第44話: 谷の恵み祭——宴の夜
日が傾き、松明に火が灯ると、谷が橙色に染まった。
広場の中央に、ユーディットが立った。
「今夜は——この谷の全てを、食べてもらう」
腕を組んだその声に、午前中から会場を走り回っていた来場者たちの視線が集まる。赤銅色の髪を雑に束ねて、前掛けに粉と炭の跡がついている。でもその目は——獣が獲物を前にしたときのように、鋭く、熱く光っていた。
ユーディットの宣言で、収穫祭は午後の部に入った。
広場の東側に据えられた仮設テーブルに、白い布がかけられている。その前で、イルゼさんが搾りたてのミルクの入った鍋を火にかけていた。
「はい、集まって。これから、みんなの手でチーズを作るわよ」
子供連れの家族、ヘルマンさんの商人仲間、好奇心旺盛な若い女性客——十人ほどが半円を描いてイルゼさんを囲む。
「チーズってね、生き物なの。温度を変えれば機嫌が変わるし、時間が経てば性格が変わる」
鍋の中で温められたミルクが、ほんのり湯気を立てている。甘い、草の匂い。霧山羊のミルクの匂いだ。イルゼさんが温度計を覗き込み、凝固剤を少しずつ加えた。
「ここからが大事よ。温度は三十八度。高すぎると硬くなるし、低すぎると固まらない。赤ちゃんを抱くように、優しくね」
白いミルクが、静かに変化していく。液体の中に、もろもろとした塊——カードが浮かび上がる。イルゼさんが細いナイフでそっと十字に切ると、透明なホエイがじわりと滲み出した。
「さあ、やってみて」
客の一人——恰幅のいい獣人の男性が、おそるおそる鍋に手を入れた。カードを掬い上げようとして、力が入りすぎて崩れる。
「あっ……」
「大丈夫、大丈夫。もうちょっと優しく。そう——上手、上手」
イルゼさんの手が、客の手に添えられる。指先の感覚で導いて、カードを型に移していく。子供が「あたしもやりたい!」と跳ねて、イルゼさんが笑いながら小さな型を渡した。
出来上がったばかりのフレッシュチーズを、小皿に分ける。イルゼさんが琥珀色の小瓶を取り出した——霧蜜だ。
スプーンで一匙、とろりとチーズの上にかける。
客が一口食べて——目を丸くした。
「……何これ。チーズと蜂蜜って、こんなに合うの?」
「塩気と甘みが溶け合うでしょう? お母さんが教えてくれた食べ方なの」
イルゼさんが笑った。明るくて、温かい笑顔。でもその目の端が、ほんの一瞬だけ光った。
「……お母さん。見てる? あたし、人に教えてるよ」
小さく呟いた声は、周りの歓声に紛れて、たぶん誰にも聞こえなかった。
——でも、私には聞こえた。
手帳にメモを取る振りをして、目の奥が熱くなるのを堪えた。
午後四時。秋の日が傾き始めると、空気がひんやりと冷たくなった。
一日中、稲刈りに渓流釣りにチーズ作りにと体を動かし続けた来場者たちの足が、自然と坂の上に向かう。
銀泉楼の正面玄関。
「谷の恵み祭 特別日帰り入浴——ようこそ」
マリカさんが、玄関に立っていた。
黒髪を低い位置でまとめ、背筋をまっすぐに伸ばしている。微笑みは完璧で、声は柔らかいのに芯がある。王都の高級旅館で花形仲居と呼ばれた女性の、これが本領だ。
「一日、お疲れ様でした。お湯が心と体を癒してくれますよ」
手拭いと着替えの案内。脱衣所への誘導。湯上がりの休憩処の説明——一つひとつの所作に無駄がなく、客が何か聞こうとする前に答えが用意されている。
初めて来た客が、マリカさんに導かれるまま大浴場の引き戸を開けた。
白い湯気がぶわっと溢れ出す。
露天風呂の向こうに、秋の夕暮れが広がっていた。
棚田が茜色に染まっている。刈り取りを終えた田と、まだ黄金色の穂が残る田が、段々と折り重なって山の麓まで続いていく。空が橙から紫へ、そして藍色へとゆっくり変わっていく。その中に、銀嶺連山の稜線が黒い影を落としていた。
源泉の湯は微かに白く濁り、銀泉草の甘い香りがする。体を沈めると、肌にまとわりつくような、とろりとした柔らかさ。指先から、足の裏から、一日の疲れがじんわりと溶けていく。
「……なんだこれ。体が溶ける」
さっきまで渓流で竿を振っていた獣人の男性客が、湯に浸かって天を仰いだ。
「この泉質、碧泉宮より——」
その先は言わなかった。でも、表情が全てを語っていた。
