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追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります  作者: 歩人


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第43話: 谷の恵み祭——朝の部

 朝霧が晴れた谷に、人の声が満ちていた。


 二十年間——ミストヴァレーで、こんなに大勢の人が笑っている日はなかった。


 銀泉楼のテラスから見下ろすと、エルデン街道から谷への一本道に、馬車と人影が点々と続いていた。歩いて来る者、荷馬車の荷台に腰かけた家族連れ、馬に乗った若い商人。みんな、この谷を目指している。


 唇を噛んだ。


 ——泣くのはまだ早い。今日を、最高の一日にする。


 手帳を開いた。「谷の恵み祭 進行表」。体験エリアの配置、時間割、スタッフの動線——全部、頭に入っている。でも、もう一度だけ確認する。


 前世のコンサル時代に学んだことが一つある。祭りは準備が九割。当日は——信じて、走るだけ。


 手帳を閉じた。石段を駆け降りる。




 谷の入口に着くと、エミールさんが立っていた。


 くたびれたフォーマル服ではなく、真新しい上着を着ている。襟がぴんと立っていた。眼鏡を直す癖は相変わらずだけど——背筋が、違う。


 「ようこそ霧の谷へ!」


 エミールさんの声が、谷の入口に響いた。


 大きい。よく通る。あの弱々しい語尾の、あの「でも……」が口癖だったエミールさんとは別人のような声だった。


 入ってくる客の一人ひとりに頭を下げ、笑顔で案内している。「稲刈り体験は南の棚田です、渓流釣りは銀霧川の上流——あ、お子様連れですか? それなら棚田がおすすめです、お子様も安全に楽しめますよ」


 十五年間、何もできなかったと嘆いていた町長。


 今日この瞬間、エミールさんは——町長の仕事をしていた。


 目が合った。エミールさんが小さく頷く。私も頷き返した。言葉はいらなかった。


 受付ではマリカさんが来場者の名簿をつけていた。すれ違いざまに耳打ちしてくれる。


 「現時点で百二十人超えです。まだ増えています」


 百二十。ヘルマンさんの口コミと、マリカさんの王都方面への告知が効いた。予想を大きく上回っている。




 南の棚田に着いた時、私は足を止めた。


 黄金色だった。


 銀嶺連山を背景に、二十四枚の棚田が南斜面を段々に下りている。稲穂は重く垂れて、朝の風が吹くたびにさらさらと音を立てた。黄金色の波が山のてっぺんから麓まで——石垣の段を越えて、次の田へ、また次の田へと伝わっていく。


 春に水を張った棚田が、こんなになった。泥だらけになって水路を直した日が、昨日のことのようだ。


 ——見たかった景色だ。


 あぜ道には既に人が集まっていた。子供が走り回り、大人たちが感嘆の声を上げている。


 「すごい……こんな山奥に、こんな棚田があるのか」


 ヴァルターさんが棚田の中段に立っていた。


 麦わら帽子の下の灰色の目が、集まった人々をじっと見ている。手には鎌が三本。節くれだった大きな手で柄を握っている。


 「始めるぞ」


 その一言で、空気が変わった。


 ヴァルターさんが鎌を一本取り、稲の根元に添えた。


 「根元を握れ。一束ずつ、丁寧に。急ぐな。米は急いだ者には応えん」


 ザク、と乾いた音がした。一束の稲穂がヴァルターさんの手に倒れる。


 「こうだ。わかったか」


 鎌が配られ、フリッツさんが握り方を一人ひとりに教えていく。最初はおっかなびっくりだった客たちが、少しずつ鎌を動かし始めた。ザク、ザク、と稲を刈る音が棚田に広がっていく。


