第28話: 川の男
「引退した」と、老人は言った。三回目だ。
だが、川を見つめるその目は——どう見ても「引退した人間」の目ではなかった。
銀霧川の下流に行こうと決めたのは、昨日の夕方だった。
棚田に水が戻った。ヴァルターの目に光が戻った。フリッツの娘が「お水があったかいよ!」と笑った。あの瞬間、私の中で次の歯車が回り始めた。
経験則がある。地方再生が成功する場所には、必ず「食の柱」が複数ある。米だけでは弱い。肉だけでも弱い。米と、魚と、乳製品と——三本揃って初めて「食の体験」が成立する。
棚田は動き出した。次は川だ。
手帳を開く。昨夜ノアが渡してくれた銀霧川の調査データ。水温分布、流速、地脈水の混合率。数字の羅列だけど、私の目には「可能性」と書いてある。
「セラフィーナ。行くぞ」
ノアが玄関で待っていた。今日は調査用の革鞄を肩にかけている。中身は地脈計測器と採水瓶。
「ユーディットにも声をかけてある。後から来る」
「さすが」
「……俺は単に、あの人の鱒の食べ方を見たいだけだ」
嘘。ノアは私が何を見たいか知っていて、必要な人を手配してくれている。この人はそういう人だ。口では「データが欲しいだけ」と言いながら、いつも一番近くで支えてくれる。
銀霧川の下流は、町の中心部から東に歩いて三十分ほどの場所にある。
上流の渓谷とは雰囲気が違った。川幅が広がり、流れが緩やかになる。水面に朝の光が散って、川底の丸石が透けて見えた。水の色が薄い翡翠色なのは、地脈水が混じっている証拠だ。
「ここが旧養魚場か」
ノアが足を止めた。
川の南岸に、三つの窪地がある。かつて池だったものだ。二つは土砂と草に埋もれて、もはや池の形をしていない。だが——三つ目。
「水がある」
一番川に近い池に、まだ水が溜まっていた。深さは膝丈ほど。川から水が染み込んでいるのか、微かに流れがある。
私は池の縁に膝をついて、水面を覗き込んだ。
——影が走った。
銀色の、細い影。一瞬だったが、見間違えるはずがない。
「魚がいる……!」
「谷鱒の稚魚だな。川から入り込んだんだろう」
ノアが隣にしゃがみ込んで、水に指先を入れた。
「水温十四度。地脈水の混合率が高い。……この池、川の水だけじゃない。地下から温水が湧いている」
稚魚がもう一匹、指先をかすめて泳いでいった。小さな銀色の体に、うっすらと紅い筋が透けている。谷鱒の特徴だ。
私は立ち上がって、三つの池と周囲の地形を見回した。
池から川へ続く水路跡。石組みが崩れかけているが、構造は残っている。取水口、排水口、池と池を繋ぐ連結路——全部ある。
「池は生きてる」
声が自分でも熱くなっているのがわかった。
「水路を直せば養殖を再開できる。それも——ノア、あなたのデータによれば、源泉支流の温水を引き入れれば冬でも水温十五度を維持できる。通年養殖が可能よ」
ノアが頷いた。ただし——
「問題は人だ」
「わかってる」
養魚場を動かせるのは、この谷にただ一人。
トビアス・グリムの家は、川沿いにあった。
小さな木造の家。屋根に苔が生え、壁の漆喰は剥がれている。だが——軒先に釣り竿が何本も干してあった。一本や二本ではない。十本以上。長さも太さもさまざまで、きちんと手入れされている。
引退した人間の家には見えなかった。
戸を叩くと、低い声が返ってきた。
「誰だ」
「銀泉楼のセラフィーナです。お話を——」
「用はねぇ」
間髪を入れずに断られた。
「……旅館の嬢ちゃんだろう。棚田を直したっていう。あんたの話は聞いてる。だがわしは関係ねぇ。引退した」
一回目。
「養魚場のことでご相談が——」
「引退した。もう年だ。膝が悪い。川仕事は無理だ」
二回目。三回目。まとめて来た。
戸は開かなかった。
ノアが私の隣で腕を組んでいる。特に何も言わない。この人は人を説得するのが苦手だと自覚しているので、こういう場面では黙っていてくれる。
私は戸口の前にしゃがんで、声を落とした。