私は脱衣所の影からそっと覗いて、手帳に書いた。
——温泉の力は、本物だ。
日が落ちた。
松明と魔導灯が広場を橙色に照らす中、長テーブルが三列に並んだ。
谷の住民と来場者が、一緒に席に着く。ヴァルターさんが一番端の席で腕を組み、フリッツさんの娘アンナが隣で足をぶらぶらさせている。トビアスさんが無言で盃を掲げ、ヘルマンさんが隣の商人仲間と大声で笑い合っている。
エミールさんが立ち上がった。
「皆さん。ミストヴァレー収穫祭、夜の宴を始めます。——料理長、お願いします」
声が震えていなかった。十五年間、何もできなかった町長の声が、今夜は広場の隅まで届いた。
ユーディットが厨房テントから歩み出る。隣にリュカ。二人ともまっさらな前掛けに着替えていた。
「今夜出す料理は、全部この谷で獲れた食材だけで作った。棚田の米、川の魚、丘のチーズ、森の茸、蜂の蜜——一つ残らず、谷の恵みだ」
ユーディットの声が、夜の広場に低く響く。
「二十年前、銀泉楼の料理長ヨハン・トルネが書き残した献立がある。あたしはそれを——この谷の食材で、再現した」
リュカが唇を引き結んでいる。父の名前を聞いて、目が赤い。
「いや——再現じゃない。進化させた」
ユーディットが口角を上げた。
「食え」
先付。銀泉草の白和え。
白い小鉢に盛られた豆腐は、地脈水で作った自家製の地脈豆腐だ。絹よりもなお滑らかで、箸で持ち上げると微かに震える。
銀泉草の若葉を細かく刻んで和えてある。口に含むと——豆腐が舌の上で溶けた。溶けながら銀泉草の清涼な香りが鼻に抜ける。塩はほんのひと撫で。素材の味だけで完成している。
「……これが前菜?」
ヘルマンさんが目を瞠った。「最初からこんなに旨くて、大丈夫なのか?」
椀物。霧茸の源泉蒸し吸い物。
蓋を開けた瞬間、湯気と一緒に深い旨味の香りが立ち昇った。黄金色に澄んだ出汁の中に、銀色の茸が三枚、花びらのように浮かんでいる。
源泉の蒸気で蒸した霧茸は、生のときの三倍は旨味が凝縮される。それをそのまま吸い物にした。出汁は霧茸の戻し汁と源泉水だけ。塩をひとつまみ。
一口含んで——息を止めた。
森の奥の、霧が溜まる場所の匂いがする。苔と土と、微かな花の香り。それが全部、液体になって舌を包んでいる。
隣の席のカーリンさんが、無言で二口目を掬った。三口目。四口目。気がつけば、椀を傾けて最後の一滴まで飲み干していた。
造り。谷鱒の薄造り。
温泉養殖の谷鱒を初めて刺身にした。薄く引いた身は、紅い色が透き通って、皿の白い陶器の模様が見えるほどだった。
霧蜜を少量混ぜた醤油を添える。紅い身に琥珀色の醤油をほんの少しつけて、口に入れた。
——脂が、甘い。
舌の上でとろりと溶けて、蜜醤油の塩気と甘みが紅い身を包み込む。噛むと、身がぷりっと弾けて、川魚とは思えない上品な旨味が広がった。
ルッツさんが箸を止めて、リュカを見た。
「坊主。これ……本当に川の魚か?」
リュカが胸を張った。「うちの養魚場で育てた谷鱒っす。源泉水で育ったから、身が締まるんすよ」
焼物。秋の谷鱒・紅葉焼き。
四十二話で完成させた、ユーディットの自信作。
脂の乗った秋の谷鱒を霧杉炭の遠火でじわじわと焼き、すりおろした霧蕪を身の上にこんもりと載せて蒸し焼きにする。蓋を取ると——白い蕪おろしが、淡い橙色に変わっている。谷鱒の脂が染みて、まるで紅葉のような色。
炭火の香ばしさが鼻を突き、一口齧ると——蕪おろしのほんのり甘い繊維の奥に、谷鱒の脂が濃厚に広がる。皮がぱりっと砕けて、身はほろりと崩れた。
ヘルマンさんが目を閉じて、長い沈黙の後に呟いた。
「……こりゃ、あの夜の塩焼きを超えてる」
あの夜。雨の中、道に迷って銀泉楼に辿り着いた最初の夜。リュカが焼いた谷鱒の塩焼き。あの味が原点だった。
原点を、超えた。
煮物。地脈根菜の炊き合わせ。
霧蕪、霧大根、霧人参。三種の根菜を源泉水でことこと炊いた。
箸を入れると抵抗なく沈む。とろとろに柔らかいのに、形は崩れていない。ユーディットの火加減——「煮物は温度が全てだ。沸騰させた時点で負け」という言葉通り。
霧蕪は絹のような舌触りで、噛むと甘い汁がじゅわりと滲む。霧大根は透き通って、出汁を全身に吸い込んでいる。霧人参は鮮やかな橙色のまま、甘みが驚くほど濃い。