 「わあ!」


 高い声が響いた。


 フリッツさんの娘、アンナちゃんだ。六歳。フリッツさんの膝丈くらいしかない小さな女の子が、両手で鎌を握って——一束の稲を、見事に刈り取った。


 「パパ見て! アンナ刈れたよ!」


 刈った稲穂を高く掲げて、満面の笑みでフリッツさんを振り返る。金色の稲穂が朝日を受けて輝いていた。


 フリッツさんが目を赤くしながら笑った。


 「上手だよ、アンナ」


 声が震えていた。でも笑っていた。


 アンナちゃんが「もっと刈る!」と言って次の稲に向かう。他の子供たちも「アンナちゃんに負けない!」と歓声を上げて、わあわあと稲を刈り始めた。


 大人たちがそれを見て笑い、つられて自分も鎌を振る。


 ザク、ザク、ザク——棚田に鎌の音と笑い声が混ざっていく。


 ヴァルターさんが、少し離れたあぜ道から全体を見ていた。


 麦わら帽子の鍔の下で、灰色の目が——初めて見る光を湛えていた。


 「……いい秋だ」


 その呟きは、誰にも聞こえていなかった。でも私には聞こえた。あぜ道のすぐ後ろを通りかかったから。


 いい秋。


 ヴァルターさんの口から、そんな言葉が出たのは——きっと二十年ぶりだ。


 刈り取られた稲が束にされ、はさに掛けられていく。フリッツさんが客たちに「こうやって干すと天日で甘みが増すんです」と説明している。ヴァルターさんが教えた技術を、フリッツさんが人に伝えている。


 父から、子へ。子から、外の人へ。


 ——繋がった。




 棚田の一角で、脱穀した新米を炊いた。


 ガルドが作った簡易竈かまどに霧杉炭を熾し、鉄釜に地脈米と源泉水を入れて蓋をする。


 待つこと二十分。


 蓋を取った瞬間——甘い湯気が、棚田のあぜ道を覆った。


 白い蒸気の奥に見える米粒の、なんと美しいこと。一粒一粒が大きくて、白くて、つやつやと光っている。釜の底にはおこげ。黄金色で、ぱりぱりに焼けている。


 客の一人が「……うわあ」と声を漏らした。


 銀泉草の塩をひとつまみ振って、小さなおにぎりにする。棚田のあぜ道で食べた。


 噛んだ。


 甘い。噛むほどに甘い。米の粒がしっかりしていて、歯応えがあって、噛むたびに甘みがじわじわと舌に広がっていく。源泉水で炊いたからか、ほんの微かにミネラルの余韻がある。塩が甘みを引き立てて——口の中が、黄金色の棚田そのものになったような気がした。


 「これが……お米の味」


 隣で食べていた女性客が、箸を持ったまま固まっていた。


 「おかずがいらない。このお米だけで——何杯でも食べられる」


 その言葉に、棚田のあちこちで頷きが起きた。


 おこげを齧る子供たち。「パリパリしてる!」「おせんべいみたい!」と騒いでいる。アンナちゃんが「アンナが刈ったお米だよ!」と胸を張っていた。


 フリッツさんが、刈った稲束を抱えたまま空を見上げていた。泣いてはいなかった。でも唇を噛んで、何かを堪えているのがわかった。


 この米を育てたのは——フリッツさんと、ヴァルターさんだ。二十年間、二人きりで守ってきた棚田の米。それを今、百人以上の人が「美味しい」と言って食べている。




 棚田を離れて、銀霧川の上流に向かった。


 渓流に着く前に、声が聞こえてきた。


 「おい坊主、竿はそう持つんじゃねぇ。こうだ——肘を締めろ。手首で振るな、肩から振れ」


 トビアスさんの声だった。


 渓流の川原に出ると、膝まで水に浸かったトビアスさんが、十歳くらいの男の子に釣り竿の振り方を教えていた。右膝に古傷があるはずなのに、冷たい水の中に立って少しも辛そうな顔をしていない。


