第42話: 秋の味覚、秋の色
秋が、谷を染め上げていた。
銀泉楼のテラスから見下ろすと、棚田の稲穂が重たく垂れて、風が吹くたびに黄金色の波が南斜面を渡っていく。霧峰山の中腹は赤と橙と黄が入り乱れ、頂上だけが白い霧に包まれている。朝の空気が冷たくて、吐く息がうっすら白い。
でも温泉の湯気がテラスまで届いて、頬だけが温かかった。
——この季節がいちばん好きだ、と思った。前世でも秋は好きだったけれど、こんなに鮮やかな秋は見たことがない。
厨房に入った瞬間、空気が変わった。
熱気と、複数の食材が混ざり合う深い香りが鼻を突く。まな板の上に並んだ食材を見て、私は足を止めた。
新蕎麦の粉。霧茸の山盛り。脂の乗った秋の谷鱒。霧蕪。地脈米。胡桃。そして——琥珀色に輝く小瓶。霧蜜だ。
「全部この谷で獲れたものだぞ」
ユーディットが腕を組んで立っていた。赤銅色の髪を雑に束ねて、前掛けに粉がついている。でも目が——獣のように光っていた。食材を前にしたときのユーディットは、いつもこうだ。
「収穫祭のフルコース。あたしが全部設計する」
「任せます」
「当たり前だ。あんたは口を出すな。——味見だけしろ」
リュカが厨房の奥から顔を出した。父のエプロンが相変わらず大きすぎて、裾を折り返している。
「師匠、蕎麦粉の水回し終わったっす!」
「見せろ」
ユーディットがリュカの手元を覗き込み、粉の状態を指先で確かめた。一粒つまんで舌に載せ、目を閉じる。
「……悪くない。水加減は合ってる。じゃあ打て。あたしはつけ汁に取りかかる」
最初の一品。新蕎麦の温かいつけ汁。
リュカが蕎麦を打つ隣で、ユーディットが鍋に向かった。
乾燥霧茸を水で戻し、その戻し汁を出汁のベースにする。銀色の茸が水を吸ってふっくらと膨らむと、厨房に深い土の香りが広がった。
「霧茸の出汁に山猪の脂を合わせる。秋の山の味だ」
ユーディットが薄切りにした山猪肉を鍋に入れた。脂がじわりと溶けて、出汁に甘みが加わる。煮立てない。沸騰する寸前の、湯気が揺れるぎりぎりの温度をユーディットの目が見極めている。
「塩は——」
リュカが手を伸ばしかけた。
「触るな、小僧。この汁に塩は最後だ。霧茸と猪の旨味だけで十分すぎる。塩は化粧だ。仕上げにひとつまみ」
琥珀色のつけ汁が完成した。深く澄んだ色で、表面に山猪の脂が薄く光っている。
リュカの蕎麦が茹で上がった。冷水で締めず、温かいまま器に盛る。秋の蕎麦は温かく食べるのが正解だ——と、ユーディットが決めた。
私が箸で蕎麦を取り、つけ汁に浸して啜った。
——口の中で、秋の森が広がった。
新蕎麦の瑞々しい甘みが最初に来て、霧茸の深い旨味が追いかけてくる。山猪の出汁が全体を包み込んで、最後に塩のひとつまみが味を引き締める。喉を通った後に、蕎麦の香りだけがふわりと残る。
「……ユーディット。これ、看板メニューにできる」
「当たり前だ。あたしが作ったんだからな」
腕を組んでいるけれど、口元がほんの少し緩んでいた。
二品目。秋の谷鱒・紅葉焼き。
秋の谷鱒は夏のものより一回り大きい。産卵前で脂が乗り、身の紅色が一段と濃い。
ユーディットが三枚に下ろした身を、皮を下にして炭火の上に据えた。霧杉炭の遠火でじわじわと焼く。皮がぱちぱちと弾けて、甘い脂の匂いが立ち昇る。
「小僧、霧蕪を下ろせ」
「はいっす!」
リュカが霧蕪をすりおろした。真っ白なおろしが器に山になる。
「それを鱒に載せて、蓋をして蒸し焼きにする」
ユーディットが白い霧蕪おろしを谷鱒の身にこんもりと載せ、蓋をかぶせた。炭火の熱が蓋の中にこもる。一分、二分——蓋を取ったとき、私は息を呑んだ。
白かった霧蕪おろしが、淡い橙色に変わっていた。
焼けた熱で蕪の水分が飛び、残った繊維に谷鱒の脂が染みて、まるで——紅葉のような色。
「紅葉焼き」
私が呟いた。
前世の記憶。日本料理の「紅葉おろし」。大根おろしに唐辛子を混ぜて紅葉色にする技法。あれを霧蕪と谷鱒の脂で再現したら——こうなる。
ユーディットが首を傾げた。「何だ、その顔は」
「いえ——前世の技法を思い出して。でもユーディット、あなたのほうが上だわ。これは唐辛子じゃなくて、鱒の脂で色がついてる。味と色が一致してるの。すごい」
