第36話: 食卓を囲む
テーブルに並んだ全ての皿を、私は指差して数えた。
地脈米。谷鱒。霧山羊チーズ。温泉卵。霧茸。山菜。銀泉草の茶。
——全部、この谷で生まれたもの。半年前には、何一つなかったのに。
夕方の風が銀泉楼のテラスを撫でていく。
西に傾いた陽が霧の中で溶けて、谷全体がうっすらと金色に染まっていた。棚田の水面が光を映し、その向こうに霧峰山の稜線がぼんやり浮かんでいる。
テラスに長い木のテーブルが据えてある。ガルドとリュカが客室から運び出したもので、普段は使わない大きなやつだ。椅子は足りなくて、木箱やベンチを並べている。
「さあ、今日はみんなで食べましょう」
私が声をかけると、厨房からユーディットとリュカが現れた。両手に大皿を抱えて、湯気が立っている。
続いてハンナさんが鍋を持ってきた。マリカさんが箸と匙を配って回る。ガルドはテラスの端に腕を組んで立っていたけれど、リュカが「棟梁、座ってくださいっす!」と引っ張ってきた。ノアは——いつものように、端の席に黙って座っている。
テーブルの上に、皿が一つずつ並んでいく。
最初の一皿は、白い湯気だった。
源泉水で炊いた地脈米のご飯。蓋を開けた瞬間、甘い香りがテラスに広がる。ヴァルターさんが二十年間、八枚の棚田を一人で守り続けた米だ。
二皿目。谷鱒の源泉蒸し。蒸し室で源泉の蒸気に包まれた鱒が、白く輝いている。身がほろりと崩れ、透明な脂が皿に滲む。トビアスさんが「引退した」と言いながら育てた魚。
三皿目。霧杉炭で焼いた谷鱒の塩焼き。皮がぱりぱりと弾けて、身は黄金色。銀泉草の塩だけで焼いてある。ガルドが三日三晩かけて焼いた炭の火力が、鱒の旨味を閉じ込めている。
四皿目。霧山羊チーズと霧茸のリゾット。イルゼさんのチーズが地脈米に絡んで、リュカが採った霧茸の深い香りと混ざり合っている。一口で三人の仕事が舌の上で出会う。
五皿目。銀泉鶏の温泉卵。殻を割ると、白身はふるふる、黄身はとろり。深いオレンジ色が皿の上で宝石のように光っている。
六皿目。薬草園のハーブサラダ。ノアが植えた解熱草の若葉と料理用ハーブを、霧山羊チーズの薄切りに添えたもの。緑と白のコントラストが美しい。
そして最後に——ユーディットが大鍋の蓋を取った。
「谷の恵み膳。全品、この谷の食材だけで仕立てた」
鍋の中は根菜の源泉蒸しだった。里芋と蕪が源泉の蒸気でとろとろになっている。ヨハンさんのレシピ帳に書かれていた、リュカの父が遺した一品。
湯気の向こうで、ユーディットの目が誇らしく光っていた。
全員が席に着いた。
七人分の席。私、ノア、ハンナさん、ユーディット、リュカ、ガルド、マリカさん。椅子がちょっとずつ高さが違うから、目線がでこぼこしている。それがなんだか良かった。
「いただきます」
みんなで手を合わせた。ガルドだけ出遅れて、慌てて手を叩いた。リュカが笑った。
最初の一口は、ご飯だった。
……甘い。噛むほどに甘みが広がっていく。源泉水の柔らかさが米粒一つ一つに染み込んで、前世のどの銘柄米よりも深い味がする。
谷鱒の源泉蒸しを口に運ぶ。箸が身に触れた瞬間、ほろりと崩れた。脂が舌の上で溶ける。塩味はほとんどない。魚そのものの旨味と、源泉の蒸気に含まれるかすかな鉱物の風味だけ。
横目で見ると、ハンナさんが蒸し鱒を口に入れて、目を閉じていた。ゆっくり咀嚼して、もう一切れ。今度は塩焼きのほう。パリッと皮が弾ける音が、静かなテラスに響いた。
リュカが霧茸のリゾットを一口食べて、ぱっと顔を輝かせた。
「師匠! チーズと霧茸がめちゃくちゃ合うっす! これイルゼさんのフレッシュチーズだから酸味が軽くて、霧茸の香りを——」
「食いながら喋るな。味がわからなくなる」
ユーディットがぴしゃりと言って、自分もリゾットを口に運んだ。二口目に手が伸びる。三口目。——止まらなくなっている。
「……悪くない」
リュカが声を上げた。「師匠が悪くないって言った! それめちゃくちゃ褒めてるやつっす!」
「うるさい。食え」
温泉卵を割った。
とろりと流れ出す黄身を、源泉蒸しの根菜にかけて食べる。里芋の滑らかさと卵の濃厚さが混ざって、口の中が幸せで溢れた。
ガルドが塩焼きの鱒を骨までしゃぶって、ご飯を大盛りに変えていた。二杯目。
「棟梁、食べすぎじゃないっすか」
「俺は体がでかいんだ。燃料が要る」
マリカさんがハーブサラダを取り分けながら、小さく微笑んでいた。いつもは控えめな人だけれど、今日はリュカの皿にリゾットを追加してあげたり、ガルドに茶を注いだりしている。接客の癖がこういうところに出る。
