第41話: 祭りをやろう
「収穫祭を、やりましょう」
私の声が、町の広場に響いた。
集まった人々の顔に、困惑と——小さな、期待の色が浮かんだ。
話は三時間前に遡る。
銀泉楼の帳場で、マリカさんと私は税務書類の山と格闘していた。
ディートリヒ・ハイネが突きつけてきた税務特別査察。全事業の税務記録を二週間で提出せよ——表向きは商務省令に基づく正当な手続きだが、狙いは明白だった。
「セラさん。旅館業の帳簿はこれで整いました。農業と畜産は明日までに」
マリカさんがペンを置いて、書類の束を揃える。その手つきは正確で、一切の無駄がない。王都の翡翠殿で鍛えられた事務能力。昨夜全てを打ち明けてくれた彼女が、今朝は普段よりも少し背筋を伸ばして帳場に座っていた。
「ありがとう、マリカさん。……ほんとに、あなたがいなかったら間に合わなかった」
「いえ。——やるべきことがあるのは、楽です」
小さく笑った。泣き腫らした目の赤みが、まだ残っている。でも声はもう揺れていなかった。
私は手帳を開いた。昨夜から考えていたことを、もう一度整理する。
税務記録を完璧に揃える。これは守りの手だ。ディートリヒが付け入る隙をなくすための。
でも——守るだけじゃ勝てない。
「マリカさん」
「はい」
「攻めましょう」
広場に着いたとき、人の多さに驚いた。
グランドオープン前に開いた説明会のときは、三十人がやっとだった。腕を組んで壁に寄りかかり、半信半疑の顔を並べていた。
今日は四十人を超えている。
しかも、後ろの方で立っている人たちの表情が違う。あの頃のような「どうせ無駄だろう」という目じゃない。棚田を復活させて、養魚場を再開して、牧場を立ち上げて、収穫祭を企画して——半年分の実績が、人の目を変えていた。
「おう、嬢ちゃん。今日は何を言い出すんだ」
ガルドが広場の端に腕を組んで立っている。口調はいつも通りぶっきらぼうだけれど、一番乗りで来ていたのは知っている。ハンナさんが教えてくれた。
ヴァルターさんは後列に黙って立っていた。フリッツさんの隣。娘のアンナちゃんがフリッツさんの脚にしがみついて、広場のざわめきをきょろきょろ見回している。
トビアスさんは——いた。一番後ろの石垣に腰を下ろして、帽子を目深に被っている。来てくれた。それだけで嬉しい。
イルゼさんがハンナさんと並んで座っていた。二人とも腕を組んでいて、まるで審査員みたいだ。
エミールさんが広場の隅で落ち着かなさそうに眼鏡を直していた。隣に奥さんのローゼマリーさんがいて、夫の袖をそっと掴んでいる。
ノアは——いつもの場所。広場を見渡せる木の下に、壁にもたれて立っている。深い緑の目が、私をまっすぐ見ていた。
視線が合った。ノアが小さく顎を引いた。やれ、という意味だと思った。
深呼吸して、広場の中央に立った。
「皆さん、お集まりいただきありがとうございます」
声を張る。腹の底から。
「まず、現状を報告します。数字で——」
手帳を開いた。
「棚田二十四枚、稼働中。養魚場三池、順調。霧山羊二十頭、銀泉鶏二十羽、蜂の巣箱三基。霧杉炭は月産二十俵。精油の試作も軌道に乗りました。そして銀泉楼は月間八十人の宿泊者を迎えています」
数字を並べるたびに、広場のざわめきが少しずつ静まっていく。
「半年前には何もなかった——そう言われました。でも今、この谷には全部ある。米も、魚も、チーズも、蜂蜜も、炭も、温泉も。みなさんが取り戻してくれた」
息を吸った。ここからが本題だ。
「けれど——この谷を潰そうとする人がいます」
広場が、しん、と静まった。
「税務特別査察が来ています。書類上の不備を探して、事業を止めようとしている。理由は——私たちが成功し始めたから」
エミールさんが顔を俯けた。ディートリヒの名前は出さなかったけれど、みんな知っている。半年前に営業停止命令を出しに来た、あの男が戻ってきたことを。
「守るだけでは勝てません」
声に力を込めた。
「だから——攻めます」
手帳を閉じて、みんなの顔を見回した。
「収穫祭を、やりましょう」
一拍の沈黙。
そしてざわめき。
「収穫祭って……祭りか?」
「この町でか? 二十年やってねぇぞ」
「いつやるんだ、準備はどうする——」
予想していた反応だった。手を挙げて、静かにしてもらう。
「名前は『谷の恵み祭』。一日で、この谷の全てを体験できる祭りです」
広場に張り出した板に、手書きの企画書を貼り付けた。マリカさんが昨夜のうちに清書してくれたもの。