「よくわからんが、褒めてるなら素直に受け取っておく」
皿に盛りつけた。橙色の蕪おろしを纏った谷鱒。その横に銀泉草の若葉を一枝添える。緑と橙と、鱒の皮の焦げ茶色。——秋の森を皿の上に閉じ込めたような一品だった。
口に入れた。
蕪おろしのほんのり甘い繊維の奥に、谷鱒の脂が濃厚に広がる。皮がぱりっと砕けて、身はほろりと崩れた。銀泉草を一緒に噛むと、清涼な香りが脂の余韻を洗い流す。
「……完璧」
ユーディットが鼻を鳴らした。リュカが「すげぇっす師匠!」と跳ねて、ユーディットに「厨房で跳ねるな、鍋が倒れる」と叱られた。
三品目。デザート。
イルゼさんがその日の朝に届けてくれた熟成霧山羊チーズを、ユーディットがナイフで薄く切った。
三ヶ月の熟成を経たチーズは、外皮が淡い黄金色。中はクリーミーな象牙色で、ナイフを入れるとほんの少し弾力がある。鼻を近づけると、花のような甘い香り。
その薄切りを皿に並べ、砕いた胡桃をパラパラと散らした。
「ここに——これだ」
ユーディットが琥珀色の小瓶を持ち上げた。霧蜜。この夏、銀泉楼の裏手に置いた巣箱から初めて採れた蜂蜜。まだ量は少ない。
蓋を開けた瞬間、厨房に花畑の匂いが満ちた。夏の盛りに銀泉楼裏手の巣箱から初めて採れた霧蜜を、ユーディットはこの日のために温存していた。
琥珀色の蜜を、スプーンでチーズの上にとろりと垂らす。蜜がゆっくりと流れて、チーズの表面を覆い、胡桃の隙間に入り込んでいく。
「食え」
一切れをフォークで取り、口に入れた。
——最初に来たのはチーズの塩気だった。霧山羊の乳の濃厚さが舌の上に広がる。次に霧蜜の甘みが追いかけてきて、塩と甘が混ざり合う。その奥に胡桃の香ばしさが加わって、最後にチーズの微かな酸味が全体をきゅっと引き締めた。
口の中で四つの味が順番に現れて、一つに溶けていく。
「……これ、前世の高級レストランで出てきても驚かない」
ユーディットが少しだけ目を細めた。「あたしは高級レストランの副料理長だった。当然だろう」
リュカが「俺にも!」と手を伸ばして、一切れ食べた。目を丸くして、しばらく噛み続けて——「……なんだこれ。イルゼさんのチーズがこんなことになるんすか」
「食材は最高だ。あとは出し方だけの問題だった」
ユーディットがまな板を拭きながら言った。
「この谷の食材に不足はない。足りなかったのは——ここで料理する人間だけだ」
リュカが背筋を伸ばした。「俺がやるっす。師匠と一緒に、全部作るっす」
「……生意気な口を叩く前に、あと百回は蕎麦を打て」
でもユーディットの声は柔らかかった。リュカの肩を一度だけ叩いて、次の仕込みに戻った。
厨房を出て、町の広場に向かった。
広場では、ガルドとノアが作業の真っ最中だった。
ガルドが広場の中央に立って、腕組みをして全体を見渡している。その周りに霧杉の角材が積まれ、柱の骨組みが三本ほど立ち始めていた。
「ノア。次の柱、ここだ。間隔は八歩。ずれるな」
ノアが片手を角材に当てた。建築魔法の光が掌から淡く滲み、角材がゆっくりと浮き上がる。地面に掘られた穴の中に、まっすぐに——ガルドが差し出した水準器と寸分の狂いなく、柱が据わった。
ガルドが柱を叩いた。こん、こん、こん。三度。音を聴いている。
「……悪くねぇ。強度も十分だ」
「当然だ。計算通りに魔力を配分している」
「計算だけで建築ができりゃ苦労しねぇよ。——次」
二人のやりとりを見ていて、思わず笑った。犬猿の仲に見えて、実は最高の仕事仲間だ。ガルドの職人の勘とノアの魔法の精度。どちらが欠けても成り立たない。
ステージの骨組みが形を成してきた。中央に舞台、左右に露店の枠。その奥にテーブルを並べる食事スペース。
ガルドが柱にのみを入れて、飾り彫りを施し始めた。霧杉に紅葉の意匠。粗削りだけど、力強くて美しい。
「棟梁、飾り彫りまでするんですか」
「祭りだろうが。ただの柱じゃ味気ねぇ」
のみの手を止めずに言った。
「祭りの会場を作るのは初めてだ。……悪くねぇな」
鉢巻きの下の目が、少しだけ楽しそうだった。
午後遅く。エルデン街道から続く谷の入口に、馬車の影が見えた。