 「糸が流されるだろう。流れに逆らうんじゃねぇ、流れに乗せるんだ。魚のいる場所に餌を届けるのに、お前が決めるんじゃなくて——川が決める」


 「おじいちゃん、川が決めるってどういうこと?」


 「見ろ。あの岩の裏。水が渦を巻いてるだろう。鱒は流れの速い場所には棲まねぇ。岩の陰で、流れてくる虫を待ってる。——あそこだ。あそこに糸を落とせ」


 男の子が竿を振った。糸が水面に落ちる。


 数秒。


 竿先がぴくん、と跳ねた。


 「引いてる! おじいちゃん、引いてる!」


 「慌てるな! 合わせろ——そう、ぐっと手前に引け!」


 糸が張り、水面で銀色のものが跳ねた。飛沫が朝日に虹を作る。


 男の子が必死に竿を握って、トビアスさんが後ろから支えて——一匹の谷鱒が岸に引き上げられた。銀色の体に紅い斑点。尾びれがばたばたと川原の石を叩いている。


 「釣れた! 釣れたよ! 見て見て、お父さん!」


 川原で見守っていた父親が駆け寄る。「すごいな、お前!」


 トビアスさんが腰に手を当てて、ふんと鼻を鳴らした。


 「……まあ、悪くねぇな。初めてにしては」


 ぶっきらぼうな声。でも口角が——確かに上がっていた。


 子供に教えるのが、楽しいのだ。この人は。


 渓流釣り体験を提案した時、「一度だけだぞ」と言っていたトビアスさん。あの「一度だけ」はとうに過ぎているのに、今日はもう五人目の客を教えている。


 川原の少し下流では、リュカが焚き火の番をしていた。


 釣れた谷鱒をその場で捌き、銀泉草の塩を振って、霧杉炭の遠火で焼く。串に刺した鱒が炭火の上で並んでいる。


 パチ、パチ、パチ。


 皮が弾ける音。脂が炭に落ちて、甘い煙が渓谷に漂った。煙が水面を這うように流れて、朝の光に白く光る。


 焼き上がった鱒を受け取った客が、一口齧って——目を見開いた。


 「自分で釣った魚って、なんでこんなに旨いんだ!」


 大きな声で叫んだ。赤ら顔の中年男性。ヘルマンさんの商人仲間のルッツさんだ。


 「身がほろほろだ——皮はぱりぱりで、脂が甘くて——こんな鱒、食ったことねぇ!」


 リュカが嬉しそうに笑った。「っすよね! 谷鱒は源泉水が混じった川で育つから、身が締まって脂が旨いんす!」


 トビアスさんが川の中から、ちらりとその光景を見た。


 自分の川の魚を、客が旨いと言っている。


 何も言わなかった。ただ、次の客に竿の握り方を教え始めた。少しだけ——ほんの少しだけ、声が柔らかくなっていた。




 午前十一時。広場に戻った。


 ガルドが建てたステージの上に、木のテーブルが据えられている。テーブルの上には蕎麦粉、水差し、のし棒、包丁。そして——大きすぎるエプロンを着けた少年が、腕まくりをして立っていた。


 リュカだ。


 広場には四十人ほどの客が半円になって集まっている。渓流から駆け戻ってきたリュカは、額に汗を浮かべたまま、でも目だけは別人のように鋭く輝いていた。料理をする時の目だ。


 「えー、これから蕎麦打ちの実演をやります!」


 声が裏返った。客がくすくす笑う。リュカの耳が赤くなる。


 「……す、すいません。えっと。俺はリュカ・トルネっす。この町の料理人で——この蕎麦打ちは、親父から教わったやり方です」


 声が少し落ち着いた。


 木の鉢に蕎麦粉を入れた。銀色がかった薄紫の粉。棚田の裏手で育てた銀泉蕎麦——この夏に播いて、秋に刈り取った新蕎麦を、ヴァルターさんが石臼で挽いてくれたものだ。


 「蕎麦打ちは水回しが八割。——って、親父の手帳に書いてありました」


 水差しから少しずつ水を加える。指先で粉と水を混ぜると、蕎麦粉の野趣ある香りが広場に漂った。土と、草と、秋の風の匂い。


 「焦って水を足すと失敗します。粉が水を受け入れるのを、待つんす」


 粉が均一にしっとりした瞬間を、リュカの指が見極めた。


 「ここっす。練りに入ります」


 両手で押して、畳んで、また押す。生地が滑らかにまとまっていく。父のエプロンの裾が揺れる。


 のし棒で延ばす。二ミリに近い薄さ。でも破れない。畳んで、包丁を入れる。とん、とん、とん、とん——リズミカルな音が広場に響いた。均等な幅。一本一本が真っ直ぐで、同じ太さ。


