第52話: 女将の手
手帳のページが、白いままだった。
数字が出てこない。戦略が浮かばない。分析ができない。
源泉が止まりかけた旅館で、コンサルタントにできることなど——本当に、あるのだろうか。
源泉危機から三日目の朝。
執務室の机に向かって、もう二時間が経っていた。手帳は開いている。ペンも握っている。でも白いページには、三日前に落としたインクの染みが一つあるだけだ。
数字を並べてみた。何度も。
月間宿泊者数、百二十人から三十人以下に急落。予約キャンセルが昨日だけで八件。「温泉がないなら行く意味がない」——手紙の文面が全部同じだった。
収支が赤に転落している。薪で湯を沸かして営業を続けているが、泉質は落ちたまま。白濁も銀泉草の香りも戻らない。加温の薪代だけが嵩んでいく。
このままでは、二ヶ月で運転資金が尽きる。
前世のコンサルタントの頭が、冷たく計算を回す。
客観的に見て、撤退ラインに近い。損切りするなら今だ。被害が最小限のうちに——
そこまで考えて、ペンを置いた。
「……違う」
声に出した。自分に言い聞かせるように。
「この宿は、数字じゃない」
でも、数字じゃないなら何なのか。それがわからない。前世の宮原咲良は、数字で二百軒以上の旅館を立て直してきた。数字が全てだった。数字さえ合えば宿は蘇ると、ずっと信じていた。
今、その数字が「無理だ」と言っている。
手帳を閉じた。
廊下に出ると、マリカさんがフロントで書類を整理していた。
「セラさん。昨日までのキャンセル分の返書を出しました。全てに源泉復旧の見通しをお伝えしています」
「ありがとう、マリカさん」
マリカさんの所作は相変わらず完璧だった。濃紺の目は落ち着いている。こんな状況でも、接客に揺らぎがない。
「今日のご宿泊は三組です。老夫婦がお一組、商人の方がお一人、それからお子様連れのお母様が一組」
三組。十二室ある銀泉楼で、たった三組。
「……ありがとう」
繰り返して、足が止まった。
何をすればいい?
手帳を開いて売上予測を立てる? コスト削減案を練る? 代替商品の企画を考える? ——全部、もうやった。どの数字を見ても「無理」しか出てこない。
ふと、手帳を握っている右手を見た。
インクで汚れた指先。ペンだこ。前世から数えて何万ページと書き潰してきた、コンサルタントの手。
この手で——今、何ができる?
考えるより先に、足が動いていた。手帳を机の上に置いて、廊下を歩き出した。
最初に訪ねたのは、二階の角部屋だった。
老夫婦の客。白髪の旦那様と、穏やかな笑顔の奥様。昨日チェックインしたとき、源泉の不調を伝えると「構いませんよ」と笑ってくれた方たちだ。
「失礼します。何かお困りのことはございませんか」
襖を開けると、老夫婦は窓際に並んで座っていた。
「ああ、女将さん。いえ、何も困っていませんよ」
旦那様が振り返って笑う。奥様が手招きした。
「ほら、こちらにいらっしゃい。見てごらんなさい、この景色」
窓の外に——息を呑んだ。
棚田に霜が降りていた。白い結晶が朝日を受けて、一面が銀色に輝いている。遠くの霧峰山が冬の透明な空気の中で稜線を際立たせ、その裾野を霧が這っている。
「お湯がぬるくても、この景色があるから来たんですよ」
奥様が微笑んだ。
「若い頃、一度だけこの谷に来たことがあるの。あの頃は銀泉楼が輝いていてね。もう一度見たいと、ずっと思っていたの」
「……ずっと?」
「ええ。二十年以上。やっと来られたの」
胸の奥が、きゅっと締まった。
二十年以上待っていた人がいる。源泉が止まりかけた今でも——この景色を見に来てくれた人が。
「お布団、直しましょうか。それと、湯たんぽをお持ちしますね。今夜は冷え込みますから」
