第35話: 種を蒔く
「種を蒔こう」
私は手のひらに小さな蕎麦の種を載せて、みんなの前で笑った。
「今すぐ実る種じゃない。半年後、一年後、この谷を変える種だ」
朝の銀泉楼を出て、南斜面の棚田まで歩く。
晩夏の空は高く晴れて、銀嶺連山の稜線がくっきりと見えた。棚田の水面が朝日を弾いて、まるで鏡の階段だ。復田した二十四枚の棚田に早苗が揺れている。ほんの一ヶ月前は草に埋もれていたなんて嘘みたいだった。
ヴァルターさんが、棚田の一段上——石垣の裏側の傾斜地に立っていた。
足元の土を掌で掬い、指の間からさらさらとこぼす。乾いた音。棚田の黒くて湿った土とはまるで違う、灰色がかった痩せた土。
「蕎麦はここだ」
振り向きもせずに言った。
「蕎麦は痩せた土でも育つ。むしろ地脈が強すぎると育ちすぎて倒れる。この裏の傾斜地がちょうどいい」
私が手帳にメモしようとペンを持つより先に、ヴァルターさんは傾斜地の端から端まで歩いて戻ってきた。
「幅二十歩、長さ百歩。ここなら百キロは獲れる」
言葉が少ない分、一言の情報密度が高い。この人の頭の中には、数十年分の土のデータベースがあるのだ。
フリッツさんが鋤を担いでやってきた。隣にアンナちゃんが駆けてくる。小さな手に、麻の袋を大事そうに抱えていた。
「おねえちゃん! 種、持ってきた!」
「ありがとう、アンナちゃん。大事に持ってきてくれたのね」
袋の口を開ける。三角形の小さな殻。蕎麦の種だ。近隣の村から取り寄せた在来種——ヴァルターさんが「ここの気候に合う品種はこれしかない」と指定したものだった。
フリッツさんが鋤を入れる。痩せた土がざくりと裂けて、灰色の断面が見えた。ヴァルターさんが土を触り、頷く。
「よし。蒔け」
私とアンナちゃんで、種を蒔いた。
掌から小さな種をぱらぱらと落とす。アンナちゃんが真剣な顔でしゃがみ込んで、一粒ずつ丁寧に土に置いていく。
「おねえちゃん、これお蕎麦になるの?」
「そうよ。秋にはお蕎麦打ちしよう。アンナちゃんも一緒に」
「やった! アンナ、お蕎麦大好き!」
フリッツさんが娘の頭を撫でた。指先が柔らかい。この人は、娘の前だと全然違う顔になる。
ヴァルターさんは棚田の畦に立って、私たちの作業を黙って見ていた。腕を組んで、風に白髪を揺らして。
ふと——口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……嬢ちゃん」
「はい?」
「裏作に蕎麦を入れるのは、悪くない考えだ」
ヴァルターさんにとっての最上級の賛辞だ。手帳に「裏作蕎麦:ヴァルター承認」と書いた。
銀泉楼に戻ったのは昼前だった。
庭に出ると、ノアがすでに作業を始めていた。
銀泉楼の東側、源泉に最も近い一角。石畳の庭の隅に、四角い区画が縄で仕切られている。ノアが地面にしゃがみ込んで、地脈計測器を土に差していた。
「ここだ」
私が近づくと、顔を上げずに言った。
「地脈が最も安定している場所を選んだ。銀泉草の栽培は前例がない。だが——やってみる価値がある」
薬草園。
それが今日二つ目の「種」だった。
旅館の庭の一角に薬草園を作る。銀泉草を安定栽培できれば、料理にも薬湯にも、入浴剤にも使える。野生の採集に頼っていた供給が安定する。
「前世の薬草園の知識が……少しあります」
ハーブガーデン。前世で取材した京都の旅館に、見事な薬草園があった。板前さんが毎朝摘みに来る小さな畑。あの記憶が今、ここで役に立つ。
