表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります  作者: 歩人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

51/52

第51話: 源泉の悲鳴

 「——西脈が落ちた」


 夜明け前。暗い部屋に飛び込んできたのは、ノアだった。


 地脈計測器を握りしめた右手が白い。息が上がっている。寝巻きの上にコートだけ羽織った格好で——この男がそんな取り乱した姿を見せるのは、初めてだった。


 「……え?」


 寝台の上で、寝ぼけた頭が意味を理解するのに三秒かかった。


 西脈。


 銀泉楼の源泉を辛うじて維持していた、最後の生命線。北脈と東脈が二十年前に絞られた後も唯一生き残っていた、最後の地脈。


 血が凍った。




 地下源泉。


 ノアが計測器を岩壁に押し当てている。青白い光が数値を映し出すたび、その表情が険しくなる。


 「流量が昨日の半分以下だ。自然な減衰じゃない」


 「どういうこと?」


 「誰かが意図的に西脈を操作した。——新しいアンカーだ。西脈にも仕掛けられた」


 アンカー。北脈と東脈に続いて、最後の生命線だった西脈にまで。


 その一言で、全てが繋がった。ヴィクトールが銀泉楼を訪れたあの日——『追加の設置は完了した』と、あの書斎で呟いていたのだろう。断られることを見越して、すでに手を打っていた。


 ヴィクトール・アシュフォード。碧泉宮への偵察から戻って、まだ三日しか経っていない。あの男の前で「お断りします」と言った——あのときの灰色の目を思い出す。温かそうな微笑みの奥に、目だけが笑っていなかった。


 「私が断ったから」


 「ああ。碧泉宮への偵察に気づいた可能性もある」


 ノアが計測器を壁から離した。深い緑の目が、暗い地下通路で剣のように光っている。


 「あの男は取引を断られると、必ず次の手を打つ。——予想はしていた。だが、こんなに早く動くとは」


 予想していた。ノアはそう言った。でも予想していたことと、実際に起きることは違う。


 源泉の注ぎ口に手を当てた。


 ぬるい。


 昨日まで確かにあった温もりが——薄れている。




 朝。大浴場の点検に降りたハンナさんが、最初に異変に気づいた。


 「……ぬるい。こんなにぬるくなったのは初めてだよ」


 割烹着の袖をまくって湯に手を入れたハンナさんが、灰色の目を見開いている。五十年以上この源泉に触れてきた人の手が——微かに震えていた。


 源泉の注ぎ口を見た。湯量が目に見えて減っている。昨日の半分以下。水面から立ち昇る湯気も薄い。


 「温度計、出してください」


 マリカさんが壁に掛けてある温度計を外して湯に浸した。


 三十四度。


 昨日までは四十二度だった。入浴には低すぎる。


 そして——色が変わっていた。


 銀泉楼の湯は白濁している。それがこの温泉の特徴であり、誇りだった。地脈の魔力を含んだ源泉水が空気に触れて白く濁り、微かに銀泉草の香りがする。全盛期には「銀の湯」と呼ばれ、治癒効果は王国でも指折りだった。


