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追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります  作者: 歩人


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第34話: リンドヴァルの記憶

 「リンドヴァル」。


 ノアの机に積まれたファイルの中で、その名前だけが擦り切れていた。


 何度も何度も開いた証拠——そして、何度も何度も閉じた証拠。




 用があったのは地脈計測のデータだった。


 棚田の水路修復からひと月あまり。養魚場の谷鱒も順調に育ち、イルゼの牧場は山羊と鶏で賑わい始めている。一次産業の復興は確実に進んでいた。


 でも、もう一つの——まだ手をつけていない問題がある。


 この谷が衰退した本当の理由。


 前回の料理の試作でユーディットとリュカが「谷の恵み膳」の原型を作り上げた夜、私は思った。食材は揃った。料理は形になった。あとは——あの謎の奥にも踏み込まないと。


 だから朝一番でノアの研究室を訪ねた。銀泉楼の三階、ノアが占拠している一室。机の上には地脈計測器、革の手帳、鉱石の標本、数式だらけの紙束——それに、大量のファイル。


 ノアは不在だった。朝の地脈計測に出ているのだろう。


 机の端にある棚から最新の計測データを探す。ファイルの背表紙に「北脈」「東脈」「西脈」と几帳面な字で書かれている。その中に——


 一冊だけ、毛色の違うファイルがあった。


 革表紙が擦り切れている。角が丸くなり、綴じ紐は何度も結び直した跡がある。背表紙には一語だけ。


 「リンドヴァル」。


 聞いたことのない名前だった。地名だろうか。


 手に取りかけて——止めた。人の研究室のファイルを勝手に開くのは、さすがに失礼だ。


 棚に戻して、必要なデータだけを手帳に書き写した。けれど、あの擦り切れた背表紙が——頭から離れなかった。




 「霧峰山の山腹まで行く。来るか」


 朝食後、ノアが不意に言った。


 厨房の片隅で手帳を広げていた私は顔を上げた。ノアは外套を羽織り、地脈計測器を肩に掛けている。いつもの調査装備だ。


 「源泉調査?」


 「ああ。前に森で見つけた術式の痕跡を辿る。あの紋様が消える前に、上流を確認しておきたい」


 先日——霧杉の森で見つけた、古い霧杉の幹に刻まれた魔力の残滓。地脈操作の術師が森を通って山へ向かった足跡。あのとき「覚えておく」と手帳に書いた。


 「行く」


 即答した。ノアの深い緑色の目が一瞬だけ柔らかくなった——気がした。




 霧杉の森を抜け、古い山道に入った。


 道と呼べるかどうかも怪しい。苔むした岩と倒木の間を、かろうじて人一人が通れる幅。二十年間、誰も歩いていなかったのだろう。しかし足元の石に残る人工的な平坦さが、かつてここが道だったことを語っていた。


