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追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります  作者: 歩人


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第49話: 侯爵の招待状

 初冬の朝、銀泉楼の玄関に馬車が止まった。


 普通の馬車じゃない。漆黒の車体に銀の装飾、四頭立て。御者の制服には月と泉を象った紋章が刺繍されている。


 帳場で帳簿をつけていた私は、窓から馬車を見下ろして手を止めた。


 御者が降りてきて、恭しく一通の封書を差し出す。乳白色の封筒。蝋印には鷲が剣を掴む紋章——アシュフォード侯爵家。


 「セラフィーナ・ルヴェール嬢宛てでございます」


 御者は封書を渡すと一礼して馬車に戻り、そのまま去っていった。


 封筒を開いた。中には二通。一通は碧泉宮の招待状。金箔が押された正式な書式だ。もう一通は——手書きの短い書簡。


 「セラフィーナ嬢。あなたの手腕には感服しております。一度お話しする機会をいただけませんか。碧泉宮にてお待ちしております——ヴィクトール・アシュフォード」


 丁寧な筆跡。知的な文面。一文字の無駄もない。


 ——でも、これは招待じゃない。


 召喚だ。




 囲炉裏の間に、いつもの顔が揃った。


 ハンナさん、ノア、マリカさん、ガルド。封書を机に広げて、全員に見せた。


 最初に口を開いたのはノアだった。


 「罠だ。行くべきじゃない」


 腕を組んで壁にもたれたまま、低い声で断じる。


 「相手の本拠地に出向けば、こちらの情報を抜かれる。偵察されるのは俺たちの方になる」


 マリカさんが静かに続けた。


 「……碧泉宮を見る機会ではあります。あの施設の内部を知れば、敵の全容が見える。接客の質、顧客層、動線設計——私が見れば読み取れます」


 ハンナさんが湯呑を机に置いた。


 「相手の懐に入れるなら入りな。逃げたら舐められるよ、お嬢」


 ガルドが黙って腕を組んでいる。こういう駆け引きの話では、この人はあまり口を出さない。戦う相手が決まれば全力で叩くが、それまでは聞く側に回る。職人気質だ。


 四人の意見を聞いた。


 手帳を閉じた。


 「行く」


 ノアの目が鋭くなった。


 「——でも、碧泉宮には行かない」


 全員の視線が集まる。


 「こっちの土俵で迎え撃つ。アシュフォード侯爵に返書を送る。『旅館の営業がございますので王都までは参れません。もしよろしければ、当館にお越しくださいませんか』——と」


 ノアの眉が動いた。「……来るか?」


 「来る」


 断言した。前世のコンサル時代、何度も見てきた。買収を持ちかける側は、断られることを想定していない。相手が条件を飲む前提で動いている。だから「来い」と言えば来る。自分の条件を通せる場所なら、どこへでも。