言葉が自然に出た。手帳を見ていない。数字を計算していない。ただ、目の前のこの人たちに何ができるかだけを考えていた。
次に訪ねたのは、一階の奥の間だった。
商人の男性。名をベルンハルトと言った。四十がらみの、がっしりした体格の人だ。
「ああ、女将さん。いや、温泉は残念だが、仕方ないさ」
囲炉裏端に座って、湯呑みを傾けている。目の下に深い隈がある。
「お疲れのご様子ですね」
「まあな。この冬は商いが厳しくてね。街道の物流が滞っているから、あちこち走り回っている」
ベルンハルトさんが肩を回した。節くれだった手に、荷紐の跡が赤く残っている。
「温泉じゃなくても、ここの飯と静かさがいいんだ。王都の宿屋は喧しくていかん。ここは——落ち着く」
「ありがとうございます」
厨房からユーディットの声が聞こえた。鍋が煮える音。山猪の鍋だろう。冬の初めに獲れた猪を、味噌と根菜でじっくり煮込む——源泉蒸しが使えない今、ユーディットが代わりに出している冬の看板料理だ。
「今夜はユーディット——料理長が腕によりをかけた山猪鍋をお出しします。体の芯から温まりますから」
「そりゃありがたい。——女将さん、あんた自分で飯を運んでくるのか?」
「はい。今日は私が」
ベルンハルトさんが少し笑った。疲れた顔が、ほんの少しだけ緩んだ。
「いい宿だな、ここは。飯が旨くて、女将が自分で客の顔を見に来る。——王都にゃ、こういう宿はないぞ」
三組目。
二階の梅の間。チェックインのとき、マリカさんから「お子さんが少し体調を崩されているようです」と聞いていた。
襖の前で声をかけた。
「失礼します。お加減いかがですか」
中から、疲れた声が返ってきた。
「……すみません。娘が熱を出してしまって」
襖を開けると、若い母親が布団の横に座っていた。布団の中で、五つか六つくらいの女の子が頬を赤くしてぐったりしている。小さな額に汗が浮いていた。
「お薬はお持ちですか」
「いいえ。急に熱が上がったもので……この辺りにお医者様は——」
「少々お待ちください」
廊下に出て、ノアを探した。地下源泉で計測を続けているはずだ。階段を降りて——いた。計測器に向き合う背中が、青白い探査魔法の光に照らされている。
「ノア。お客様のお子さんが熱を出している。薬草で何か調合できない?」
ノアが振り返った。深い緑の目が一瞬だけ計測器に戻り——すぐに離れた。
「症状は」
「高熱。汗をかいている。咳はなさそう」
「銀泉草と鎮痛根がある。煎じ薬を作る。十五分くれ」
言い終わる前に、もう薬草の棚に手を伸ばしていた。
ノアが調合した煎じ薬を持って、梅の間に戻った。
「お母様。これを冷まして、少しずつ飲ませてあげてください。解熱の効果があります。——それと」
ノアが後ろから、布に包んだものを差し出した。
「額に載せてやってくれ。銀泉草を練り込んだ冷却布だ。朝には熱が下がるはずだ」
母親がそれを受け取った。指先が震えている。
「ありがとう……ございます。こんなに、よくしていただいて」
女の子が薄目を開けた。母親が冷却布をそっと額に載せると、小さな口から「ひんやりする……」と声が漏れた。
母親の目から、涙がこぼれた。
「こんな宿、初めてです。温泉が止まっても——こんなに、あたたかい宿は」
その言葉が、胸の真ん中に落ちた。
重くて、温かくて、目の奥が熱くなった。
「……お休みになってください。何かあれば、いつでもお呼びください」
頭を下げて、襖を閉めた。
廊下に出た。
窓から差し込む冬の夕日が、板張りの床を橙色に染めている。
足が止まった。
気づいた。
手帳を見ていない。数字を計算していない。損益分岐も、コスト分析も、戦略の組み立ても——何もしていない。