ノアが用意した苗を並べた。銀泉草、解熱草、鎮痛根。それから——料理用のハーブ。銀泉草に似た香りの霧薄荷、肉料理に合う霧迷迭香。
「霧迷迭香は源泉の蒸気が当たる場所に植える。蒸気の魔力で香りが強くなる」
ノアが苗を一つ手に取り、穴を掘り、丁寧に植えた。
その手つきが——優しかった。
指先で根元の土をそっと押さえて、水をやる。大きな手なのに、苗を扱う仕草がとても繊細で。学者の手だ。データを扱うように正確で、でも植物に対してだけ、少し柔らかい。
「ノア、あなた植物好きなんだ」
「……嫌いではない」
目を合わせない。苗に水をやりながら、ぼそりと。
昨日のことが——山で手を繋いだことが、頭をよぎった。
ノアは何も言わない。私も何も言わない。二人とも、昨日の帰り道のことには触れない。銀泉楼が見えた瞬間に同時に手を離したこと。お互い別の方を向いたこと。
でも。
今、自然と隣で作業している。二人の間の距離が、以前より少し近い。肩が触れそうな距離。触れないけれど、触れても不自然ではない距離。
ノアが次の苗を手渡してきた。指先が触れた。ほんの一瞬。
ノアの指が——少しだけ、止まった。
「……銀泉草はこの位置に。根が浅いから、深く埋めるな」
何事もなかったように指示を続ける。
私は言われた通りに植えた。銀泉草の苗は銀色の葉を風に揺らして、土に根付こうとしている。
——おかしいな。
この人が隣にいるだけで、こんなに安心する。
前世で三十四年生きて、二百軒以上の旅館を回って、何百人もの人と仕事をした。でも——こんな気持ちになったことは、一度もなかった。
仕事仲間への信頼?
……違う。
違うって、わかってる。でも、名前をつけたら——きっと、仕事に集中できなくなる。
だから今は、黙って苗を植えた。ノアの隣で。土の匂いと、銀泉草の微かな甘い香りの中で。
午後は、イルゼさんと東の丘陵を越えた先——旧葡萄畑へ向かった。
牧場の裏手を抜けて、緩やかな南斜面を登る。かつてはここ一面に葡萄の棚が並んでいたらしい。今は草に覆われて見る影もないが——
「あった」
イルゼさんが声を上げた。
草の中に、一本の蔓が見えた。太い。野生化して石垣に絡みついた霧葡萄の古株だ。葉は小さいが、緑が濃い。生きている。
「お母さんが——霧葡萄酒が大好きだったの」
イルゼさんが蔓に触れた。節くれだった指先で、そっと葉を撫でる。
「秋になると、お母さんは必ず一杯だけ飲んでた。お父さんが絞った葡萄で、お母さんが仕込んだ酒。あたしにも少しだけ味見させてくれてね——甘くて、花の香りがして」
声が少し震えた。でも泣いてはいない。イルゼさんは笑いながら泣くタイプだけれど、今は泣いていない。目が前を向いている。
「復活したら——お母さんに報告しなきゃ」
「復活させましょう」
私は蔓の根元をしゃがんで観察した。前世の知識。葡萄は挿し木で増やせる。健康な枝を切って、水に浸けて発根させて、新しい畑に植える。
「ワイナリーまでは遠くても、まず畑から。この株から挿し木を取って増やしましょう。三年あれば、この斜面を葡萄畑に戻せます」
イルゼさんの目が——丸くなった。
「三年?」
「三年。蕎麦は半年で収穫できるけど、葡萄は三年。でもイルゼさん——三年後には、お母さんの味を再現できるかもしれない」
イルゼさんは蔓を見つめた。風が吹いて、小さな葉がさわさわと揺れた。
「……よし」
小さく、いつもの口癖。自分を鼓舞する一言。
「やるわ。三年、待ってみる」
私たちは慎重に枝を切り取った。五本。水苔に包んで持ち帰る。三年後の霧葡萄酒の、最初の一歩。
銀泉楼に戻ったのは、もう夕方近かった。
