎた。


 振り返らなかった。振り返れば、何かが——壊れる気がした。


 鞄の中の白紙の報告書。


 十年間で初めて——命令に従わなかった。


 それだけは、嘘ではない。

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