「トビアスさん。養魚場の一番川寄りの池に、まだ水がありました。谷鱒の稚魚が五、六匹泳いでました。あの池、地下から温水が湧いてます」
沈黙。
「……稚魚がいたのか」
声の質が変わった。低いままだが、硬さが少しだけ取れた。
「はい。紅い筋が透けてる、綺麗な稚魚でした」
長い間があった。
がたり、と音がして——戸が開いた。
部屋に通された。
狭い居間だった。質素な家具。壁に古い網が掛かっている。囲炉裏の灰は冷えていた。食器棚の隅に、花柄の湯呑みが一つだけ、他の素焼きの器とは不釣り合いに並んでいた。
だが——壁の一面が、紙で埋まっていた。
手描きの地図。銀霧川の全域を詳細に描いた地図が、壁一面に貼られている。流速の注記。水深の数字。岩場の位置。淵の名前。魚影のポイントが赤い印で記されていて、季節ごとに色を変えてある。
机の上には記録帳が何冊も積まれていた。表紙に「水温記録」「谷鱒生態観察」「産卵域マップ」と几帳面な文字で書かれている。私はそっと一冊を手に取った。
今年の日付がある。先週の記録がある。昨日の記録がある。
「……引退した人が、こんな詳細な記録を?」
トビアスが目を逸らした。白髪を短く束ねた頭を掻いて、不機嫌そうに呟く。
「習慣だ。やめられんだけだ」
嘘だ。これは「やめられない」のではなく、「やめたくない」のだ。この記録は、川を愛している人間にしか書けない。
ノアが棚に並んだ記録帳を一冊取って、ぱらぱらとめくった。その目が——学者の目になっていた。
「……水温の季節変動と魚影の相関。詳細で正確だ。学術論文に使えるレベルだな」
「褒めてもらっても何も出んぞ、先生」
「褒めていない。事実を述べている」
ノアは記録帳を開いたまま、自分の革鞄から地脈計測データの紙束を取り出した。机の上に並べる。トビアスの水温記録と、ノアの地脈水分布図。
「トビアス殿。あなたの記録と俺のデータを重ねると、面白いことがわかる」
トビアスの目が動いた。ノアの紙に吸い寄せられるように。
「銀霧川の水温が年間を通じて高い区間は、地脈水の湧出ポイントと一致している。特に下流の養魚場付近——あなたの記録でも十二度を下回らない区間がある。ここに源泉支流の温水を引き込めば、冬場でも十五度を維持できる」
トビアスが身を乗り出した。
「十五度を通年で……? 馬鹿な。冬場の銀霧川は十度を切る日もある」
「川はそうだ。だが養魚池は川と分離されている。地脈温水を引き入れ、池の水温だけを管理すればいい。あなたの記録にある通り、源泉支流と養魚場の距離はおよそ三百メートル。水路を引く距離としては十分に現実的だ」
ノアが紙の上に指で線を引いた。源泉支流から養魚場への経路。
トビアスの視線がその線を追った。もう「引退した」とは言っていなかった。
「……嬢ちゃんの話は眉唾だが」
ノアの方を向いた。薄い青の目が、水面を見る時の鋭さになっていた。
「先生。この数字は本物か」
「俺は嘘をつかない。データが示す事実だ」
長い沈黙があった。囲炉裏の灰が微かに動いた気がした。
「……見るだけだぞ」
トビアスが立ち上がった。壁に掛けた古い帽子を取り、釣り竿を一本肩に乗せた。
「見るだけだ。それ以上は知らん」
養魚場に着いたトビアスは、五分で「見るだけ」を忘れた。
池の縁を歩き、水に手を入れ、土を掴んで匂いを嗅ぎ、周囲の地形を睨みつけた。膝が悪いと言っていたのに、しゃがんだり立ったりを繰り返している。
「この土砂は下から掻き出す。上から取ると池底を壊す」
独り言のつもりだろう。でも声が大きい。
「水路の角度はこうだ。取水口は川側に三十度。排水はもう少し緩く」
地面に木の枝で図を描き始めた。池の配置。水路の経路。深さの設計。
「池の深さは浅い方を四十センチ、深い方を一メートル。稚魚池と成魚池を分ける。餌場は流れの当たる北側に——」
誰も頼んでいない。頼んでいないのに、設計が止まらない。
地面に描かれた図は、素人目にも精緻だった。何十年という経験が、枝の先から溢れている。