帳場に入ると、ハンナさんが声をかけてきた。
「お嬢、お客だよ。王都の商人さんの家族。四人。マリカが案内してる」
「ありがとうございます。すぐ挨拶に——」
「いいよ、マリカに任せな。あの子の接客なら問題ない」
その通りだ。マリカさんの接客は完璧だ。いや、完璧すぎるくらい。客の動きを三手先まで読んで、気づかれる前に動く。銀泉楼のリピーターが増え始めたのは、料理とマリカさんの接客のおかげだと私は思っている。
でも——ほんの少しだけ、気にかかることがある。
完璧すぎるのだ。この辺境の旅館には、不釣り合いなほどに。
客室の花の配置を窓からの視線で計算する技術。宴席の席順を、客の身分で自然に調整する判断力。議事録に並ぶ、活字のように整った文字。
どれも「少し習っていた」で済むレベルではない。
それは、夕食前のことだった。
二階の廊下を歩いていると、客室の前にマリカさんの背中が見えた。
商人の家族——ふくよかな中年の男性と、品のいい奥方、十代の息子と娘。夕食前に部屋に荷物を置いて、大浴場へ向かうところらしい。
マリカさんが廊下に出た商人の家族に声をかけた。
「お支度ができましたら、お風呂までご案内いたします。タオルとお着替えは脱衣所にご用意してございます」
柔らかい声。微笑み。完璧な丁寧語。
商人が「ああ、よろしく」と頷いて、家族を連れて部屋を出た。
その瞬間——
マリカさんの体が、無意識に動いた。
後ろに下がりながら、深い一礼。背筋がまっすぐに伸び、指先が揃い、頭を下げる角度が正確に四十五度。廊下の壁に背中がつくまで後退して、客の通り道を完全に開ける。
一瞬の所作。流れるように自然な動き。でも——
あれは、田舎の旅館の仲居の所作ではない。
商人の奥方が、足を止めた。
「まあ……」
小さな声。でも廊下に響いた。
「まるで王都の翡翠殿のような……」
マリカさんの顔が——凍った。
ほんの一瞬だった。瞬きひとつ分の時間。でも私は見た。頬から血の気が引いて、瞳が揺れた。
足が動いた。自分でも驚くほど、体が反応していた。
「あら、マリカさん!」
笑顔で廊下に出た。奥方の横に並んで、何でもないふうに。
「マリカは勉強家なんです。いろいろな旅館の接客を研究していて——王都の有名どころの所作も取り入れてるんですよ」
声が自然だったか、自分では判断できない。でも奥方は笑った。
「まあ、そうなの。素晴らしいわ。こんな素敵なお宿に、こんな素敵な仲居さんがいるなんて」
「ありがとうございます。どうぞごゆっくりお風呂をお楽しみくださいね」
商人の家族が浴場へ向かう背中を見送った。
廊下に、私とマリカさんだけが残った。
マリカさんは——微笑んでいた。いつもの、完璧な微笑み。
「セラさん、ありがとうございます。助かりました」
でも。
目が合ったとき、その目に——怯えがあった。
笑っているのに、目だけが違う。助けを求めているのか、謝っているのか、逃げたいのか。全部が混ざったような色。
追及しなかった。
「マリカさん、夕食の準備お願いできますか? ユーディットさんが今日は特別メニューだって張り切ってるから」
「はい。すぐに」
マリカさんが一礼して、足早に階段を下りていった。背中がまっすぐで、歩き方に乱れはない。完璧な仲居の後ろ姿。
でも——階段を降りる直前、一瞬だけ振り返った。私を見た。何かを言いかけて——やめた。
足音が遠ざかっていく。
私は廊下に立ったまま、手帳を開いた。
——翡翠殿。
ペンで書いた。それだけ。