地味な一品。でも、一口ごとに体の芯が温まる。
蕎麦。新蕎麦の温つけ汁。
リュカが打った蕎麦を、温かいまま器に盛る。つけ汁は霧茸と山猪の出汁。琥珀色の汁面に、山猪の脂が薄く光っている。
蕎麦を汁に浸して啜った。
新蕎麦の瑞々しい甘みが最初に来て、霧茸の深い旨味が追いかけてくる。山猪の脂が全体を包み込んで、最後に塩のひとつまみが味を引き締める。
——秋の森の味がする。
落ち葉を踏む足音。苔の匂い。木漏れ日。そういうものが全部、この一杯に閉じ込められている。
食事。新米の源泉水炊きご飯と、温泉卵。
蓋を開けた瞬間、甘い湯気が立ち昇った。
地脈米の新米を、源泉水で炊いた。粒が大きく、白く、艶々と光っている。茶碗によそうと、米粒が立っていた。
温泉卵を割ると、とろりとした黄身が流れ出す。濃いオレンジ色。箸で白身を崩して、ご飯にかけた。
何も言えなかった。
噛むほどに甘い米。とろりと絡む濃厚な黄身。塩は要らない。醤油も要らない。ただ、米と卵だけで——完璧だった。
周りを見回した。長テーブルの人々が、みんな同じ顔をしていた。目を閉じて、噛みしめて、黙っている。言葉が出ないのだ。旨すぎて。
甘味。霧山羊チーズと霧蜜のデザート。
イルゼさんの三ヶ月熟成チーズを薄く切り、砕いた胡桃を散らし、霧蜜をとろりとかけた。
チーズの塩気。蜜の甘み。胡桃の香ばしさ。三つが順番に現れて、最後に一つに溶けていく。
食べ終えて——広場が、静かになった。
それから、拍手が起きた。
一人が手を叩き、二人目が続き、三人目、四人目——やがて広場全体に拍手が響いた。松明の灯りの中で、谷の住民も来場者も、同じように手を叩いている。
ユーディットが腕を組んだまま、少しだけ目を細めた。
リュカが隣でぼろぼろ泣いていた。
「親父の夢が……全部、ここにある」
ユーディットがリュカの頭をぽん、と一度叩いた。
「泣くな小僧。まだ片付けが残ってる」
口調は厳しい。でもその手は、少しだけ震えていた。
拍手が収まった頃、私はテーブルの端に立った。
松明の灯りが揺れる中、谷の人々の顔が見える。ヴァルターさんが腕を組んで黙っている。フリッツさんがアンナを膝に載せている。トビアスさんが盃を傾けている。イルゼさんが目尻を拭いている。ガルドが柱に寄りかかって腕を組んでいる。ハンナさんが霧亭の出張屋台から、こちらを見ている。
息を吸った。
「半年前、この谷には何もないと言われました」
声が夜の空気に吸い込まれていく。
「廃旅館と、枯れかけた温泉と、諦めた人々——そう、私自身もそう思いかけたことがあります」
一拍、置いた。
「でも今夜、この食卓を見てください」
長テーブルの上に、空になった皿と椀が並んでいる。
「全部、この谷の恵みです。棚田の米、川の魚、丘のチーズ、森の茸、蜂の蜜——一つとして、よそから買ったものはありません」
視線が谷の人々を順に辿る。
「この食卓を作ったのは、この谷の皆さんです。棚田を守り続けたヴァルターさん。川を見つめ続けたトビアスさん。お母さんの技を守ったイルゼさん。銀泉楼の味を継いだリュカ。最高の技術で昇華してくれたユーディット。会場を建てた棟梁。お客様をお迎えしたマリカさん。全部を支えてくれたハンナさん。そして——この祭りの顔になってくれたエミールさん」
息を継いだ。
「私はただ、繋いだだけです。皆さんの力を、繋いだだけ」
広場が静まっている。松明の炎がぱちりと弾けた。
「——でも」
声を強くした。
「繋がったら、こんなに強い。こんなに美味しい。こんなに温かい」
手帳を持つ手が震えた。でも、声は震えなかった。
「この谷には、全部ありました。最初から。ただ——繋がっていなかっただけ」
拍手が、再び起きた。今度は最初から大きかった。ヘルマンさんが立ち上がって手を叩き、カーリンさんが口元を押さえ、オスカーさんが静かに頷いている。
ヴァルターさんが腕を組んだまま、一度だけ深く頷いた。
ハンナさんが——こっちを見ながら、手で目元を拭っていた。
「大風呂敷は相変わらずだね」
聞こえた。聞こえないはずの距離で、唇の動きだけでわかった。
「——でも、いい風呂敷だよ。お嬢」