ノアが私の隣に来て、小声で言った。
「引退した人間の動きじゃないな」
「でしょう」
笑いそうになるのをこらえた。トビアスの背中が、さっきまでの家の中とは別人だった。丸まっていた背筋が伸びている。声が太い。足取りが確かだ。
川の男が、川に戻ってきた。
銀霧川の水は、透き通っていた。
陽光が水面で砕けて、川底の石に揺れる光の模様を描いている。水面に手を入れると、ほんのり温かい。指の間を、小さな魚影がすり抜けていった。稚魚ではない——手のひらほどの若い谷鱒だ。紅い身が陽光に透けた。
「いい川だ」
ノアが川辺にしゃがんで、水を掬った。口に含む。
「地脈の味がする。——この水で育った魚が不味いはずがない」
トビアスが網を持ち出してきた。いつの間に取りに行ったのか——いや、釣り竿は最初から肩にあった。網は家を出る時に「ついでに」持ってきたのだろう。「見るだけ」の人間が網を持つ理由はないのだが。
川に入った。長靴の中に水が浸みるのも構わず、膝まで入って、流れを読んだ。
「……上流から来る。あの岩の陰を通る」
呟いて——網を振った。
一投。
銀色の魚体が網の中で跳ねた。三十センチはある。立派な成魚の谷鱒だ。
「……まだ、いるもんだな」
トビアスの声が、かすれた。
ユーディットは、約束通り後から来た。
肩に革のナイフロールを提げ、片手に調理道具の入った籠を持って。料理人が戦場に向かう足取りだった。
「で、魚はどこだ」
開口一番がそれだった。
トビアスが網の中の谷鱒を見せた。四匹。どれも型が良い。ユーディットが一匹持ち上げて、目を見て、鰓を開いて、身の弾力を指で確かめた。
「……天然の谷鱒か。こいつは——いい魚だ」
声が低くなった。食材を前にした時の、ユーディットの「本気の声」だ。
「川辺で焼く。炭を起こせ」
ノアと私で石を組み、枯れ枝と持参した霧杉炭で火を起こした。炭がぱちりと爆ぜて、白い煙が立つ。霧杉炭の火は安定していて、香りがいい。
ユーディットが谷鱒を捌いた。一刀で腹を開き、内臓を取り、川の水で丁寧に洗う。動きに無駄が一切ない。
「塩を振る。銀泉草の塩がいい」
籠から塩の瓶を取り出した。銀泉楼の厨房で作った、源泉水を煮詰めた塩。微かに鉱物の香りがする、この土地だけの塩だ。
塩を振って、串を打って、遠火にかけた。
待つ。
炭の熱がじわりと鱒を温める。皮がぱちぱちと音を立て始めた。脂が滲み出て、炭に落ちて、甘い煙が立ち上る。身がゆっくりと白く変わっていく。ふっくらと、まるで息を吸い込むように膨らむ。
匂いが——すごかった。
川の風に乗って、炭火と鱒の脂と銀泉草の塩が混ざった匂いが広がる。
「できた」
ユーディットが串を抜いて、大きな葉の上に鱒を載せた。皮は飴色に焼けて、箸を当てるとほろりと崩れた。身は白く透き通り、湯気が立っている。
「食え、じいさん」
トビアスの前に差し出した。
老漁師は無言で受け取った。箸で身をひとつまみ取って、口に運んだ。
咀嚼する。
——目を閉じた。
長い沈黙だった。川のせせらぎだけが聞こえた。
「……昔の味だ」
目を閉じたまま、呟いた。声が震えていた。
「この川の味だ。——ガキの頃、親父と焼いた味だ」
ユーディットが何も言わずに、もう一切れ差し出した。トビアスが受け取って、今度は目を開けたまま食べた。噛みしめるように。一口ごとに、何かを確かめるように。
私も一切れもらった。
口に入れた瞬間、わかった。川の清流と、地脈の温もりと、この土地の全部が——この一切れに詰まっている。前世で食べたどんな高級旅館の川魚とも違う。これは——この川でしか生まれない味だ。
ノアが黙って食べていた。二切れ目に手を伸ばしたのを見て、ユーディットが鼻を鳴らした。
「学者先生、旨いもんには正直だな」
「……事実は事実だ」
トビアスが箸を置いた。川を見た。