 客から拍手が起きた。


 リュカが顔を上げて——照れたように笑った。


 「あ、ありがとうございます。——じゃあ、茹でます!」


 打ちたてを茹でて冷水に取り、器に盛る。ユーディットが今朝仕込んだ霧茸と山猪の温かいつけ汁を添えた。


 「どうぞ! 食ってください!」


 最前列の客が啜った。目が見開かれた。


 「……うまい。これが蕎麦か。歯切れが良くて、噛むと甘い——つけ汁が、森の匂いがする」


 「俺にもくれ!」「私も!」


 あっという間に行列ができた。リュカが次から次へと蕎麦を打つ。一人ではとても追いつかない量だ。汗が顎を伝い、エプロンが粉だらけになる。


 でも手は止まらなかった。


 打って、茹でて、盛って、渡す。打って、茹でて、盛って、渡す。


 行列の向こうから「おかわり!」の声が聞こえて、リュカが泣き笑いの顔になった。


 「おかわり……っすか。マジっすか。——はいっ、少し待ってくださいっす!」


 打ちたての蕎麦を受け取る客の顔。一口目の驚き。二口目の納得。三口目の笑顔。


 それを見ているリュカの目が——潤んでいた。


 「親父」


 小さく呟いた。客には聞こえていない。でも私には聞こえた。広場の端で全体を見ていたから。


 「見てるか。親父のやり方で打った蕎麦——みんな旨いって、言ってくれてるよ」


 声が震えていた。でも手は震えていなかった。次の蕎麦粉に水を回しながら、リュカは前を向いていた。


 ——ヨハンさん。あなたの息子は、立派にやっています。


 心の中で呟いた。




 正午が近づいていた。


 蕎麦の行列はまだ続いている。棚田からは歓声が風に乗り、渓流の方角からは焚き火の甘い煙が空に立ち昇っている。


 テラスに立って、谷を見渡した。


 銀嶺連山の雪。紅葉の山腹。黄金の棚田。銀霧川のきらめき。広場のステージ。銀泉楼の湯気。


 人が、笑っている。


 子供が走っている。大人が食べている。老人が語っている。


 二十年間、眠っていた谷が——今日、目を覚ました。


 マリカさんが最終集計を持ってきてくれた。


 「午前の来場者、百五十三人です」


 百五十三人。


 目頭が熱くなった。こらえた。まだ泣かない。午前が終わっただけだ。


 エミールさんが入口から戻ってきた。声がかすれていた。ずっと叫んでいたのだ。「ようこそ霧の谷へ」と、何百回も。


 「セラフィーナさん……」


 エミールさんの目が赤い。泣いたのか、笑いすぎたのか、その両方か——わからない。


 「……十五年、町長をやってきて。今日が、一番——」


 言葉が途切れた。眼鏡を外して、目元を拭った。


 私は何も言わずに、水の入ったコップを差し出した。エミールさんが受け取って、一口飲んで、大きく息を吐いた。


 「……午後も、やりましょう」


 「はい。やりましょう」


 エミールさんが眼鏡をかけ直して、また谷の入口に歩いていった。その背中に、朝よりもずっとしっかりとした重みがあった。


 手帳を開いた。


 午前の部——大成功。


 でもまだ半分だ。午後はチーズ作り体験と温泉解放。夜は——ユーディットとリュカの、谷の恵みフルコース。


 手帳を閉じて、空を見上げた。秋の空が高くて、青い。


 午前の部、大成功。——さあ、午後はもっとすごいことになる。




  あとがき


 最後まで読んでいただきありがとうございました。


 谷の恵み祭、午前の部をお届けしました。


 二十年間静まり返っていたミストヴァレーに、百五十人を超える人々の笑い声が満ちる。書いていて、自分でも胸が熱くなりました。棚田で鎌を振るアンナちゃんの「パパ見て!」、トビアスさんのぶっきらぼうな笑顔、リュカの「親父、見てるか」——この物語の登場人物たちが、それぞれの持ち場で輝いた一日です。


 特に力を入れたのは、炊きたての地脈米のシーン。塩だけで食べるおにぎりの美味しさは、日本人として、どうしても書きたかった。お米の甘みって、噛めば噛むほど広がるあの感覚は、他の何にも代えがたいと思うのです。異世界の棚田でも、それは同じ。


 次回、午後の部から夜の大宴会まで。ユーディットが腕を振るう谷の恵みフルコースをお届けします。引き続きお付き合いいただければ幸いです。


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