第51話: 源泉の悲鳴
「——西脈が落ちた」
夜明け前。暗い部屋に飛び込んできたのは、ノアだった。
地脈計測器を握りしめた右手が白い。息が上がっている。寝巻きの上にコートだけ羽織った格好で——この男がそんな取り乱した姿を見せるのは、初めてだった。
「……え?」
寝台の上で、寝ぼけた頭が意味を理解するのに三秒かかった。
西脈。
銀泉楼の源泉を辛うじて維持していた、最後の生命線。北脈と東脈が二十年前に絞られた後も唯一生き残っていた、最後の地脈。
血が凍った。
地下源泉。
ノアが計測器を岩壁に押し当てている。青白い光が数値を映し出すたび、その表情が険しくなる。
「流量が昨日の半分以下だ。自然な減衰じゃない」
「どういうこと?」
「誰かが意図的に西脈を操作した。——新しいアンカーだ。西脈にも仕掛けられた」
アンカー。北脈と東脈に続いて、最後の生命線だった西脈にまで。
その一言で、全てが繋がった。ヴィクトールが銀泉楼を訪れたあの日——『追加の設置は完了した』と、あの書斎で呟いていたのだろう。断られることを見越して、すでに手を打っていた。
ヴィクトール・アシュフォード。碧泉宮への偵察から戻って、まだ三日しか経っていない。あの男の前で「お断りします」と言った——あのときの灰色の目を思い出す。温かそうな微笑みの奥に、目だけが笑っていなかった。
「私が断ったから」
「ああ。碧泉宮への偵察に気づいた可能性もある」
ノアが計測器を壁から離した。深い緑の目が、暗い地下通路で剣のように光っている。
「あの男は取引を断られると、必ず次の手を打つ。——予想はしていた。だが、こんなに早く動くとは」
予想していた。ノアはそう言った。でも予想していたことと、実際に起きることは違う。
源泉の注ぎ口に手を当てた。
ぬるい。
昨日まで確かにあった温もりが——薄れている。
朝。大浴場の点検に降りたハンナさんが、最初に異変に気づいた。
「……ぬるい。こんなにぬるくなったのは初めてだよ」
割烹着の袖をまくって湯に手を入れたハンナさんが、灰色の目を見開いている。五十年以上この源泉に触れてきた人の手が——微かに震えていた。
源泉の注ぎ口を見た。湯量が目に見えて減っている。昨日の半分以下。水面から立ち昇る湯気も薄い。
「温度計、出してください」
マリカさんが壁に掛けてある温度計を外して湯に浸した。
三十四度。
昨日までは四十二度だった。入浴には低すぎる。
そして——色が変わっていた。
銀泉楼の湯は白濁している。それがこの温泉の特徴であり、誇りだった。地脈の魔力を含んだ源泉水が空気に触れて白く濁り、微かに銀泉草の香りがする。全盛期には「銀の湯」と呼ばれ、治癒効果は王国でも指折りだった。
今、浴槽の湯は——透明だった。
白濁が消えている。銀泉草の香りもない。ただの、温い水。
地脈の魔力が抜けている。
「ハンナさん」
「……わかってるよ、お嬢」
ハンナさんが湯から手を上げた。水滴が指先から落ちる。
「ローザ様のときと——同じだ」
被害は銀泉楼だけに留まらなかった。
午前中に、町中から報告が集まった。
「蒸し室の蒸気が弱くなっています」
ユーディットが厨房から戻って報告する。源泉蒸しの調理に使う蒸気——銀泉楼の看板料理の核が、力を失いつつあった。
「棚田の水も……温度が下がっとる」
ヴァルターさんがテラスに立って、低い声で告げた。節くれだった手に土がついたままだ。朝一番で棚田を確認しに行ったのだろう。
「冬の地脈水が冷たくなったら、苗床がもたん。来春の作付けに響く」
養魚場も同じだった。水温が下がれば谷鱒の活動は鈍る。チーズの仕込みに必要な霧山羊の乳量にも影響が出る。
地脈は、この谷の全てを支えていた。
温泉だけの問題じゃない。農業も、漁業も、畜産も——全部が連鎖している。
手帳を開いた。
数字を並べる。前世のコンサルタントの頭が、自動的に計算を回し始める。
源泉温度三十四度。入浴には低すぎる。加温すれば営業できるが、薪のコストが嵩む。
泉質の低下。銀泉草の香りが消え、治癒効果はほぼゼロ。温泉としての価値が——ない。
このまま下がり続ければ、一週間で源泉は完全に止まる。
ペンが止まった。
どの数字を見ても、結論は一つだった。
宿泊客への対応を始めた。
全客室を回る。頭を下げる。
「大変申し訳ございません。源泉に一時的な不調がございまして——」
商人の客は困った顔をした。
「温泉が目当てで来たんだがな。まあ、仕方ないか」
老夫婦は穏やかに笑ってくれた。
「戻ったらまた来ますよ。待ってるから、頑張ってね」
その言葉に、唇を噛んだ。
子連れの家族は、お父さんが申し訳なさそうに言った。
「子どもが楽しみにしてたんです。温泉の白いお湯……また入りたいって」