宴も終盤になると、広場のあちこちで輪ができた。ヘルマンさんが来年の仕入れの話をトビアスさんとしている。イルゼさんがカーリンさんとチーズの商談を始めている。リュカがアンナに蕎麦の作り方を教えている。
松明の灯りが弱くなり始めた頃、私はテーブルの隅に座っていた。
隣に、ノアがいた。
いつからいたのかわからない。いつものように、気配なく。盃を片手に、夜空を見上げている。
「……いい祭りだった」
低い声だった。
「ノアが褒めるなんて珍しい」
「事実を言っただけだ」
間があった。ノアが盃を置いた。
「……お前のおかげで、この谷は変わった」
心臓がどくん、と跳ねた。
ノアは普段、そういうことを言わない。データと論理で話す人だ。「事実」は言うけど、「おかげ」なんて言葉は——
「ノア、それは——」
「何でもない」
目を逸らした。暗がりで表情が読めない。でも視線が泳いでいる。らしくない。
ノアが懐から小さな瓶を取り出した。琥珀色の液体が、松明の灯りを受けて金色に光っている。
私の手に、そっと置かれた。
「蜂蜜。採れたてだ。……祭りの打ち上げに、茶に入れろ」
掌の中の小瓶は、ほんのり温かかった。ノアの体温だ。ずっと懐に入れていたのだろう。
「……これ、プレゼント?」
「何でもない。余っただけだ」
余っただけ。余った蜂蜜を、わざわざ小瓶に入れて、懐で温めて、祭りの夜に渡す。
——この人は本当に、大事なことを不器用に伝える。
「ありがとう」
小瓶を両手で包んだ。蓋の隙間から、花の香りが微かに漂う。
「……大事にする」
ノアが何か言いかけて、口を閉じた。立ち上がって、「片付けを手伝う」と歩いていく。
背中が松明の灯りに溶けるまで見つめていた。
手の中の小瓶が、まだ温かい。
片付けが始まった。
テーブルを畳み、食器を洗い、松明の燃えかすを集める。来場者の大半は銀泉楼か町の簡易宿に帰っていき、広場に残っているのは谷の住民だけだった。
ガルドが柱の飾り彫りを眺めながら「明日外すのがもったいねぇな」と呟き、リュカが大鍋を両手で抱えて厨房テントに運んでいく。
私は最後の食器を拭いていた。手帳には今日の来場者数、売上の暫定値、客の反応メモがびっしり書き込まれている。数字は上々だ。いや——上々どころじゃない。
「セラフィーナさん!」
走る足音。
振り向くと、エミールさんが広場の入口から駆けてきた。眼鏡がずれて、息が切れている。
普段の穏やかな町長の顔ではなかった。
「どうしたんですか、エミールさん」
「今——たった今、早馬が来ました」
手に握りしめた封書が、松明の残り火に照らされている。蝋印。見覚えのある紋章——商務省の印だ。
「ハイネ殿からの……いえ、これはハイネ殿の名前で出ていますが、中身は——」
エミールさんの手が震えていた。
広場の空気が変わった。ノアが足を止めてこちらを見ている。ハンナさんが出張屋台の片付けの手を止めた。
祭りの余韻が、音もなく冷えていく。
「——見せてください」
封書を受け取った。手帳を持つほうの手で。
蝋印を割る前に、一度だけ空を見上げた。秋の星が冷たく瞬いている。さっきまであんなに温かかった夜の空気が、急に凍てついた気がした。
——宴は終わった。
ここからは、戦いだ。
あとがき
最後まで読んでいただきありがとうございました。
収穫祭のクライマックス——ユーディットとリュカの「谷の恵みフルコース」、いかがだったでしょうか。先付の白和えから甘味のチーズまで、全八品。どれも書いていてお腹がすきました。特に紅葉焼きと、源泉水炊きご飯の温泉卵は、前世の日本料理の記憶が色濃く反映された一品です。ユーディットが「ヨハンの献立を進化させた」と言い切るシーン、リュカが「親父の夢が全部ここにある」と涙するシーン、この二人の物語がこの食卓に結実しました。
そしてノアの蜂蜜。「余っただけだ」と目を逸らしながら、懐で温めた小瓶を渡す不器用さが、この人の全てです。セラもそろそろ気づいてほしいところですが、仕事が楽しすぎて鈍感な主人公は、もう少し時間がかかりそうです。
宴の余韻に浸る間もなく、エミールが駆け込んできました。祭りの光と、忍び寄る影——第四章はここから後半戦に入ります。
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