覚えておこう。今は追わない。マリカさんが自分から話してくれるまで、待つ。
でも——あの怯えた目を、忘れない。
日が落ちた。
銀泉楼のテラスに夕風が吹いている。西の空がまだ薄紅色に染まっていて、霧の向こうに銀嶺連山のシルエットが浮かんでいた。
今日一日で蒔いた種を、手帳に書き出した。
蕎麦——南斜面の傾斜地。秋には収穫。
薬草園——銀泉楼の庭。銀泉草の栽培実験。
霧葡萄——旧葡萄畑から挿し木五本。三年後に畑を復活。
どれも、明日明後日には形にならない。半年後、一年後、三年後。
前世のコンサル時代は「四半期で結果を出せ」の世界だった。三ヶ月で数字を改善し、半年で利益を黒字にし、一年で投資を回収する。それができなければ無能。
でも——ここは違う。
ガルドさんは言った。「林業は百年単位だ」と。ヴァルターさんは黙って、祖父が作った棚田を守り続けてきた。イルゼさんは、母のチーズ型を二十年間捨てられずにいた。
この谷の人たちは、時間のスケールが違う。百年の時間の中で生きている。
私がこの谷に蒔いた種は——百年後にも実っているだろうか。
「……上出来だ」
背後から声がした。振り向くと、ノアがテラスの柱に肩を預けて立っていた。いつからいたのか。
「一日で三つの長期投資を動かした。しかもどれも初期コストが低い。悪くない判断だ」
「褒めてる?」
「……事実を述べている」
ノアがテラスに出てきた。手にマグカップが二つ。一つを私に差し出す。
「銀泉草の茶だ。薬草園から摘んだ」
受け取った。湯気が立つ。銀泉草の、微かに甘くて清涼な香り。
「——もう使ってるの? 今日植えたばかりなのに」
「苗の状態で少し余ったものを使った。無駄にしないだけだ」
ぶっきらぼうな声。でもわざわざ二つ淹れて持ってきている。一つは自分の分だから——つまり、一緒に飲むつもりだったということだ。
並んでテラスの手すりに寄りかかった。
眼下に町が見える。魔導灯が一つ、二つと灯り始めている。棚田の水面にその光が映って、小さな星のようだった。
「ノア」
「なんだ」
「昨日の——山のこと」
言いかけて、止まった。何を言おうとしたのか、自分でもわからなかった。手を繋いだこと? ありがとうって言いたかった? それとも——
「……やっぱり、いい」
「……そうか」
ノアは何も聞かなかった。茶を一口飲んで、夜の谷を見ている。横顔が魔導灯の光でほんのり照らされて、深い緑色の目が遠くを見ていた。
追及しない人だ。この人は。こちらが止まれば、それ以上踏み込まない。
でも——隣にいる。いつも、一番近くに。
銀泉草の茶が温かかった。喉を通って、胸の奥にじんわり広がる。この温かさは茶のせいだ。きっと茶のせいだ。
「全部揃った」
私は手帳を閉じた。
棚田の米、川の鱒、丘のチーズと卵と蜂蜜、森の炭と精油。そして今日の蕎麦、薬草、葡萄。
この谷の土が育むもの全部が、少しずつ、息を吹き返し始めている。
「——みんなで食卓を囲もう」
ノアが横目で私を見た。
「……また大風呂敷か」
「大風呂敷を広げるのが私の仕事でしょう」
ノアの口元が——ほんの微かに、緩んだ。
「……ああ。お前の仕事だ」
夜風が、銀泉草の香りを運んできた。テラスの下の薬草園から。今日植えたばかりの小さな苗たちが、もう風に揺れている。
半年後。一年後。三年後。
その頃にはこの谷は——この食卓は——もっとたくさんの笑い声で溢れているだろう。
そう信じられる夜だった。
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