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追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります  作者: 歩人


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第50話: 碧泉宮の影

 碧泉宮へきせんきゅうは——圧倒的だった。


 白亜の建物が冬の陽光に輝き、正門から本館まで続く並木道には魔導灯が灯る。葉を落とした並木の枝に吊るされた球体が、白昼でも淡く光っている。贅沢な使い方だった。


 客室五十。大浴場五つ。レストラン三つ。使用人の数だけで、銀泉楼の宿泊者を超えるだろう。


 「……これが、あの人の宿」


 隣でマリカさんが呟いた。声が硬い。




 碧泉宮への偵察を決めたのは三日前だった。


 ヴィクトールが銀泉楼を訪れ、買収提案を断った翌朝——私は手帳に書いた。「敵を知り己を知れば百戦殆あやうからず」。前世で何百回と繰り返したコンサルの基本中の基本。


 「碧泉宮の実態を見ないと、戦略が立てられない」


 朝食の席でそう言った時、最初に手を挙げたのはマリカさんだった。


 「私が案内します。翡翠殿にいた頃の知り合いに予約を取ってもらいました」


 声は落ち着いていた。でも、湯呑を持つ指先が白かった。


 ノアが眉を寄せた。「危険だ。顔が割れたら——」


 「変装します。髪を上げて、化粧を変えれば大丈夫です。それに——」


 マリカさんが私を見た。濃紺の目に、覚悟の色がある。


 「あの場所を知っているのは、私だけですから」


 ハンナさんが腕を組んだ。「お嬢、あんたも行くのかい」


 「もちろん。自分の目で見なきゃ、数字の意味がわからない」


 ハンナさんが鼻を鳴らした。「マリカ、お嬢を頼んだよ。あんたたち二人なら大丈夫さ」




 馬車に揺られて幾日。王都グランシュタットの手前で街道を逸れると、なだらかな丘陵地帯に碧泉宮が現れた。


 正門をくぐった瞬間、息を呑んだ。


 ロビーの天井が、高い。シャンデリアが七つ。大理石の床に私たちの靴音が響く。使用人が一糸乱れぬ動きで客を案内し、受付の女性が完璧な笑顔で宿帳を差し出した。


 「ご予約のシュトラウス様でございますね。お部屋にご案内いたします」


 偽名の予約。マリカさんの手配は完璧だった。


 案内された客室は広かった。家具は全て特注品で、窓からは庭園と遠くの王都の尖塔が見える。調度品の配置に無駄がない。花瓶の花は季節のもので、香りが部屋全体に行き渡るように計算されている。


 ——前世のコンサルの目が、勝手に動き出す。


 手帳を開いた。項目を書き並べる。客室面積、家具の質、窓からの眺望、アメニティの数。どれを取っても銀泉楼の三倍以上の投資額。規模が違う。資本が違う。


 「セラさん」


 マリカさんが窓際に立っていた。「接客のレベルを見てきます。ロビーと廊下の動線を確認したい」


 「お願い。私は大浴場を見てくる」




 大浴場は——巨大だった。


 白い大理石の浴槽が、体育館ほどの広さに広がっている。天井のガラス窓から冬の陽光が差し込み、湯面がきらきらと光っていた。湯は透明で、微かに青い光を帯びている。


 脱衣所で着替え、湯に入った。


 温かい。成分も悪くない。肌が滑らかになる感触がある。


 でも——何か、足りない。


 銀泉楼の源泉に初めて浸かった時のことを思い出す。あの時は体の芯から温もりが染み込んできた。骨の奥まで届くような、生きた温泉の力。銀泉草の香りが鼻腔を抜けて、疲れが溶けていくような——あの感覚が、ここにはない。