ただ、目の前の人を見ていた。
老夫婦の笑顔。ベルンハルトさんの疲れた肩。女の子の赤い頬。母親の涙。
前世のコンサルタントは、数字で旅館を立て直した。売上予測、顧客単価、稼働率——二百軒以上の宿を、数字の力で蘇らせてきた。
でも今の私は——
「お嬢」
振り返ると、ハンナさんが廊下の奥に立っていた。
割烹着姿。白髪を後ろでまとめて、灰色の目がまっすぐ私を見ている。
左手の薬指に、ローザ様から譲られた銀の指輪が光っていた。
「……ハンナさん。いつから?」
「あんたが部屋を回り始めてから、ずっとさ」
ハンナさんが一歩、近づいた。
「お嬢。ローザ様も同じだったよ」
「……え?」
「帳簿が赤字でも、源泉が弱っても、ローザ様は最後まで客の顔を見ていた。数字を捨てたんじゃない。数字の向こうにいる人を、忘れなかったんだよ」
ハンナさんの声が、少しだけ震えた。
「宿はね、建物じゃないんだよ、お嬢。お客様が『帰ってきた』と思える場所さ。——あんた、今日それをやってた」
息が詰まった。
涙が込み上げてきた。でも、拭かなかった。
「……ハンナさん。私、コンサルタントをやめる」
「?」
「コンサルタントじゃなくて——女将になる。この宿の、女将に」
言葉にした瞬間、胸の中で何かが変わった。
前世の宮原咲良は、コンサルタントだった。数字で宿を救う専門家。でも最後まで「自分の宿」は持てなかった。——持てなかったのは、数字の外に出る勇気がなかったからだ。
今は違う。
数字の外に立っている。手帳を持たず、客の前に立っている。二百軒のコンサル経験より、今日の三組の客から学んだことの方が、ずっと大きかった。
ハンナさんの灰色の目が潤んだ。
銀の指輪を、左手で握った。
「ローザ様……聞こえたかい。やっと、この子が女将になるよ」
声が震えていた。でも、笑っていた。
夜。
テラスに出ると、冬の星が頭上に広がっていた。澄んだ空気の中で、星の一つ一つが針のように鋭く光っている。
吐く息が白い。肩が冷えた。
「風邪を引くと面倒だ」
背後から声がして——肩に、温かいものがかけられた。
マフラー。濃い藍色の、使い込まれた毛織物。ノアの匂いがする。薬草と、古い本と、かすかに地下の岩の冷たさ。
「ノア」
「まだ外にいるのか」
ノアが隣に立った。テラスの手すりに腕を預けて、同じ星空を見ている。
「ノア。私ね、今日初めて気づいた」
「何に」
「手帳がなくても、数字がなくても、お客様の前に立てるって」
ノアが少し黙った。
「……お前は最初から、数字だけの人間じゃなかった」
「え?」
「俺はずっと見ていた」
心臓が跳ねた。
「見てたの?」
「……まあ。近くにいたから」
ノアが目を逸らした。深い緑の目が星を映している。耳の端が、かすかに赤い——気のせいかもしれない。冬の冷気のせいかもしれない。
マフラーを引き寄せた。温かい。
「……ありがとう」
それ以上の言葉は要らない気がした。今は。
星空の下で、二人の白い息が混じって消えた。
部屋に戻った。
囲炉裏に新しい炭を入れて、赤い火を見つめた。
手帳を開いた。
三日前から白いままだったページ。インクの点が一つだけ残っている。
ペンを取った。
数字ではなく——言葉を書いた。初めてだった。二つの人生で、手帳に数字以外のものを書いたのは。
——銀泉楼は、人の宿。
——私は、女将。
ペンが震えなかった。文字は拙かったけれど、確かだった。
ページの端に、もう一行だけ書き足した。
——源泉がなくても、この宿は温かい。
手帳を閉じた。胸に抱えた。
囲炉裏の炭が赤く燃えている。その光が、部屋を温かく照らしていた。