銀霧川の水面が午後の日差しに揺れていた。光が砕けて、無数の銀の粒になって流れていく。その向こうに、草に埋もれた養魚場の池が見えた。
「……嬢ちゃん」
「はい」
「わしは引退した。それは本当だ」
「はい」
「だが——」
川から目を離さなかった。
「この川の鱒を、もう一度食わせてやりたい奴がいた。死んだ女房だ。あいつはわしの焼いた鱒が一番旨いと言ってくれた。もう食わせてやれんが——」
声が止まった。
「……あんたの旅館の客に、食わせてやるのは、悪くないかもしれん」
私は何も言えなかった。頷いただけだ。泣きそうだったから。
トビアスが立ち上がった。膝をさすりながら、養魚場の方を見た。
「明日から来る。——見るだけだ。まだ見るだけだぞ」
もう誰も信じていない「見るだけ」だった。
——同じ頃。王都グランシュタット。
巡回監査局の執務室は、窓から差し込む夕陽で橙色に染まっていた。
ディートリヒ・ハイネは机に向かっていた。姿勢は正しく、制服には皺一つない。灰色の目が書類の上を走っている。
目の前に広げられた報告書——「ミストヴァレー銀泉楼、営業継続状況報告」。
営業停止命令の撤回から二ヶ月。宿泊者数は微増。棚田の灌漑水路が修復され、休耕田の再開手続きが進行中。旅館の改修は継続中。
「営業停止命令を撤回させた……あの令嬢め」
呟いて、書類を捲った。
机の端にもう一通、別の報告書がある。「碧泉宮・年次経営報告」。付箋に走り書きがしてあった。
『泉質低下傾向。源泉温度が二年前比で一・五度下降。客足に影響の兆候あり』
ディートリヒは一瞬それに目をやったが、視線を戻した。碧泉宮の問題は自分の管轄ではない——少なくとも、表向きは。
書類の束の下から、一通の封書が出てきた。
蝋印。見覚えのある紋章。
手が止まった。
開封した。便箋を広げ、読み進めるにつれて、顔から表情が消えていった。
「……税務特別査察、か」
便箋を机に置いた。窓の外を見た。王都の屋根が夕陽に赤く染まっている。
「次はそう簡単にはいかんぞ、セラフィーナ・ルヴェール」
独り言は静かだった。感情の読めない声だった。
だが——便箋を持つ指先が、微かに震えていた。
帰り道、夕陽が棚田の水面を照らしていた。
ノアが隣を歩いている。二人とも、しばらく黙っていた。
「トビアスさん、来てくれるね」
「来る。あの目は、ヴァルターと同じだ」
「同じ?」
「諦めきれない人間の目だ。——俺は学者だから、よくわかる」
自分のことも含めて言っているのだと気づいた。ノアもまた、リンドヴァルの記憶を「諦めきれない」人だから。
「ノア」
「なんだ」
「ありがとう。あなたのデータがなかったら、トビアスさんは動かなかった」
「……俺は数字を見せただけだ」
「その数字が、あの人の心を動かしたの」
ノアは答えなかった。ただ、歩く速度を私に合わせてくれた。
谷に夕陽の残照が落ちて、銀霧川が金色に光っていた。
「棚田と川は動き出した。次は——あの丘の山羊たちね」
「……次から次へと、よく出てくるな」
「コンサルですから」
笑って言った。ノアが小さくため息をついたが、口元が緩んでいるのを見逃さなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第28話「川の男」、トビアス・グリム初登場回です。
「引退した」を連発する老漁師が、データと、魚と、味で動き出す。川を愛する人は、川から離れられない。トビアスの「見るだけだぞ」は、きっとこの先も彼の口癖として残ると思います——ただし、もう誰も信じませんが。
ユーディットの川辺の鱒焼きは、書いていて本当にお腹が空きました。銀泉草の塩と霧杉炭で焼いた天然谷鱒。この世界に行って食べてみたい一品です。
そしてラストのディートリヒ。嵐は、静かに近づいています。
ブックマーク・評価・感想をいただけると、執筆の大きな励みになります。次回、第29話「丘の山羊、谷のチーズ」。ハンナさんの記憶が、新たな仲間を繋ぎます。お楽しみに。