私は銀泉楼の玄関先で帳簿の整理をしていたのだけれど、遠くから聞こえてきた声に顔を上げた。
大きな声。陽気で、遠くまで通る声。
——あの声だ。
石段を駆け降りた。
街道から谷に入ってきた馬車の御者台に、大柄な男が立って手を振っていた。荷台に積まれた商品の山。その後ろに、もう二台の馬車が続いている。
「セラフィーナ嬢! 約束通り、収穫祭に来たぞ! 仲間も連れてきた!」
ヘルマンさん。
最初のお客さん。雨の夜に道に迷って銀泉楼に辿り着いた行商人。リュカの初めての「人に出す料理」を食べて、「こんな食事は何年ぶりだ」と呟いた人。銀貨三十枚を「謝礼だ」と置いていった人。
「また来る。仲間を連れてくる」——あの朝の約束を、本当に守ってくれた。
馬車が停まり、ヘルマンさんが飛び降りた。後ろの二台からも人が降りてくる。商人風の男が二人、それから女性が一人。みんなヘルマンさんと同じくらいの年格好で、旅慣れた雰囲気だった。
「紹介するぞ! 東街道のルッツ、霧谷峠のカーリン、それからブライト街のオスカーだ。みんなあたしの仕事仲間でな、谷鱒の話をしたら食いついてきた」
ルッツという赤毛の商人が頭を下げた。「ヘルマンが嘘みたいな話をするんで。世界一旨い焼き魚を食った、って。確かめに来ました」
カーリンという女性商人が笑った。「あたしはチーズのほうに興味があってね。霧山羊のフロマージュ、本当にあるの?」
三人目のオスカーは静かに銀泉楼を見上げて、「……いい建物だ。木の使い方がわかってる」と呟いた。
胸の奥が、ぎゅっと熱くなった。
最初の一人が、次の客を連れてくる。口コミの循環。前世のコンサルタント時代に何百回も見てきた構造だ。マーケティング用語で言えば「リファラル」。
でも今、目の前で起きているのは——もっとずっと温かいものだった。
「ヘルマンさん」
声が震えた。目の奥が熱い。
「……ありがとう。来てくれて、本当に」
ヘルマンさんが大きな手をひらひらと振った。
「礼はいい。あの夜の谷鱒の塩焼きの味、まだ忘れられんのだ。あの蕎麦粥の朝のことも、あの朝焼けのことも。——また食わせてくれよ、嬢ちゃん」
嬢ちゃん、と呼ばれて笑ってしまった。ガルドと同じ呼び方だ。
「もちろん。今回はもっとすごいもの、用意してますから」
ヘルマンさんの目が輝いた。「お。期待していいんだな?」
「ユーディットっていう、とんでもない料理人がいるんです。楽しみにしていてください」
四人を銀泉楼に案内した。マリカさんが玄関で出迎えて、完璧な所作で客室へ導いていく。ヘルマンさんが「おお、あの時と全然違う! 部屋が増えてる!」と声を上げた。
ルッツが「本当に温泉なのか?」と疑い半分だった顔が、大浴場の湯気を見て一変した。「嘘だろ……この泉質」
カーリンが窓の外を見て「紅葉が綺麗……」と呟いた。
——この反応だ。初めてこの谷に来た人の、あの驚きの顔。何度見ても嬉しくて、何度見ても泣きそうになる。
夜。
ヘルマンさんたちが温泉と夕食を堪能して部屋に引き上げた後、私は帳場で税務書類と収穫祭の段取りを同時に整理していた。
マリカさんが茶を持ってきてくれた。銀泉草の茶。湯気から甘い香りがする。
「セラさん。少し、お話してもいいですか」
マリカさんの声は、いつもより低かった。
「もちろん」
向かいに座ったマリカさんが、茶碗を両手で包み込むようにして、しばらく黙っていた。何かを整理しているようだった。
「碧泉宮」
その名前を口にした瞬間、マリカさんの指先が茶碗を少しだけ強く握った。
「王都グランシュタット近郊にある温泉施設です。ヴィクトール・アシュフォード侯爵が所有しています。……貴族専用の、保養地」
手帳を開いた。ペンを持つ。
「翡翠殿にいたとき、碧泉宮の噂はよく耳にしました。泉質が異常に良い、と。王都の貴族たちが挙って通う場所です」
「翡翠殿とは——関係があるんですか?」
「翡翠殿の支配人は、碧泉宮のヴィクトール侯爵と繋がっていました。私が以前お話しした通りです。翡翠殿は情報収集の拠点で、碧泉宮はその収益基盤……そういう構造だったのだと、今になって思います」
マリカさんが茶を一口飲んで、静かに続けた。
「でも——碧泉宮ができたのは、ちょうど二十年前です」