 表面だけだった。


 肌は温まる。でも芯まで届かない。温泉の「個性」が薄い。高級な入浴剤を入れた大きな風呂——前世で言えば、そんな印象。


 手帳は湯に持ち込めないから、頭の中にメモする。


 「泉質——悪くないが深みがない。地脈から無理に引いた魔力だから、源泉としての力が薄い。ノアに分析してもらう必要がある」


 浴槽の縁に腕を載せて、周囲を観察した。


 客が、三人いた。


 貴族の婦人が二人と、商人風の男性が一人。三人とも静かに湯に浸かっている。


 ——笑っていない。


 銀泉楼の大浴場で見た光景を思い出す。常連のお客様が「ああ、生き返る」と声を上げて笑った顔。初めて来た旅人が「こんな温泉は初めてだ」と目を丸くした顔。子供が湯船で「あったかい!」とはしゃいだ声。


 ここには、それがない。


 完璧な施設。隙のない空間。でもお客様の表情が硬い。リラックスしていない。


 高級旅館のジレンマ——前世でも何度も見た。格式が高すぎて、客が緊張する。「間違ったことをしてはいけない」という空気が漂って、くつろげない。


 湯から上がり、脱衣所で着替えながら考えた。


 碧泉宮の弱点——一つ目。泉質が薄い。




 廊下でマリカさんと合流した。


 マリカさんの顔色が変わっていた。濃紺の目が、怒りとも悲しみともつかない光を帯びている。


 「どうだった?」


 「……翡翠殿と同じです」


 声が低い。


 「完璧だけど、冷たい。使用人の動きは一流です。マニュアルが隅々まで行き渡っている。でも——目が笑っていない」


 「やっぱり」


 「お客様の荷物を持つ仕草、案内の言葉遣い、お辞儀の角度。全て完璧。でもそこに心がない。お客様を見ていない。マニュアルを見ている」


 マリカさんの唇が引き結ばれた。


 「宿ではなく、施設。お客様が『帰ってきた』と思える場所——ハンナさんの言葉を借りるなら、ここはそういう場所じゃない」


 碧泉宮の弱点——二つ目。接客に心がない。


 廊下を歩きながら、もう一つ気づいたことがある。使用人たちの表情だ。完璧な笑顔の裏に、疲労が見えた。目の下の隈。動きの中に滲む緊張。失敗が許されない空気。


 「マリカさん。使用人の待遇、わかる?」


 「翡翠殿の時と同じ構造なら——長時間労働、低賃金、厳しい管理。辞める人が多くて、常に新人を入れている。だから接客の質が安定しない」


 「搾取型経営——」


 碧泉宮の弱点——三つ目。ヴィクトールの経営は「搾取」であって「育成」じゃない。人を使い潰す仕組みだ。




 レストランで昼食を取った後、ロビーに戻ろうとした時だった。


 マリカさんの足が、止まった。


 廊下の向こうから、一人の男が歩いてきた。五十代半ば。痩せた体に仕立ての良い制服。支配人の肩章をつけている。


 マリカさんの手が、私の腕を掴んだ。指が震えている。


 「あの人です」


 声が、掠れていた。


 「私に情報を集めさせていた支配人。……まだ、あの顔をしている」


 支配人が近づいてくる。愛想のいい笑みを浮かべて、客に会釈しながら通り過ぎようとしている。


 私たちの前を通った。


 一瞬——支配人の目がマリカさんに留まった。


 心臓が跳ねた。


 でも支配人は軽く会釈しただけで、そのまま通り過ぎていった。変装が功を奏した。あるいは、一介の仲居だった女のことなど、もう覚えていないのかもしれない。


 マリカさんが壁にもたれかかった。額に汗が浮いている。


 「大丈夫?」


 マリカさんの手を握った。冷たい。


 「……大丈夫です。すみません」


 「謝らないで。——今は偵察。情報を持ち帰ろう」


 マリカさんが深く息を吐いた。それから、ゆっくりと背筋を伸ばした。


 「セラさん。——あの人の下で働いていた頃の私は、操り人形でした。完璧な接客で貴族の信頼を得て、情報を流す。それが私の仕事だった」


 濃紺の目が、まっすぐ私を見た。


 「でも今は違います。今の私は——銀泉楼の仲居です」


 その一言に、一年分の葛藤が詰まっていた。