「朝は棚田で稲刈り体験。午前中に渓流釣り。お昼にチーズ作りと蕎麦打ちの実演。午後は温泉開放。夜は——谷の食材だけで作るフルコース。宴です」
指で企画書のタイムラインをなぞっていく。
「いままでバラバラだった体験を、一日にまとめます。この谷でしかできない"特別な日"を作る。来た人が、帰るときに『また来たい』と思ってくれる一日。それが——税務記録なんかよりずっと強い証明になります」
ガルドが鼻を鳴らした。「大風呂敷はいつもの通りだな」
でも——腕組みを解いていた。
「税務記録は完璧に仕上げます。マリカさんと私で、一枚の不備もないように。その上で、外からお客様を呼んで、この谷が正当に繁栄していることを世に示す。——誰が何を言おうと、笑って食べて幸せになった人の声は消せません」
イルゼさんが、ぽん、と手を叩いた。
「いいじゃない。あたし、チーズ振る舞いたい」
トビアスさんが帽子を持ち上げて、片目だけこちらを見た。何も言わなかったけれど、帽子を戻さなかった。あの人なりの、聞いているよ、のサインだ。
ハンナさんが腕を組んだまま、小さく頷いた。
「それでは、各担当を発表します」
手帳のページをめくった。昨夜から練り上げた配置表。前世のコンサル時代、地方の観光イベントを何十件も設計してきた。あの経験が、今ここで役に立つ。
「まず——会場設営。ガルド」
「おう」
「町の広場に仮設ステージと露店の骨組みを建ててほしい。ノアの建築魔法で柱を立てて、棟梁が仕上げる。いつものコンビでお願い」
「しょうがねぇな。学者先生、聞いたか」
ノアが壁から体を起こした。「……聞いた」
「稲刈り体験エリアは、ヴァルターさんとフリッツさん。棚田のうち三枚を体験用に残しておいてください」
ヴァルターさんが無言で頷いた。フリッツさんが「わかりました」と返す。アンナちゃんが「アンナもやる!」と叫んだ。広場に笑いが起きた。
「渓流釣り体験は、トビアスさん」
石垣の上のトビアスさんが、ぴくりと肩を動かした。
「……客の相手は得意じゃねぇ」
「知ってます。でも、トビアスさんが教えてくれた『川の声を聴け』——あの言葉が一番の体験価値なんです」
トビアスさんは黙った。帽子を被り直して、視線を逸らした。でも——立ち上がらなかった。逃げなかった。
「チーズ作り体験と乳製品の販売は、イルゼさん」
「任せて! 搾りたてミルクのフレッシュチーズ、最高のやつ作るわ」
「料理ブースと蕎麦打ちの実演——ユーディットとリュカ」
ユーディットが腕を組んだ。「献立はもう考えてある」
リュカが目を輝かせた。「蕎麦打ちっす! 親父のやり方で!」
「受付と接客統括——マリカさん」
「承知しました」
マリカさんが静かに一礼した。完璧な角度。翡翠殿の仲居の所作——でも今は、銀泉楼の接客係としての一礼だった。
「安全管理と地脈状態の監視——ノア」
「……了解した」
短い。でも十分だった。
「霧亭の出張屋台——ハンナさん」
「はいはい。おにぎりと漬物くらいなら、いくらでも握るよ」
ハンナさんが手をひらひらさせた。いくらでも、と言うときのハンナさんは本気だ。
全員の名前を呼んだ。広場の空気が変わっている。最初のざわめきとは違う——熱を帯びた、前に向かうざわめき。
残るは一人。
「そして——実行委員長」
エミールさんを見た。
広場の隅に立っているこの人は、十五年間この町の町長を務めてきた。
十五年。町が衰退していくのを見守るだけの十五年。人が出ていくたびに頭を下げ、ディートリヒに怯え、何もできない自分を責め続けた。
「実行委員長……ですか」
声が震えていた。
「私が?」
「エミールさん」
一歩、近づいた。
「この町の町長は、あなたです。この祭りの顔は——あなたがいい」
エミールさんの薄い青い目が揺れた。眼鏡の奥で、何かが——崩れかけて、それから、組み直されていくのが見えた。
「セラフィーナさん。私は——十五年間、何もできなかった」
「知ってます」
厳しいことを言っている自覚はあった。でも嘘はつかない。
「でもエミールさん、あなたは逃げなかった。十五年間、この町に残った。残り続けた。それだけで——十分です」
隣のローゼマリーさんが、夫の袖を握る手に力を込めた。
エミールさんが、背筋を伸ばした。
猫背が——消えた。
「……やります」
声が変わっていた。震えは残っている。でも、その下に——芯があった。
「やらせてください。町長として——この祭りを、やらせてください」
広場が、しん、と静まった。