 標高が上がるにつれて、霧が濃くなる。霧杉の森が終わり、低い灌木と苔の台地に出た。振り返ると——谷が一望できた。


 銀泉楼の屋根。棚田の水面。銀霧川のきらめき。牧場の丘。小さな町。全部が朝霧の中に浮かんでいる。


 「……きれい」


 「上からだと地脈の流れが見えやすい」


 ノアが谷を見下ろしながら、計測器を構えた。学者の目だ。きれいだなんて思ってはいない——たぶん。


 さらに登った。岩場が増え、足元が不安定になる。ノアは慣れた足取りで先を行き、時折振り返って私の位置を確認した。


 そして——山腹の岩壁の手前で、ノアが立ち止まった。


 計測器を下ろす。外套の裾が風に揺れている。私が追いつくのを待っている——のだが、振り返らない。


 「……セラ」


 足が止まった。


 セラ。


 セラフィーナでも、お前でもなく。


 セラ。


 「一つ、話しておくことがある」


 ノアが振り返った。いつもの不愛想な顔ではなかった。目の奥に——何か、重いものを抱えている顔。


 「……聞く」


 立ったまま、ノアを見上げた。霧が二人の間を流れていく。




 「五年前、俺はリンドヴァルという村にいた」


 ノアは岩に腰を下ろし、谷を見下ろしながら話し始めた。私はその隣に座った。少し距離を空けて。


 「ここから山を二つ越えた先の、小さな谷だ。人口は百人もいなかった。温泉はなかったが、地脈が通っていて——水が良かった。米が旨い村だった」


 声が低い。いつもより、さらに。


 「俺は王立学院を出たばかりで、地脈の異常事例を調査して回っていた。リンドヴァルに着いた時——すぐにわかった。地脈が歪んでいる。自然な状態じゃない」


 「……誰かが操作していた?」


 「ああ。ここと同じだ」


 ノアの目が、眼下の谷を見つめたまま動かない。


 「原因を突き止めた。地脈の分岐点に維持装置——アンカーが埋設されていた。撤去すれば村は救える。だが——」


 言葉が途切れた。


 「証拠を、揃えようとした」


 ノアの声が、かすかに震えた。


 「学者の悪い癖だ。確実な証拠、完璧なデータ、論文にできるほどの裏付け。それを揃えてから然るべき機関に報告すれば——正しい手順で、正しく対処される。そう思っていた」


 「……ノア」


 「三ヶ月かかった。証拠を揃えるのに、三ヶ月。その間も地脈は枯れ続けていた。井戸が涸れ、田んぼが干上がり、家畜が弱り——人が、出ていった」


 ノアが目を閉じた。


 「報告書が完成した日に、村に戻った。——もう、誰もいなかった」


 風の音だけが聞こえた。霧が流れる。岩の苔が光る。


 「家は空っぽだった。田んぼは干からびていた。井戸の底に水はなかった。——俺のデータだけが、完璧に揃っていた」


 最後の一文に、刃のような自嘲が混じっていた。


 「俺が……もっと早く動いていれば、あの村は救えた」


 「それから、地脈異常を見つけたら放っておけなくなった。完璧な証拠なんか後回しでいい。まず動く。まず現地に行く。——ここに来たのも、そうだ」


 ここ。ミストヴァレー。銀泉楼。


 五年前にこの谷を訪れたノアは、リンドヴァルと同じ地脈異常に気づいた。そして二年前から、廃旅館に住み着いてデータを取り続けていた。


 私がこの谷に追放されるよりも——ずっと前から。


 「ノア」


 声を出した。なるべく静かに。この人の傷に触れるように。


 「あなたがここに来たのは、贖罪のため?」


 ノアが私を見た。深い緑色の目。その奥に——五年分の後悔と、二年分の決意が見えた。


 「……最初はそうだった」


 声が低い。でも震えは止まっていた。


 「だが今は——」


 言いかけて、止まった。


 口を閉じる。唇がわずかに動いて、何かを飲み込んだ。


 「今は?」


 聞いた。聞かないわけにはいかなかった。


 ノアの目が、私から——谷へ戻る。霧の中に浮かぶ銀泉楼の屋根を見つめて。


 「……この谷を守りたい。——それだけだ」


 それだけ。


 嘘だ——とは思わなかった。嘘じゃないのだろう。この谷を守りたいのは、本当なのだろう。


 でも、「それだけ」ではない。


 わかる。この人の声の温度が変わった瞬間を、私は聞き逃さなかった。「だが今は」の後に飲み込んだ言葉が何だったのか——聞かなくても、わかる。


 わかってしまった。


 でも、今は聞かない。


 ノアが自分の言葉で、自分のタイミングで言うまで。この人はそういう人だ。急かしたら——二度と言えなくなる。


 「……ありがとう。話してくれて」


 それだけ言った。ノアは頷いた。目は合わせなかった。




 山腹の岩壁に、それはあった。


 苔を剥がした岩肌に——魔法陣。


 森で見た霧杉の幹の紋様とは比べものにならない規模。直径二メートルほどの円形に、幾何学的な線が幾重にも刻まれている。風化してかすれているが、ノアが指先で触れると——微かに、光った。