隣で小さな女の子が、眠そうな目をこすりながら私を見上げている。
「……ごめんね。おねえさん、必ず温泉を取り戻すから」
笑顔を作った。作れたかどうかは、わからない。
午後。ノアが地下源泉で一人、分析を続けていた。
階段を降りると、計測器に向き合う背中が見えた。暗い地下通路で、探査魔法の青白い光だけがノアの横顔を照らしている。
「何かわかった?」
「ああ」
ノアが計測器を岩壁から離した。
「西脈のアンカーの位置が絞り込めた。東脈の方角——棚田の地下水路の近くだ」
「撤去できる?」
「理論上は。だが二十年前の北脈・東脈のアンカーとは術式が違う。新しい。設置を急いだ形跡がある——隠蔽が雑だ」
ノアが私の方を向いた。深い緑の目に、暗い炎がある。
「セラ。今は北脈のアンカー解除が先だ。北脈が戻れば、西脈への圧力も緩む可能性がある」
「北脈のアンカーは……前に見つけた、霧峰山中腹の洞穴の石柱でしょう?」
「ああ。あの石柱の防護術式を解除する方法を研究している。もう少し時間がいる」
ノアの手が拳を握った。
リンドヴァルの記憶。あのときも——地脈が弱まって、町が死んでいった。ノアの故郷が消えたのは、同じ構造だった。
「今度は違う。今度は、間に合わせる」
低い声だった。自分に言い聞かせるような——でも、確信を含んだ声だった。
夜。
銀泉楼の奥座敷に、全員が集まった。
囲炉裏の炭が赤く燃えている。窓の外は闇。初冬の風が木枯らしの音を立てている。
ハンナさん。ノア。ユーディット。リュカ。ガルド。マリカさん。
六つの顔が、囲炉裏の光に照らされている。
「現状を報告します」
声が——自分でも驚くほど、落ち着いていた。震えていないのが、逆に怖い。
「源泉温度は三十四度まで低下。泉質も著しく悪化しています。このままでは、一週間以内に源泉が止まる見込みです」
沈黙が落ちた。囲炉裏の炭がパチリと爆ぜた。
最初に口を開いたのは、ユーディットだった。
「温泉が止まっても、飯は出せる。厨房は死なねぇ」
赤銅色の髪を雑に束ねた料理長が、腕を組んで言い切った。深い緑の目に迷いがない。
「蒸し料理が無理なら、煮込みと焼きで回す。食材は谷のものがある。腕がなくなったわけじゃねぇだろ」
ガルドが続いた。
「建物は守る。冬の冷え込みで配管が凍結しないよう、今のうちに養生する。——じいさんの旅館は壊させねぇ」
マリカさんが背筋を伸ばした。
「お客様への対応は私が引き受けます。事情を説明して、源泉復旧の見通しをお伝えします。——逃げません」
リュカが拳を握った。
「俺も厨房っす。ユーディット師匠と一緒に、飯は止めないっす」
ハンナさんが、最後に口を開いた。
「ローザ様のときも、源泉が弱まった。でもあの人は最後まで宿を閉めなかったよ」
灰色の目が、私をまっすぐ見ている。
「お嬢。あんたはどうするんだい」
六人の目が、私に集まっている。
囲炉裏の炎が揺れる。影が壁に踊る。
息を吸った。
「——閉めない」
声が出た。震えなかった。
「絶対に、閉めない」
ハンナさんが小さく頷いた。ガルドが鼻を鳴らした。ユーディットが口角を上げた。マリカさんの目が潤んで——でも、泣かなかった。ノアは壁にもたれたまま、深い緑の目で私を見ていた。何も言わなかった。何も言わなくてよかった。
「源泉は——取り戻す。方法はある。ノアが地脈の調査を進めてくれている。時間はかかるけれど、必ず」
「必ず、なんて言うなよ、嬢ちゃん」
ガルドが口を挟んだ。でも声は荒くなかった。
「必ずなんて言わなくていい。——やるだけだろうが」
「……うん。やるだけだね」
笑った。笑えた。みんなの前では——笑えた。
みんなが部屋を出た後、一人になった。
囲炉裏の火が弱くなっている。炭が白い灰に覆われて、赤い光が褪せていく。
窓の外に、冬の星が見えた。澄んだ空気の中で、星が痛いほど光っている。
手帳を開いた。
今日の数字を書こうとした。源泉温度。湯量。コスト試算。損益分岐。人員配置。——いつもやっていること。前世から数えて何千回とやってきたこと。
ペンを紙に当てた。
インクが一つ、点を落とした。
……そこから先が、書けなかった。
数字が浮かばない。戦略が組めない。分析ができない。
ペンを持つ手が——震えている。
「……」
手帳を見下ろした。白いページに、黒い点が一つだけ。
何も書けない。
初めてだった。
前世の宮原咲良として数百冊のノートを書き潰してから——二つの人生を通して、手帳に何も書けなかったのは、初めてだった。
手帳を閉じた。胸に抱えた。
囲炉裏の最後の赤い光が消えた。
暗い部屋で、一人。
銀泉楼の廊下を、冬の隙間風が吹き抜けていった。