ローゼマリーさんが目元を押さえた。涙が指の間から零れている。
「あなた……久しぶりに、町長の顔してる」
小さな声だった。でも広場の静けさの中で、全員に聞こえた。
エミールさんが頬を掻いた。眼鏡を外して、拭いて、かけ直した。手が震えている——でもそれは、恐怖の震えじゃなかった。
ハンナさんが、ぽそりと言った。
「やっとだよ、町長さん」
エミールさんが泣きそうな顔で笑った。
「は、はい。……はい」
ガルドが石畳を靴底で踏み鳴らした。
「ったく、しめっぽいのは嫌いだ。——で、嬢ちゃん。会場の設営、いつからやる」
「明日から。あと十日です」
「十日だと? 無茶言うな」
「無茶は私の専門です」
ガルドが鼻で笑った。でも——もう腕組みを解いている。道具袋に手を伸ばしていた。
広場に笑いが起きた。誰かが手を叩いた。一人、二人——拍手が広がった。四十人を超える手が、秋の空に向かってぱちぱちと音を立てた。
エミールさんが——拍手の中で、まっすぐ立っていた。
説明会の後、広場に残った人たちと細かい打ち合わせをした。
マリカさんが近隣の町への告知案を出した。ヘルマンの商人仲間にも声をかける。集客見込みの数字を弾く——百人は来る。うまくいけば百五十人。
ガルドとノアが会場の設営計画を詰めていた。「ステージの高さは三尺で十分だ」「柱は霧杉の角材を使う。建築魔法で基礎を固めれば——」「おう、やれやれ。魔法で手を抜くなよ」「手は抜かない」
いつもの二人だ。口では反発して、仕事では完璧に噛み合う。
イルゼさんがユーディットとリュカを捕まえて、料理の献立を話し始めた。「チーズの熟成がちょうど祭りの日に食べ頃になるの!」「ほう。なら俺の蕎麦と合わせてコースを組むか」「やりましょう師匠! 蕎麦とチーズの組み合わせっす!」
ヴァルターさんがフリッツさんに何か指示している。言葉は聞こえないけれど、フリッツさんが頷いている。アンナちゃんがその間を駆け回っている。
エミールさんは——手帳を買ってきたらしい。真新しい革の手帳をぎこちなく開いて、何かを書き込んでいた。ローゼマリーさんが横から覗き込んで、「あなた、字が汚い」と言っていた。エミールさんが「し、仕方ないだろう! 急いでるんだ!」と返している。
——いい光景だった。
手帳を開いて、メモしようとした。でもペンが止まった。
書くことが多すぎるんじゃない。この光景を、目で見ていたかったのだ。
前世のコンサル時代、こういう瞬間が一番好きだった。計画を立てて、人を巻き込んで、みんなが動き始める瞬間。プロジェクトが「紙の上の数字」から「人の手と声」に変わる瞬間。
でも前世では、いつも外側から見ていた。コンサルタントだから。部外者だから。
今は——違う。
私はこの谷にいる。この祭りの、真ん中にいる。
陽が傾いた。
銀泉楼に戻って、帳場で追加の税務書類を片付けてから、テラスに出た。
秋の夕暮れだった。
棚田が黄金色に染まっている。稲穂が重く垂れて、風が吹くたびに波のようにうねる。銀嶺連山の稜線が夕焼けに溶けて、空が橙と紫のグラデーションに変わっていく。
霧が薄い。この時期の霧は、朝と夕方にだけ出る。今は夕霧の始まり——棚田の水面から白い息が立ち上がって、金色の稲穂の間を漂っている。
テラスの手すりに寄りかかった。
息を吐いた。肩の力が抜ける。説明会の興奮が少しずつ冷めて、代わりに心地よい疲労感がやってきた。
「……セラ」
声がした。振り返らなくてもわかる。
ノアがテラスに出てきた。手にマグカップが二つ。
「銀泉草の茶だ」
「ありがとう」
受け取った。温かい。掌に染みる温度。銀泉草の甘くて清冽な香りが、夕風に混ざった。
二人で手すりに並んだ。茶を啜りながら、黄金色の棚田を眺めた。
しばらく、誰も何も言わなかった。ノアは元々無口だし、私も——今は、言葉がなくても良かった。この景色と、温かい茶と、隣にいる人。それで十分だった。
「……祭りの最中に」
ノアが口を開いた。マグカップの縁から目を上げて、谷の向こうを見ている。
「ディートリヒが動く可能性がある」
声が低い。いつもの端的な物言いだけれど、その奥に——心配が、ある。
「わかってる」
私も谷を見た。夕霧が棚田を包み始めている。金色が白に溶けていく。
「でも、だからこそやる。逃げたら負ける」
「逃げろとは言っていない」
「知ってる。あなたは絶対言わない」
ノアが横目でこちらを見た。私は茶を一口飲んで、続けた。