二十年前。
私の手帳のペンが止まった。
この谷が衰退し始めた時期。街道のルートが変わり、源泉が弱まり、銀泉楼が閉じ、人々が去っていった——あの二十年前と、同じ。
帳場の引き戸が静かに開いた。ノアが立っていた。いつから聞いていたのか。
私とノアの目が合った。
「偶然じゃない」
同時に言った。
ノアが帳場に入ってきて、私の隣に座った。マリカさんを見て、小さく頷く。
「碧泉宮。二十年前。地脈操作」
ノアが低い声で呟いた。
「霧峰山の魔法陣。マリカの証言。そして今の泉質データ。——ピースが揃い始めている」
胸の中で、何かが冷たく固まっていくのを感じた。怒りだ。
二十年間、この谷から魔力が奪われ続けていた。ヴァルターさんが一人で棚田を守り続けた二十年。トビアスさんが川を見つめ続けた二十年。イルゼさんが母のチーズ型を捨てられなかった二十年。ハンナさんがローザさんの遺志を抱えて待ち続けた二十年。
その全部が——一人の貴族の欲のために、奪われていた。
「証拠を揃えましょう」
声が自分でも驚くほど落ち着いていた。
「収穫祭を成功させて、この谷の価値を証明する。それと同時に、碧泉宮の秘密を暴く。——両方、やる」
ノアが私を見た。深い緑色の目が、厳しくて、それでいて温かかった。
「……無理だとは言わない」
「言わないの? 珍しい」
「お前が『やる』と言ったことで、実現しなかったものがない。データが証明している」
それは——褒め言葉だろうか。ノアの顔は相変わらず無表情で、判断が難しい。
でも口元が、ほんの微かに緩んでいた。
マリカさんが立ち上がった。「私も、できることを全てやります。逃げません」
帳場に三人分の茶碗が並んでいる。湯気が立ち昇って、天井の梁に届く前に消えていく。
——碧泉宮。二十年前。地脈操作。
手帳にその三つの言葉を書き込んだ。太く、はっきりと。
ピースが揃い始めている。あと少し。あと少しで——全てが繋がる。
マリカさんが部屋に戻った後、私は帳場に残った。
ノアも残っていた。黙って茶を飲みながら、窓の外の暗い谷を見ている。
「ノア」
「なんだ」
「収穫祭、大丈夫だと思う?」
「何が」
「全部。料理も、会場も、お客さんの数も——ディートリヒの動きも」
ノアがしばらく黙った。茶碗を置いて、腕を組んだ。
「料理はユーディットがいる。会場はガルドが建てた。客はヘルマンが連れてきた。税務はマリカが片付けた。——お前が集めた人間が、全部やっている」
「それは——」
「足りないものがあるとすれば」
ノアが立ち上がった。窓辺に歩いていく。
「お前が倒れないことだ。寝ろ」
振り返らずにそう言って、帳場を出ていった。
足音が廊下に消えるまで聞いていた。
——この人は、いつもそうだ。大事なことを、背中で言う。
手帳を閉じて、灯りを消した。
窓の外に、秋の星が冷たく瞬いていた。あと五日。五日で、この谷の全てを世界に見せる。
そして——その裏で、二十年分の嘘を暴く。
あとがき
最後まで読んでいただきありがとうございました。
秋のミストヴァレーを、五感で感じていただけたでしょうか。黄金色に波打つ棚田、赤と橙に燃える霧峰山、そして厨房から立ち昇る秋の香り——書いていて、お腹がすきました。
ユーディットの収穫祭メニューは、どれも「この谷でしか作れない料理」です。紅葉焼きの色の変化は、前世の日本料理の技法が異世界で再解釈される面白さを狙いました。新蕎麦のつけ汁は、森と山の味がします。チーズと霧蜜のデザートは……イルゼさんの三ヶ月分の想いが詰まった一品です。
そしてヘルマンさん。第九話で雨に濡れて辿り着いた最初のお客さんが、約束通り仲間を連れて戻ってきてくれました。「口コミの種」を蒔いたあの朝から、ここまで来ました。一番嬉しい再会です。
一方、夜のマリカの情報で、ヴィクトール侯爵の影がいよいよ濃くなってきました。祝祭と陰謀。光と影。その対比が、この章を貫くテーマです。
次回、いよいよ収穫祭の当日を迎えます。引き続きお付き合いいただければ幸いです。
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