第29話: 丘の山羊、谷のチーズ
「あの子のお母さんのチーズはね——ローザ様の大好物だったんだよ」
ハンナさんがそう言ったとき、私は手帳を閉じた。
これは経営計画じゃない。記憶を蘇らせる仕事だ。
棚田、養魚場。二つが動き出して、私の手帳の次のページには「畜産」と書いてあった。
東の丘陵に野生化した霧山羊がいることは、ノアの調査でわかっている。五、六頭。かつて牧場で飼われていた山羊の子孫だ。ノアは朝から源泉の地下構造調査に出ている。「地脈の計測は午前中が正確だ」と言い残して行った。
「旅館のチーズを自給できれば、食材の幅が一気に広がる」
朝の帳場で計画を広げたとき、ハンナさんが箒の手を止めた。
「お嬢。イルゼのところに行くつもりかい」
「はい。雑貨屋のイルゼさん。お母さんが牧場をやっていたと聞きました」
「エリカさんだよ」
ハンナさんの声が、ほんの少し柔らかくなった。箒を壁に立てかけて、こちらに向き直る。
「あの子のお母さん——エリカさんのチーズは、ローザ様のお気に入りだった。秋の特別料理にはいつも霧山羊のフロマージュが出てたんだ。牧場が閉まったとき、ローザ様は泣いたよ」
一拍、間があった。
「——あたしも、泣いた」
ハンナさんがそういう言い方をするのは珍しい。この人はいつも感傷を隠す。ローザ様の名前が出たときだけ、ほんの一瞬、目の奥が揺れる。
「あたしが連れていってあげるよ。イルゼのことは子供の頃から知ってる。お嬢が一人で行っても——あの子、うんとは言わないだろうからね」
東の丘陵は、銀泉楼から歩いて三十分ほどの場所にあった。
南斜面の棚田とは谷を挟んだ東側。緩やかな起伏が続く草原で、地脈の牧草がたっぷり茂っている。風が渡ると、草の先が銀色に光った。
「あそこだよ」
ハンナさんが指さした先に——いた。
霧山羊。五頭。
銀灰色の毛並みがやわらかく風になびいている。大きいのが三頭、小さいのが二頭。のんびり草を食んでいた。こちらに気づいても逃げない。
一頭が顔を上げた。私を見て、首を傾げて——てくてくと歩いてきた。
「え、ちょっと——」
山羊が鼻先を私の手のひらに押しつけた。ぺろり、と舐められる。温かくて、ざらざらして、くすぐったい。
「……人懐こい」
「見てご覧。人が好きなんだ」
ハンナさんが目を細めた。
「エリカさんが育てた山羊の、子孫だからね。あの人は山羊を家族みたいに可愛がった。その気質が、代々受け継がれてるのさ」
山羊がもう一度、私の手を舐めた。琥珀色の瞳がまっすぐこちらを見ている。
——野生化して十年以上。それでも人の手を覚えている。
手帳にメモを取ろうとしたけれど、やめた。こういうのは数字に落とし込む話じゃない。
町に戻って、イルゼさんの雑貨屋を訪ねた。
小さな店だった。棚に日用品が並び、カウンターにイルゼさんが立っている。赤みがかった茶髪を後ろで束ねた、がっしりした体格の女性。笑い皺が深い。
「いらっしゃい。ハンナおばあちゃんも一緒? 珍しいわね」
「ちょっと用があってね」
ハンナさんが椅子に腰を下ろした。私は店内を見回す。
——あった。
カウンターの奥の棚。日用品に紛れて、一つだけ異質なものが置いてある。木製の型。丸く、深みがあり、側面に細かな模様が彫られている。チーズ型——モールドだ。使い込まれて飴色に変わっている。
「イルゼさん、あれはお母さんの?」
イルゼさんの手が一瞬止まった。
「……ええ。もう使ってないけどね。捨てられなくて」
笑った。でも目が笑っていなかった。
ハンナさんが口を開いた。ゆっくりと。
「イルゼ」
呼び方が変わった。「あの子」ではなく、名前を呼んだ。
「ローザ様はね、あんたのお母さんのチーズが一番だって、最後まで言ってたよ。秋の宴席で、冬のお茶会で、春の花見で——いつもエリカさんのフロマージュを出していた」