ノアは黙って食べていた。源泉蒸しの鱒を一切れ、ご飯を一口、リゾットを少し。静かに、丁寧に。でも——皿が空になるのが早い。
全部の皿に箸をつけ終わった頃、夕陽が沈みかけていた。
テラスに西日が差し込んで、テーブルの上の皿を赤く染めている。湯気はもう収まって、代わりに銀泉草の茶の香りが漂っていた。マリカさんが全員に茶を配ってくれている。
「この食卓の全部が、この谷で生まれたものなんだ」
私は皿を見回して、呟いた。
「半年前には何もなかった。源泉は弱って、棚田は草に覆われて、養魚場は埋まって、牧場は——」
言葉が詰まった。数字が頭の中で回る。棚田八枚から二十四枚。養魚場三池。山羊十五頭。鶏二十羽。蜂の巣箱。炭焼き窯。精油。薬草園。蕎麦畑。霧葡萄の挿し木。
数字だけじゃない。ヴァルターさんの節くれだった手。トビアスさんが涙を拭いた袖。イルゼさんの「よし」の声。フリッツの娘アンナが棚田で笑った顔。
全部が——ここに集まっている。
「何もなかったんじゃねぇ」
ガルドの声だった。
茶碗を置いて、テーブルの向こうから私をまっすぐ見ている。
「あったんだ。ずっと。土も、水も、木も、魚も。——ただ誰も繋げなかっただけだ」
胸の奥が、熱くなった。
ハンナさんが、箸を置いた。
ゆっくりと。七皿全部を味わい終えて、最後の銀泉草の茶を飲み干してから。
灰色の目がテーブルの上を見渡した。空になった皿。残った粒。溶けかけたチーズの跡。鱒の骨。——全部食べ尽くされた食卓。
「……ローザ様が見てたら」
声が、ほんの少しだけ震えた。
「きっと泣くよ。この谷にこんな食卓が戻ってきたんだから」
ハンナさんの目に光るものがあった。
でも——泣かなかった。
笑っていた。皺だらけの顔が、夕陽の中でくしゃりと崩れて、七十二年分の笑い皺が全部動いていた。
「よくやったね、お嬢」
それだけ言って、茶を一口。
何でもないように。
——でも私は知っている。ハンナさんがこの食卓に何を見ているのか。二十年前に失われた銀泉楼の食卓。ローザさんが愛した谷の味。エリカさんのチーズ。ヨハンさんの源泉蒸し。全部が——形を変えて、帰ってきた。
「……ありがとう。みんな」
声が掠れた。目の奥が熱い。
泣くつもりはなかった。コンサルタントは泣かない。前世でも、どんなに嬉しいことがあっても、クライアントの前では泣かなかった。プロだから。
でも。
涙が、一筋だけ頬を伝った。
拭おうとして——手が止まった。
拭わなくていい、と思った。ここは会議室じゃない。クライアントの前でもない。仲間の前だ。
「泣くな、嬢ちゃん。飯が塩辛くなる」
ガルドが言った。でも声は柔らかかった。
「セラさん泣いてる! 俺も泣きそうっす!」
リュカが鼻をすすった。ユーディットが「小僧、鼻水を料理に落とすんじゃない」と言いながら、自分も目元をこすっていた。
マリカさんが黙って私の隣に来て、手巾を差し出してくれた。真っ白い、きれいに畳まれた手巾。所作が完璧だった。——いつも完璧な人。
「ありがとう、マリカさん」
受け取って、目元を押さえた。
テラスに夜風が吹いた。晩夏の風だ。日中はまだ暑いけれど、夜になると山の空気が変わってきている。
霧が少しずつ晴れて、星が見え始めている。一つ、二つ。霧の切れ間に瞬く光が、谷の上にばらまかれていく。
リュカが「すげぇ、星きれいっす」と叫んで、ガルドが「毎日見てるだろうが」と呆れた。ユーディットが残った根菜の蒸し物をもう一口食べて、ハンナさんと何か小声で話している。マリカさんがテーブルの端で茶を飲みながら、みんなの様子を見守っている。
穏やかだった。
こんな夜が、銀泉楼にあったんだろうか。二十年前——ローザさんがいた頃にも。きっとあったのだと思う。スタッフが一日の仕事を終えて、一つのテーブルを囲んで、笑い合う夜が。
その夜が——帰ってきた。
ノアが席を立って、テラスの手すりにもたれた。谷を見下ろしている。霧の向こうに棚田の水面がぼんやりと光っていた。
私も立ち上がって、隣に行った。
しばらく、二人で黙って谷を眺めた。
夜風が髪を揺らす。霧杉の精油に似た、甘くて清冽な匂いが風に乗ってきた。森の匂いだ。
「ノア」
「なんだ」
「今日のご飯、どうだった?」
聞いてから、少し恥ずかしくなった。小学生みたいな質問だ。
ノアは谷を見たまま、少し間を置いて言った。
「……まずくはなかった」
出た。
「それ、あなたの最上級の褒め言葉でしょう」
ノアの横顔が、かすかに歪んだ。笑っている——のだと思う。この人の笑顔はいつも微かで、見逃すと気づけない。
「……うるさい」
でも口元が緩んでいた。確かに緩んでいた。星明かりの下でも、それだけはわかった。