 「……まだ残っている。二十年経って、まだ魔力が残っている」


 ノアの声が学者に戻っていた。低いが——鋭い。計測器を岩壁に近づけ、数値を読み取る。


 「術式の種類は地脈導管術の補助回路。ここで地脈の流れの方向を固定している。この先——おそらく百メートルほど上に、本体のアンカーがある」


 「今日、そこまで行ける?」


 「行けるが——今日は位置の特定だけにする。アンカーには警報機構がある可能性がある。不用意に近づくと、設置者に知られる」


 冷静だ。リンドヴァルの失敗から学んだのだろう。証拠を完璧に揃えてから動くのではなく、かといって不用意に踏み込むのでもなく——確実に、段階を踏む。


 私は手帳を開いた。魔法陣のスケッチを描く。線の形、円の大きさ、位置の目印。ノアが読み上げる計測値を数字で記録する。


 「二十年前のものだ」


 ノアが立ち上がり、岩壁の全体を見渡した。


 「この術式……高度すぎる。素人にはできない。王立学院でも、これを組める人間は五人もいなかったはずだ」


 「依頼した人間がいる」


 私は手帳を閉じた。


 「——その人間を突き止める」


 ノアが振り返った。目が細くなる。


 「セラ。相手が中央の貴族なら、これは危険な話になる」


 名前が重かった。セラフィーナではなく——セラ。この呼び方に込められた意味を、私はもう知っている。


 「知ってる」


 ノアの目をまっすぐ見た。


 「でも、この谷を守るにはやるしかない」


 しばらく見つめ合った。霧が流れる。岩壁の魔法陣が、二人の間で微かに光っている。


 ノアが——口元を、ほんの少し緩めた。笑ったのではない。たぶん、安堵に近いもの。


 「……ああ。やるしかないな」


 手帳に魔法陣の位置を記した。「霧峰山中腹、北脈沿い。古い地脈導管術の補助回路。本体は上方推定100m。要・段階的アプローチ」。


 これが、証拠の始まりだ。




 下山は、登りよりも怖かった。


 朝は霧に隠れていた岩場の高度が、午後の陽光に照らされて丸見えになっている。足元の岩は苔で滑り、片側は急な斜面。一歩間違えれば——考えないようにする。


 ノアは前を歩いていた。時折立ち止まって、私が追いつくのを待つ。さっきまでの重い空気は消えて、学者の表情に戻っている。


 でも——呼び方だけは、戻らなかった。


 「セラ、この先の岩は濡れている。右側を踏め」


 「セラ、枝に掴まるな。枯れている」


 セラ、セラ、セラ。


 その度に、胸の奥が小さく温かくなる。止められない。


 急な下り坂に差し掛かった。岩が階段状に並んでいるが、苔で滑る。ノアが先に降りて、下から私を待った。


 一段目。大丈夫。二段目。足を置く。三段目——


 苔に、足が滑った。


 「っ——」


 体が傾く。左足が空を蹴った。斜面に落ちる——そう思った瞬間、手首を掴まれた。


 強い力。引き上げられて、岩の上に足がつく。


 「……足元を見ろ」


 ノアの声。低い。怒っているのではない。怖かったのだ——と、手首を掴む力の強さでわかった。


 「見て、た……」


 息が切れている。心臓がうるさい。落ちかけた恐怖と、別の何かが混ざって。


 ノアは手首を掴んだまま動かなかった。


 私が安定したのを確認してから——手首ではなく、手のひらを握り直した。


 指が、絡んだ。


 「……危ない場所が続く。手を離すな」


 声が低い。顔は前を向いたまま。首筋に、微かな赤みが差していた。


 「……うん」


 それだけしか言えなかった。


 歩き出した。手を繋いだまま。


 ノアの手は大きかった。指が長くて、掌が広くて——硬い。岩を掴み、魔法の杖を振り、冒険者の剣を握ってきた手だ。地脈を調べるために土を掘り、苗を植え、蒸留器を組み立ててきた手だ。


 その手が、私の手を包んでいる。


 温かい。


 岩場を下る。二人とも黙っていた。足音と、岩を踏む音と、遠くで鳥が鳴く声だけ。


 岩場を過ぎても——手は、繋がったままだった。


 もう危ない場所は終わったのに。ノアも気づいているはずだ。私も気づいている。でも——どちらも、離さなかった。離す理由を探すのが、怖かった。


 山道が緩やかになり、視界が開けた。


 霧峰山の中腹から見下ろすミストヴァレー。夕陽が谷を金色に染めていた。棚田の水面が鏡のように空を映し、銀霧川がオレンジの光を帯びて蛇行している。東の丘陵に山羊の群れが点のように見える。霧杉の森が黒い影になって、その向こうに——銀泉楼の屋根が、夕陽を受けて輝いていた。