イルゼさんが黙って聞いている。
「あの味をもう一度食べたいって——あたしは、ずっと思ってた」
店の中が静かになった。
「ハンナおばあちゃん……」
イルゼさんの声が、掠れた。
私は何も言わなかった。これはハンナさんとイルゼさんの——ローザ様とエリカさんの記憶を、二人が分かち合う時間だ。私が割り込む余地はない。
ハンナさんが懐に手を入れた。何かを取り出しかけて——一瞬、じっと見つめてから、また戻した。
古い鍵だった。鈍い銀色の、装飾が施された鍵。
「……ハンナさん、今の鍵は?」
つい聞いてしまった。
ハンナさんが私を見た。いつもの鋭い目ではなく——遠くを見るような目で。
「ローザ様から預かったものさ。いつか使うときが来るって言われてね。——まだ、その時じゃないけど」
それ以上は聞けなかった。聞いてはいけない、と直感が言った。
丘に戻った。今度はイルゼさんも一緒だった。
ハンナさんが説得したわけではない。イルゼさんが自分から「行く」と言ったのだ。チーズ型のモールドを——使い古した、飴色のそれを、布に包んで抱えて。
「……あの子たちに、会いたくなっちゃって」
山羊たちは、さっきと同じ場所にいた。草を食み、風に吹かれ、のんびりと。
イルゼさんが足を止めた。
「おいで」
小さな声だった。
山羊たちが耳を立てた。
「おいで、おいで——」
抑揚のある、歌うような呼び方。母親から教わった呼び方なのだろう。イルゼさんの声が草原に溶けていく。
一頭が顔を上げた。二頭目が続いた。三頭目が——てくてくと、イルゼさんのほうに歩き始めた。
「……覚えてるの。この呼び方を」
イルゼさんの目が潤んだ。山羊が鼻先をイルゼさんの手に押しつけた。
「よし……よし。いい子ね」
撫でる手が震えていた。でも、山羊の首筋に触れた瞬間——手が止まった。
「……搾れるわ。この子、乳が張ってる」
牧場主の娘の目に変わった。
しゃがみ込んで、山羊の腹の下に手を入れる。指先が乳房に触れる。
「できるかしら……あたしに……」
手が震えている。
「……よし」
小さく呟いて——搾った。
白い乳が、指の間から滴った。
細い筋になって、持ってきた木桶に落ちる。ぴちゃん、ぴちゃん、と音がする。温かい。甘い匂い。風に乗って、花と草と乳の匂いが混ざり合った。
イルゼさんの目から涙がこぼれた。
「……久しぶり。こんなに温かかったんだ」
笑いながら泣いていた。この人は泣くとき、いつも笑うのだ。
雑貨屋の裏に作業台を出した。
イルゼさんが搾りたての霧山羊の乳を鍋に入れ、火にかける。弱火で、ゆっくり。温度計はない。イルゼさんは指先を乳に浸して温度を測った。
「お母さんがそうしてたの。温度計より指が正確だって」
乳が温まると、酢を少し加えた。凝固剤の代わりだ。白い液体がゆるゆると分離し始める。透明な乳清と、白い塊——カードに分かれていく。
イルゼさんの手が動いた。木べらでカードをそっと切る。大きすぎず、小さすぎず。
「切り方ひとつで食感が変わるの。お母さんは三回切って、二回混ぜた。いつもそう」
声が安定してきた。手つきが——滑らかになっていく。体が覚えている。十年以上のブランクなんて、この手の前では何でもないのだ。
布でカードを漉す。きゅっ、きゅっと絞る。水分が抜けて、白い塊がまとまっていく。
そしてモールドに入れた。あの飴色の、お母さんの型に。
カードが型に収まった瞬間、イルゼさんの手が止まった。
「お母さん、見てる? あたし、まだ覚えてたよ」
声が震えた。でも手はもう震えていなかった。
フレッシュチーズは、すぐにできた。
型から外す。白くて丸い、手のひらに収まるチーズ。表面にモールドの模様が浮き出ている。花の蔓のような——エリカさんが彫った模様だ。