 帰りの馬車の中で、もう一つ気づいたことを話した。


 「マリカさん。ロビーの宿帳……ちらっと見えたんだけど」


 「はい」


 「ルヴェール伯爵家の名前があった。イルマの名前で予約が入っていた」


 マリカさんが眉を上げた。


 「継母が碧泉宮の常連だったなんて——繋がっていたのかもしれない。父上とイルマがヴィクトール侯爵と」


 「アシュフォード侯爵は、小さな貴族を取り込むのが上手い方です」


 マリカさんの声に、経験に裏打ちされた確信があった。


 「翡翠殿では、そうした貴族の弱みを握って影響力を広げるのが常套手段でした。ルヴェール伯爵家も——」


 言葉が途切れた。マリカさんは私の顔を見て、それ以上は言わなかった。


 「……いいの。言って」


 「失礼かもしれませんが——セラさんの追放にも、侯爵の意向が絡んでいた可能性があります」


 車窓の外を、冬枯れの街道が流れていく。


 あの「辺境貴族処理台帳」。ヴィクトールの書斎にあるという帳簿。そこにルヴェール家の名前が——いや、もう推測の域を出ない。


 でも。


 ヘルマンが言っていた。「継母が仕切ってから坂を転げ落ちてる」と。


 もしイルマがヴィクトールに操られていたなら——私の追放も、この谷に流れ着いたことも、偶然ではなかったのかもしれない。


 手帳を開いた。碧泉宮の分析をまとめる。


 「碧泉宮の弱点は三つ」


 声に出した。マリカさんが頷く。


 「一つ、泉質が薄い——地脈から無理に引いているから、温泉としての深みがない。源泉の力が本物じゃない」


 「二つ、接客に心がない——大規模施設の宿命。マニュアルは完璧でも、お客様を見ていない。宿ではなく施設」


 「三つ、ヴィクトールの経営は搾取であって育成じゃない——人を使い潰す仕組みは、長期的には崩壊する」


 ペンを止めた。


 「銀泉楼が碧泉宮に勝てる要素は、確実にある。規模じゃない——質で勝つ」


 マリカさんが少し笑った。この人が笑うのは珍しい。


 「セラさん。碧泉宮の顧客名簿に、私の知っている名前がいくつかありました」


 「え?」


 「王都の貴族で、ヴィクトール侯爵と敵対関係にある方もいます。碧泉宮を利用しながら、内心では侯爵を快く思っていない人たち。——使えるかもしれません」


 その情報は、金貨よりも重い。




 銀泉楼に戻ったのは、日が暮れてからだった。


 玄関を開けた瞬間、銀泉草の湯の香りが鼻を包んだ。源泉の温もりが壁から伝わってくる。廊下は少し軋むし、天井は低いし、シャンデリアなんてない。


 でも——帰ってきた、と思った。


 ハンナさんが囲炉裏の前に座っていた。「おかえり、お嬢。マリカ、無事かい」


 「はい。ただいま」


 マリカさんの声が、行きの馬車より柔らかかった。


 ノアが応接間で待っていた。地脈計測器を手に、こちらを見上げる。深い緑の目が一瞬私の顔を隅々まで確認するように動いて——無事を確かめたのだと気づいたのは、少し後だった。


 「どうだった」


 手帳を広げた。碧泉宮の間取り、客室の配置、大浴場の構造、泉質の印象。書き込んだメモを一つずつ説明していく。


 ノアが眉を寄せた。「泉質が薄い——か。地脈から導管術で引いた魔力は、元の源泉に比べて情報量が落ちる。鉱物組成が単純化するんだ。だから深みがない」


 「やっぱり」


 「碧泉宮の湯は、地脈の力を搾り取った搾りかすだ。本物の源泉には——勝てない」


 ノアの深い緑色の目が、私を見た。


 「北脈のアンカーを解除できれば、銀泉楼の泉質は全盛期に近づく。碧泉宮との差は、さらに開く」


 「うん。わかった」


 手帳を閉じた。


 碧泉宮は圧倒的だった。規模も、資本も、立地も。正面からぶつかれば、勝ち目はない。


 でも——弱点は見えた。


 「碧泉宮の弱点はわかった。あとは——」


 窓の外を見た。冬の夜空に、銀泉楼の煙突から湯気が上がっている。


 「——こちらの強みを、守りきれるかどうか」

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