「税務書類は完璧に仕上がる。マリカさんがいるから。祭りの運営も——エミールさんが実行委員長を引き受けてくれた。ガルドが会場を建てて、みんなが料理を作って、トビアスさんが釣りを教えて」
指を折って数えた。全部で十一人。半年前は、私一人だった。
「一人じゃないんだよ、もう」
ノアが黙った。茶を飲んだ。それから——
「……お前は本当に、止まらないな」
同じ言葉を、前にも聞いた。あの夜、帳場で茶を持ってきてくれた夜にも。みんなで食卓を囲んだあの夜にも。
でも——今日のそれは、少し違って聞こえた。呆れじゃなくて。諦めでもなくて。
なんだろう。祈りに、似ていた。
「止まれないの」
私は棚田を見た。黄金色が夕霧に霞んで、柔らかな輪郭になっている。
「この景色を守りたいから」
言ってから、自分で少し驚いた。
前世の私なら、こんな言い方はしなかった。数字で語り、戦略で説得し、感情を排除して合理的に動く——それがコンサルタントだった。
でも今の私は、景色を守りたいと言っている。数字じゃなく、景色を。棚田の金色と、霧の白と、みんなの笑い声を。
変わったのだ、と思った。この谷が私を変えた。
ノアが茶のマグカップを手すりに置いた。
視線がこちらを向いた。深い緑色の目。夕陽の残光で、金色の粒が混じって見える。
目が、合った。
三秒。五秒。——数えるのをやめた。
ノアの目が、何かを言おうとしていた。唇が微かに動いて——
——目を伏せた。
ノアが谷の方を向いた。横顔が、夕焼けの残光に染まっている。首筋まで赤くなっていた。
頬が熱い。
おかしい。渓流で一時間粘って鱒を釣ったときより、棚田で稲刈りしたときより、心拍数が高い。前世のコンサル時代、プレゼンで百人の前に立ったときだって——こんなにはならなかった。
——だめだ。仕事。仕事に集中する。
手帳を開いた。やけに指先がもたついた。
「さ、スケジュールの確認。あと十日で——」
ページを繰る。タスクリスト。ガントチャート風のスケジュール表。日付ごとに、誰が何をするか全部書いてある。
「初日と二日目でステージの基礎。三日目から骨組み。告知は明日からマリカさんが——」
声を出していると、少し落ち着いた。数字とスケジュールに脳が切り替わる。前世から染みついた習慣だ。動揺したら数字に逃げる。
ノアが、小声で呟いた。
「……まったく」
聞こえないふりをした。
でもノアは立ち去らなかった。手すりに肘をついて、マグカップを手に取り直して——私の隣に座り続けた。
テラスに夕風が吹いた。銀泉草の香りが庭から漂ってきた。薬草園から。あの日ノアと二人で植えた苗が、もうこんなに香るようになっている。
「……四日目に食材の仕入れ確認。五日目にリハーサル。六日目から——」
ぶつぶつとスケジュールを読み上げる私の横で、ノアは黙って茶を飲んでいた。
何も言わない。何も聞かない。ただ、隣にいる。
それがこの人だ。
——ありがとう、とは言わなかった。言ったら、きっと「何がだ」と返される。
代わりに、手帳の最後のページに小さく書いた。
「あと10日。——やるしかない。絶対に」
棚田の向こうで、最後の夕陽が沈んだ。金色が消えて、谷が紫色の薄闇に包まれていく。
星が一つ、霧の切れ間に光った。
十日後。この谷の全てを、世界に見せる。
あとがき
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第41話「祭りをやろう」——ディートリヒの税務査察に対して、セラが選んだのは「攻め」でした。
守りだけでは相手のペースに巻き込まれる。だから収穫祭という「外に開く一手」を打つ。これは前世のコンサル経験から来ている判断です。危機のときこそ内向きにならず、自分たちの価値を堂々と見せつける——なかなか勇気のいる選択だと思います。
もう一つの見どころは、エミールさんの覚醒でしょうか。十五年間、衰退する町を見つめるだけだった町長が「やらせてください」と背筋を伸ばす。奥さんのローゼマリーさんの「久しぶりに町長の顔してる」という一言は、書いていて自分でもぐっときました。
そしてテラスのセラとノア。仕事の話をしているはずなのに、どうしてもそれだけじゃ済まない二人。手帳を開いて数字に逃げるセラが、なんともセラらしいなと思っています。
次回、収穫祭の準備が本格始動します。秋の谷が、さらに色づいていきます。
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