ナイフで切った。断面がとろりと光る。
私が一口食べた。
「……なにこれ」
口の中で溶けた。舌の上で崩れて、花の香りが鼻に抜けた。濃厚なのに軽い。ミルクの甘さと、微かな酸味と、草原の風のような——名前のつけられない味。
「花の香りがする。草じゃなくて、花」
「地脈の牧草を食べた山羊の乳はね、季節の花の香りが移るの。春は菫、夏は野薊、秋は桔梗。——今の季節は、たぶん白詰草」
イルゼさんが少しだけ誇らしげに言った。
ハンナさんに差し出した。
ハンナさんが一切れ、口に入れた。
——沈黙。
長い、長い沈黙だった。
ハンナさんが目を閉じた。咀嚼する顎の動きが止まって、ただ舌の上で味わっている。
五秒。十秒。
目を開けた。
「……この味だよ」
声がかすれていた。
「エリカさんの味だ」
ハンナさんの頬を、涙が伝った。
——私は、初めてハンナさんの涙を見た。
この人が泣くところを、これまで一度も見たことがなかった。銀泉楼の廃墟を見たときも、ローザ様の話をしたときも、営業停止命令のときも——泣かなかった。この人は泣かない人だと思っていた。
でも今、泣いている。
チーズの一切れで。
「ローザ様……帰ってきたよ、あの味が」
ハンナさんが袖で目を拭った。乱暴に、ごしごしと。すぐにいつもの顔に戻った。でも鼻の頭が赤かった。
イルゼさんが両手で口を覆っていた。
「え……セラちゃん、売り物になるの、これ?」
私は深呼吸した。
「なります。なるどころか——」
もう一切れ食べた。確かめるように。
「王都の貴族が買いに来るレベルです。このチーズ、イルゼさん。失われた幻の味ですよ。復刻じゃない。この土地でしか作れない、唯一無二の——」
言葉が途切れた。興奮して早口になっている。
イルゼさんが私を見て、ハンナさんを見て、そしてカウンターに置いた飴色のモールドを見た。
「……牧場を、もう一度やってみようかしら」
小さな声だった。でも——目が据わっていた。
ハンナさんが黙ってイルゼさんの肩を叩いた。
「よし」
一言だけ。それだけで十分だった。
帰り道、夕陽が丘を赤く染めていた。
ハンナさんが少し前を歩いている。背中がいつもより小さく見えた。泣いた後だからだろうか。
「ハンナさん」
「なんだい」
「ありがとうございました。今日——私一人では無理でした」
ハンナさんが振り返らずに答えた。
「お嬢は一人で何でもやろうとしすぎるんだよ。コンサルってのはそういうものかもしれないけどね。——でもここは旅館だ。一人でやる仕事じゃないのさ」
足を止めた。振り返った。夕陽を背に、逆光で表情が見えない。
「あの味がね、もう二度と食べられないかと思ってた。二十年だよ。二十年間、ずっと——」
声が途切れた。
「……まったく。年を取ると涙もろくなっていけないね」
歩き出した。私もついていった。何も言わなかった。
銀泉楼に戻ると、ノアが帳場にいた。文献を広げている。源泉の地下構造の論文だろう。
「遅かったな」
「うん。——いい一日だった」
ノアが私の顔を見て、少し首を傾げた。
「……何かあったのか」
「あったよ。すごいチーズに出会った。今度食べさせてあげる」
「チーズか」
興味なさそうに言って、視線を文献に戻した。でも——ほんの少しだけ、口の端が上がった気がした。
帳場の灯りの下で、手帳を開いた。
棚田——修復中。
養魚場——修復中。
牧場——再開の芽。
ペンを走らせて、次の行に目を移す。
次は——
「森だ」
小さく呟いて、手帳を閉じた。
窓の外、丘の稜線が夕闇に溶けていく。あの丘に山羊がいて、この町にイルゼさんがいて、ハンナさんの記憶がある。
記憶は食材だ。この町の、一番の——。
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