 「来なかったらそれまで。でも来たなら——この旅館で、私の言葉で話す。侯爵の書斎じゃなく、銀泉楼の応接間で」


 ハンナさんが、にやりと笑った。


 「あんた、やっぱりローザ様に似てきたね」




 三日後。


 ヴィクトール・アシュフォードが、来た。


 銀泉楼の前に止まった馬車は、招待状を届けた時と同じ四頭立ての漆黒。だが今度は御者の他に護衛が二人ついている。


 玄関の前に立って待った。隣にマリカさん。二人で正面玄関に並ぶ。マリカさんの所作は完璧だった。王都の高級旅館で鍛えた立ち姿が、ここで活きている。


 馬車の扉が開いた。


 最初に見えたのは、靴だった。黒い革靴。手入れが行き届いている。


 次に脚。仕立ての良いグレーのスラックス。


 そして——長身が馬車から降り立った。


 銀灰色の髪をオールバックに撫でつけた、五十代半ばの男。背筋が真っ直ぐで、肩幅が広い。フォーマル服の胸に、鷲と剣の紋章。


 微笑んでいた。


 穏やかで、温かそうな微笑み。社交界で百戦錬磨の、完璧な笑顔。


 ——でも目が笑っていない。


 灰色の瞳だけが冷たくて、まるで帳簿を読むように私を見ていた。


 「セラフィーナ嬢。お招きいただき感謝します」


 低い声。よく通る。声にも隙がない。


 「ようこそ、銀泉楼へ。アシュフォード侯爵」


 頭を下げた。令嬢の礼ではなく、旅館の女将の礼で。


 ヴィクトールが銀泉楼の外観に目をやった。修復された木造三階建て。屋根瓦の一枚一枚をガルドが手で直した建物。白壁、格子窓、煙突から立ち昇る湯煙。


 「——思ったより、良い建物ですね。骨格が生きている」


 声に、微かな驚きがあった。


 この人、建物を見る目がある。


 経営者だ——私と同じ種類の。




 応接間は銀泉楼で一番いい部屋を使った。


 十二畳の和室。障子越しに庭が見える。ガルドが直した縁側の向こうに、紅葉の名残を残す楓が一本。


 マリカさんが茶を運んできた。銀泉草のお茶。器は町の窯元、フリッツさんの師匠が焼いたもので、素朴だが手に馴染む。


 ヴィクトールが茶碗を持ち上げた。一口含む。


 「……良い茶器ですね。量産品ではない」


 さすがだと思った。一口で見抜くか。


 「町の職人の作です。では——ご用件を伺います」


 単刀直入にいった。前世でも今世でも、回りくどい駆け引きは性に合わない。


 ヴィクトールの口元が微かに緩んだ。


 「合理的な方だ。回りくどいのはやめましょう」


 茶碗を置いた。灰色の目が、まっすぐ私を見る。


 「ミストヴァレーの全権利を、私が買い取りたい」


 空気が変わった。


 「旅館、農地、源泉権。全てです」


 「対価は金貨五千枚。現在の資産価値の三倍以上です。——悪い取引ではないはずだ」


 金貨五千枚。


 銀泉楼の年間売上の何十倍にもなる。ミストヴァレーの全住民が一生働いても届かない金額。数字としては——破格だった。


 手帳を開いた。


 数字を確認するふりをした。ページをめくる。棚田の収穫量、養魚場の出荷数、宿泊者数の推移。自分が半年かけて積み上げてきた全ての数字。


 ——閉じた。


 「お断りします」


 ヴィクトールの表情は変わらなかった。微笑みのまま。でも灰色の目が、ほんの一瞬だけ細くなった。


 「……理由を伺っても?」


 「この町の価値は、金貨では計れません」


 「それは感情論です、セラフィーナ嬢。経営者として、数字で判断すべきでは?」


 「数字も見ています」


 手帳を開き直した。今度は本気で。


 「この町の成長率。半年で宿泊者数ゼロから月間百二十人。一次産業の再生率。棚田、養魚場、牧場、林業——全て黒字化が見えている。六次産業化による付加価値。収穫祭の来場者百五十八人、売上金貨十二枚。——五年後のポテンシャルは、五千枚どころじゃない」