 今、浴槽の湯は——透明だった。


 白濁が消えている。銀泉草の香りもない。ただの、温い水。


 地脈の魔力が抜けている。


 「ハンナさん」


 「……わかってるよ、お嬢」


 ハンナさんが湯から手を上げた。水滴が指先から落ちる。


 「ローザ様のときと——同じだ」




 被害は銀泉楼だけに留まらなかった。


 午前中に、町中から報告が集まった。


 「蒸し室の蒸気が弱くなっています」


 ユーディットが厨房から戻って報告する。源泉蒸しの調理に使う蒸気——銀泉楼の看板料理の核が、力を失いつつあった。


 「棚田の水も……温度が下がっとる」


 ヴァルターさんがテラスに立って、低い声で告げた。節くれだった手に土がついたままだ。朝一番で棚田を確認しに行ったのだろう。


 「冬の地脈水が冷たくなったら、苗床がもたん。来春の作付けに響く」


 養魚場も同じだった。水温が下がれば谷鱒の活動は鈍る。チーズの仕込みに必要な霧山羊の乳量にも影響が出る。


 地脈は、この谷の全てを支えていた。


 温泉だけの問題じゃない。農業も、漁業も、畜産も——全部が連鎖している。


 手帳を開いた。


 数字を並べる。前世のコンサルタントの頭が、自動的に計算を回し始める。


 源泉温度三十四度。入浴には低すぎる。加温すれば営業できるが、薪のコストが嵩む。


 泉質の低下。銀泉草の香りが消え、治癒効果はほぼゼロ。温泉としての価値が——ない。


 このまま下がり続ければ、一週間で源泉は完全に止まる。


 ペンが止まった。


 どの数字を見ても、結論は一つだった。




 宿泊客への対応を始めた。


 全客室を回る。頭を下げる。


 「大変申し訳ございません。源泉に一時的な不調がございまして——」


 商人の客は困った顔をした。


 「温泉が目当てで来たんだがな。まあ、仕方ないか」


 老夫婦は穏やかに笑ってくれた。


 「戻ったらまた来ますよ。待ってるから、頑張ってね」


 その言葉に、唇を噛んだ。


 子連れの家族は、お父さんが申し訳なさそうに言った。


 「子どもが楽しみにしてたんです。温泉の白いお湯……また入りたいって」


 隣で小さな女の子が、眠そうな目をこすりながら私を見上げている。


 「……ごめんね。おねえさん、必ず温泉を取り戻すから」


 笑顔を作った。作れたかどうかは、わからない。




 午後。ノアが地下源泉で一人、分析を続けていた。


 階段を降りると、計測器に向き合う背中が見えた。暗い地下通路で、探査魔法の青白い光だけがノアの横顔を照らしている。


 「何かわかった?」


 「ああ」


 ノアが計測器を岩壁から離した。


 「西脈のアンカーの位置が絞り込めた。東脈の方角——棚田の地下水路の近くだ」


 「撤去できる?」


 「理論上は。だが二十年前の北脈・東脈のアンカーとは術式が違う。新しい。設置を急いだ形跡がある——隠蔽が雑だ」


 ノアが私の方を向いた。深い緑の目に、暗い炎がある。


 「セラ。今は北脈のアンカー解除が先だ。北脈が戻れば、西脈への圧力も緩む可能性がある」


 「北脈のアンカーは……前に見つけた、霧峰山中腹の洞穴の石柱でしょう?」


 「ああ。あの石柱の防護術式を解除する方法を研究している。もう少し時間がいる」


 ノアの手が拳を握った。


 リンドヴァルの記憶。あのときも——地脈が弱まって、町が死んでいった。ノアの故郷が消えたのは、同じ構造だった。


 「今度は違う。今度は、間に合わせる」


 低い声だった。自分に言い聞かせるような——でも、確信を含んだ声だった。




 夜。


 銀泉楼の奥座敷に、全員が集まった。


 囲炉裏の炭が赤く燃えている。窓の外は闇。初冬の風が木枯らしの音を立てている。


 ハンナさん。ノア。ユーディット。リュカ。ガルド。マリカさん。


 六つの顔が、囲炉裏の光に照らされている。


 「現状を報告します」


 声が——自分でも驚くほど、落ち着いていた。震えていないのが、逆に怖い。


 「源泉温度は三十四度まで低下。泉質も著しく悪化しています。このままでは、一週間以内に源泉が止まる見込みです」


 沈黙が落ちた。囲炉裏の炭がパチリと爆ぜた。


 最初に口を開いたのは、ユーディットだった。


 「温泉が止まっても、飯は出せる。厨房は死なねぇ」


 赤銅色の髪を雑に束ねた料理長が、腕を組んで言い切った。深い緑の目に迷いがない。


 「蒸し料理が無理なら、煮込みと焼きで回す。食材は谷のものがある。腕がなくなったわけじゃねぇだろ」


 ガルドが続いた。


 「建物は守る。冬の冷え込みで配管が凍結しないよう、今のうちに養生する。——じいさんの旅館は壊させねぇ」


 マリカさんが背筋を伸ばした。


 「お客様への対応は私が引き受けます。事情を説明して、源泉復旧の見通しをお伝えします。——逃げません」


 リュカが拳を握った。


 「俺も厨房っす。ユーディット師匠と一緒に、飯は止めないっす」


 ハンナさんが、最後に口を開いた。


 「ローザ様のときも、源泉が弱まった。でもあの人は最後まで宿を閉めなかったよ」


 灰色の目が、私をまっすぐ見ている。


 「お嬢。あんたはどうするんだい」


 六人の目が、私に集まっている。


 囲炉裏の炎が揺れる。影が壁に踊る。


 息を吸った。


 「——閉めない」


 声が出た。震えなかった。


 「絶対に、閉めない」


 ハンナさんが小さく頷いた。ガルドが鼻を鳴らした。ユーディットが口角を上げた。マリカさんの目が潤んで——でも、泣かなかった。ノアは壁にもたれたまま、深い緑の目で私を見ていた。何も言わなかった。何も言わなくてよかった。


 「源泉は——取り戻す。方法はある。ノアが地脈の調査を進めてくれている。時間はかかるけれど、必ず」


 「必ず、なんて言うなよ、嬢ちゃん」


 ガルドが口を挟んだ。でも声は荒くなかった。


 「必ずなんて言わなくていい。——やるだけだろうが」


 「……うん。やるだけだね」


 笑った。笑えた。みんなの前では——笑えた。




 みんなが部屋を出た後、一人になった。


 囲炉裏の火が弱くなっている。炭が白い灰に覆われて、赤い光が褪せていく。


 窓の外に、冬の星が見えた。澄んだ空気の中で、星が痛いほど光っている。


 手帳を開いた。


 今日の数字を書こうとした。源泉温度。湯量。コスト試算。損益分岐。人員配置。——いつもやっていること。前世から数えて何千回とやってきたこと。


 ペンを紙に当てた。


 インクが一つ、点を落とした。


 ……そこから先が、書けなかった。


 数字が浮かばない。戦略が組めない。分析ができない。


 ペンを持つ手が——震えている。


 「……」


 手帳を見下ろした。白いページに、黒い点が一つだけ。


 何も書けない。


 初めてだった。


 前世の宮原咲良みやはらさくらとして数百冊のノートを書き潰してから——二つの人生を通して、手帳に何も書けなかったのは、初めてだった。


 手帳を閉じた。胸に抱えた。


 囲炉裏の最後の赤い光が消えた。


 暗い部屋で、一人。


 銀泉楼の廊下を、冬の隙間風が吹き抜けていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