——ああ。
この瞬間を、守りたい。
みんなが笑っている食卓。谷で生まれた食材。仲間の手が作った料理。テラスに吹く夜風。星。霧。
守りたい、と思った。
——守らなきゃいけない。
みんなが部屋に戻った後、私はテラスに残った。
テーブルの上には空の皿が並んでいる。片付けなきゃ、と思いながら——先に、手帳を開いた。
新しいページ。
ペンを走らせる。
「Arc3 完了。一次産業の基盤構築——達成」
「棚田24枚。養魚場3池。牧場(山羊15、鶏20、蜂)。森(炭焼き・精油・建材)。薬草園。蕎麦畑。霧葡萄」
全部書き出して、線を引いた。
次のページ。
大きな文字で書いた。
「次のフェーズ——この谷を、世界に見せる」
体験コンテンツ。渓流釣り。チーズ作り。蕎麦打ち。そして——収穫祭。
この谷のすべてを、一日に凝縮して見せるイベント。来た人が「ここに住みたい」と思うような一日。
ペンが止まらない。数字が頭の中を回る。集客見込み。価格設定。動線設計。スタッフ配置——
「セラ」
声がした。
振り返ると、ノアがテラスの入口に立っていた。手に皿を二枚持っている。片付けに来たらしい。
「まだいたのか」
「ちょっとだけ。……メモしてた」
ノアが皿をテーブルに置いて、私の手帳を横目で見た。暗くてほとんど読めないはずだけど。
「……お前は、止まらないな」
「止まれないの。見えちゃってるから」
同じやりとりを、前にもした気がする。あの夜。帳場で茶を持ってきてくれた夜。
「寝ろ。明日も早い」
「うん。もう少しだけ」
ノアは何も言わずに皿を重ねて、テラスを出ていった。
その背中を見送りながら、思った。
——この人がいなかったら、ここまで来れなかった。
手帳に視線を戻す。星明かりだけでは、もう文字が見えない。
ペンを置いた。
明日から、また新しいことが始まる。
——王都、巡回監査局。
日が落ちた執務室に、ディートリヒ・ハイネの机だけが灯りを灯していた。
机の上に広げられた報告書。几帳面に揃えられた書類の束。その最上段に、新しい一通が載っている。
『東部辺境州・ミストヴァレー地区 動向報告』
ディートリヒは眼鏡を直して、報告書を読み進めた。
「銀泉楼、営業再開後の宿泊者数は増加傾向。月間約八十名。周辺一次産業に復興の兆候あり——灌漑水路修復に伴う棚田再開、養魚場再稼働、畜産の開始……」
読む速度が上がる。ページを捲る指先が、わずかに力を込めた。
「霧杉林業の再開。炭焼き窯の復旧。精油蒸留の試験生産——」
報告書を置いた。
椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げる。
「……半年で、ここまで動かしたのか」
独り言のように呟いた。声には驚きがあった。——それから、別の感情が混じる。
机の端に一通の封書がある。蝋印が押されていた。紋章入り。見覚えのある——見たくない紋章。
手に取った。
蝋印を爪で剥がす。丁寧に。痕跡を残さないように。
便箋を広げた。短い文面。命令口調の、簡潔な文字。
読み終えて、窓の外を見た。王都の夜景が、ガラスの向こうで瞬いている。
「税務特別査察……か」
封書を机に置いた。
引き出しから街道の地図を取り出す。王都から東へ伸びる街道。分岐点。山道。——ミストヴァレー。
指先が、その地名の上を滑った。
「あの娘、今度はどう出る」
灯りの下で、ディートリヒの薄い灰色の目が細まった。笑みではない。算段だ。
報告書を閉じ、地図を畳んだ。全てを書類鞄に収める。
執務室の灯りを消す前に、もう一度だけ窓の外を見た。
——嵐が近づいている。
あとがき
Arc3「大地を拓く」、完結です。お読みいただきありがとうございます。
棚田から始まり、養魚場、牧場、森、そして食卓へ。
十二話かけて、この谷の一次産業が息を吹き返す過程を描いてきました。
ヴァルターさんの棚田、トビアスさんの養魚場、イルゼさんのチーズ、ガルドの霧杉炭。
それぞれが一人では完結しない。繋がって初めて、「谷の恵み膳」が生まれる。
——この食卓が、Arc3の答えです。
次章Arc4「谷の恵み」では、いよいよ体験コンテンツが本格始動します。
渓流釣り、チーズ作り、蕎麦打ち。そして——収穫祭。
同時に、サスペンスも動き出します。ディートリヒの再来。ヴィクトールの影。マリカの過去。
穏やかな食卓の裏で、嵐が近づいています。
引き続き、セラと谷の仲間たちの物語にお付き合いいただければ幸いです。
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