 ヴィクトールの目が——変わった。


 冷たいままだったが、そこに何か別のものが混じった。驚き、ではない。観察だ。獲物を見定める目。


 「なるほど。……あなたは優秀ですね、セラフィーナ嬢」


 声が一段低くなった。


 「だからこそ理解できるはずだ。勝てない相手がいるということを」


 「勝てないかどうかは、やってみないとわかりません」


 微かな沈黙。


 囲炉裏の炭が爆ぜる音が、やけに大きく聞こえた。


 ヴィクトールが立ち上がった。動作に無駄がない。五十五歳の身体が、まるで三十代のように滑らかに動く。


 「残念です。——良い返事をいただけると思っていたのですが」


 微笑みを崩さない。最後まで完璧な紳士だった。


 「碧泉宮にもいつでもいらしてください。……比較してみれば、ご判断も変わるかもしれません」


 ——比較。


 碧泉宮と銀泉楼を、比べろと言っている。五十室と十二室を。百人の使用人と七人のスタッフを。侯爵の資産と追放令嬢の手帳を。


 「お見送りします」


 立ち上がって、玄関まで案内した。マリカさんが先導し、私が後ろに続く。完璧な動線。マリカさんの王都仕込みの接客が、一瞬の隙も見せなかった。


 馬車に乗り込む直前、ヴィクトールが振り返った。


 銀泉楼の玄関を、もう一度見上げた。


 「良い宿ですね」


 ——今度は、目も微かに笑っていた気がした。


 それが余計に怖かった。




 馬車が去った後、応接間にマリカさんが入ってきた。


 顔が青かった。


 「マリカさん?」


 「あの方です」


 声が震えている。膝の上で握り合わせた手が、白くなっている。


 「翡翠殿の支配人に命令を出していた人。声を聞いて……思い出しました。あの声だけは、忘れられない」


 マリカさんは翡翠殿で花形仲居だった。その裏で、知らないうちにヴィクトールの情報収集の道具にされていた。支配人を通じて——あの穏やかな声で命令する男の、道具に。


 「大丈夫、マリカさん」


 手を取った。冷たい。


 「もう翡翠殿にはいない。ここにいる。銀泉楼に」


 マリカさんが目を閉じた。深呼吸した。それから——目を開けた時には、いつものマリカさんに戻っていた。


 「……はい。ありがとうございます、セラさん」


 強い人だと思う。自分の弱さを知っていて、それでも立ち上がれる人。




 夕方、ヘルマンが荷馬車で立ち寄った。


 行商人のヘルマンは月に二度ほどミストヴァレーに来る。雑貨と日用品を運んできて、帰りに霧杉炭や地脈米を積んで町に戻る。いつも土産話をたくさん持っている。


 「セラフィーナ嬢、王都で面白い噂を聞いたぞ」


 帳場のカウンターに肘をついて、にやにやしている。


 「ルヴェール伯爵家——あんたの実家だろう? 経営が傾いてるって話だ」


 手帳を持つ手が、一瞬だけ止まった。


 「継母が領地経営を仕切ってるらしいが、商人仲間の間じゃ『長女を追い出してから坂を転げ落ちてる』って評判だ。税の計算は間違える、商人との交渉は下手を打つ、領民は不満を溜めてる——まあ、お嬢さんが一人でやってたことを、あの継母じゃ到底回せんわな」


 「……そう」


 それだけ言った。


 ヘルマンが帰った後、テラスに出た。


 初冬の夕暮れ。山の端に日が沈みかけている。吐く息が白い。


 足音がして、ノアが隣に来た。


 「気になるのか」


 「少しだけ」


 嘘ではなかった。あの家を追い出されたことは、今でも胸の奥に刺さっている。父の冷たい目、継母の勝ち誇った笑み——忘れてはいない。


 でも。


 「今は、目の前のことが先」


 視線を谷に向けた。棚田は刈り取りが終わって茶色い。霧杉の森は葉を落とし始め、煙突からは夕餉の煙が昇っている。


 この景色を守ること。この町の人たちを守ること。それが今の私の仕事だ。


 ノアが何も言わずに隣に立っていた。


 風が冷たかった。でも——銀泉楼の壁からは、源泉の温もりが伝わってきていた。




 エルデン街道を、漆黒の四頭立て馬車が走っていた。


 防音の効いた車内で、ヴィクトール・アシュフォードは銀のグラスにグランシュタット産の赤ワインを注いだ。


 あの旅館は、骨格が良かった。修復の腕も悪くない。だが最も厄介なのは——あの女の目だ。数字を読む目。経営者の目。


 非合理的な要素に人は集まる。それは二十年間の経験が教えていた。あの温泉街には、既にそれが芽生え始めている。半年であの成長率。放置すれば面倒なことになる。


 グラスを傾けた。赤い液体が揺れる。


 買収は断られた。交渉の余地はない。ならば——すでに手配済みの策を粛々と実行するのみ。追加アンカーの設置は完了した。間もなく効果が現れるだろう。


 窓の外に、王都グランシュタットの尖塔が見え始めていた。


 「では、次の手を」


 グラスを置いた。銀の縁が、かちりと音を立てた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 第五章「嵐の中の灯」、開幕です。


 ヴィクトール・アシュフォード——この物語の黒幕が、ついに直接登場しました。これまで書簡や手下を通じて影だけを見せていた男が、銀泉楼の応接間にセラと向き合って座る。書いていて緊張感がありました。


 二人の対話は「同じ経営の言語を話すが、価値観が根本的に違う」ことを描きたかったシーンです。セラもヴィクトールも数字で考える。でもセラの数字には「人」が入っていて、ヴィクトールの数字には入っていない。金貨五千枚という破格の提示を即座に断るセラの強さ——それは手帳の数字だけでなく、半年間この町で暮らし、人々と過ごした時間が支えています。


 そしてヘルマンが運んできたルヴェール家の噂。実家の凋落は、最終章で回収される伏線です。


 次話、碧泉宮の偵察へ。マリカさんの過去が再び試される回です。お楽しみに。


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