 美しかった。


 この谷が、こんなに美しいと——知らなかった。毎日見ているのに。旅館で、厨房で、棚田で、養魚場で。いつもすぐ近くにいたのに。


 こうして上から見下ろすと——全部が見える。全部が一つに繋がっているのが、見える。


 ノアの手が、微かに力を込めた。


 気づいているのだろう。この景色が美しいことを。この谷を守りたいと思う気持ちが、嘘ではないことを。


 ——私もだ。この谷を守りたい。この場所にいる人たちを守りたい。ヴァルターの棚田を。トビアスの養魚場を。イルゼのチーズを。ガルドの窯を。ハンナの笑顔を。リュカの料理を。ユーディットの炭火を。マリカの——まだ見えない過去を。


 そして。


 この手を——。


 ……離したくないな。


 大きくて、硬くて、じんわりと熱い手。この手がなければ、私は今日ここに立っていない。この旅館を再建する夢も、叶えられなかった。ノアの知識がなければ。ノアの魔法がなければ。ノアの——不器用で、言葉少なで、でも一番近くにいてくれる、この人がいなければ。


 心臓がうるさかった。恥ずかしいくらい、うるさかった。


 隣を見た。ノアは前を向いていた。顔は見えない。でも——繋いだ手から、脈が伝わっている。速い。いつもの冷静なノアの鼓動じゃない。


 ……あなたも、なんだ。


 銀泉楼の屋根が近づいてきた。


 町の外れの坂道。ここを下れば、旅館の裏庭に出る。


 ノアの手が——動いた。


 ほどけるように、指が離れた。同時に、私も手を引いた。どちらが先だったのか、わからない。たぶん——同時だった。


 お互い、別の方を向いた。


 ノアは右の——森の方を見ている。私は左の——棚田の方を見ている。


 何も言わない。


 言えない。


 夕風が吹いた。ノアの外套の裾がはためいて、私の髪が頬にかかった。


 「……戻るぞ」


 ノアの声が、いつも通りだった。いつも通りの、低くて素っ気ない声。


 「……うん」


 私の声も、いつも通りだった——と思う。思いたい。


 並んで坂を下りた。もう手は繋いでいない。肩と肩の間に、拳ひとつ分の距離。


 何も変わっていないように見える。


 でも——何かが、確かに変わった。


 繋いだ手の温もりが、まだ残っている。指の間に。掌の中に。胸の奥に。




 銀泉楼の裏庭に着いた。


 厨房からユーディットの声が聞こえる。「小僧、火加減!」「はいっす!」。夕食の仕込みだ。日常が——いつも通りに、待っていてくれた。


 ノアが足を止めた。


 「セラ」


 振り返った。夕陽の残光の中で、ノアの深い緑色の目がこちらを見ていた。


 「今日のこと——山で見つけた術式のことは、まだ他の人間には言うな」


 「……わかってる。証拠が揃うまでは」


 「ああ」


 ノアが頷いた。それだけのはずだった。それだけで——踵を返して、自分の部屋に戻るはずだった。


 でも、ノアは一瞬だけ——ほんの一瞬だけ——私の右手を見た。


 さっきまで、繋いでいた手を。


 それから目を逸らして、足早に廊下の奥へ消えていった。


 残された私は、裏庭に突っ立ったまま——右手を、左手で包んだ。


 まだ温かい。




 夜。


 手帳を開いた。今日の記録を書かなければ。


 「霧峰山中腹。地脈導管術の補助回路を発見。アンカー本体は上方推定100m。術式は高度——王立学院レベル。二十年前の施術」


 ペンが止まった。


 ……書けない。書かなければいけないことは、まだある。


 「証拠はある。あとは——誰が、なぜ」


 そこまで書いて、ペンを置いた。


 窓の外を見た。月が出ている。霧峰山の稜線が黒く浮かんでいる。あの山の中腹に、二十年前の魔法陣がある。その先に、この谷の秘密を握るアンカーがある。


 相手が中央の貴族なら——危険な話になる。ノアの言葉が、耳に残っている。


 でも、やるしかない。


 ……でも今は。


 手帳のページをめくった。白いページに、一行だけ書いた。


 「まず、種を蒔こう」


 それは——谷の蕎麦畑の種のことでもあり。薬草園の苗のことでもあり。


 それから。


 右手の余韻が消えないうちに——明日もこの谷で、やるべきことをやろう。


 手帳を閉じた。


 銀泉楼の廊下の向こうで、微かに足音が聞こえた。ノアの部屋の方角だ。まだ起きている。


 五年分の後悔を、この谷に置き換えて。今度は間違えないと——自分に誓っている人。


 ……おやすみ、ノア。


 その言葉は、声にはならなかった。

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