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追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります  作者: 歩人


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第27話: 水を引く

 「水路を直す」。


 言うのは簡単だった。問題は、半壊した石組みの水路が全長八百メートルもあるということだ。




 朝霧がまだ棚田を覆う早朝、私たちは南斜面の水路の起点に立っていた。


 地脈水が湧き出す取水口。苔むした石の隙間から、ちょろちょろと水が滲み出ている。かつてはここから太い流れが棚田全体を潤していたはずだ。


 「ガルド棟梁、見てもらえますか」


 「……言われなくてもそのつもりだ」


 ガルドが水路に沿って歩き始めた。目つきが違う。旅館の修復で見せるのとは別の、もっと鋭い——石を読む目だ。


 片膝をつき、崩れた石壁に手を当てる。指先で石の表面をなぞる。接合部を確かめるように、一つ、二つ、三つ。


 そして——止まった。


 「……ヘフナー流だ」


 低い声だった。


 「棟梁?」


 「この石の組み方。噛み合わせの角度。水の圧力を分散させる配置——間違いねぇ。じいさんの仕事だ」


 ガルドが立ち上がった。水路を見渡す目に、さっきまでとは違う光が宿っていた。


 「銀泉楼を建てたじいさんが、この水路も手がけてたのか。どこにも記録がなかった」


 「記録は残さねぇ。石に刻む。腕のいい石工は、自分の石の組み方に名前を残す。見る奴が見りゃあわかる——これが誰の仕事か」


 ガルドの視線が水路を辿って、ゆっくりと八百メートルの先を見た。


 「八十年前だ。銀泉楼の基礎を据えた後に、ここもやったんだろう。……じいさん、いい仕事してやがる。石の噛み合わせが生きてる。八十年経って半壊してるのに、骨格は死んでねぇ」


 私は黙って聞いていた。ガルドがこんなに喋るのは、建物の話をしている時だけだ。そしてその声には、いつも——誇りがある。


 「棟梁。直せますか」


 「俺が直さなくて、誰が直す」


 振り向いたガルドの顔は、もう笑っていた。不器用な、でも確かな笑みだった。




 修復計画は、ガルドの石工知識を軸に組み立てられた。


 八百メートルの水路のうち、完全に崩落しているのは三箇所、約百二十メートル。石組みが緩んで水が漏れている箇所が七箇所。取水口の詰まりが一箇所。残りは苔と泥を除去すれば機能する。


 「石は現場にある。崩れた石をそのまま使えばいい。ヘフナー流は石の形を変えねぇ。自然の形のまま噛み合わせる。だから——」


 ガルドがノアを見た。


 「学者先生。あんたの魔法で石を動かせるか。人の手だと、一つ五十キロの石を持ち上げて据え直すのに何日もかかる」


 ノアが水路の石を一つ持ち上げてみた。指先に魔力が薄く光る。石がふわりと浮き上がった。


 「動かすだけなら問題ない。接合部を魔力で強化することもできる。——だが、配置の判断は俺にはできない。水の流れを計算して、石の噛み合わせを決められるのはガルドだけだ」


 「当たり前だ。石の配置は職人の仕事だ。魔法屋に任せてたまるか」


 ぶっきらぼうに言ったガルドの口元が、ほんの少し緩んだ。ノアも何も言わなかったが、目が笑っているのがわかった。


 この二人——第一号室を一緒に直した時は犬猿の仲だったのに。


 「棟梁が石を読んで配置を決める。ノアが魔法で石を運んで据える。私は……」


 「嬢ちゃんは監督だろう。得意だろうが、仕切るのは」


 「……はい。お任せください」


 手帳を開いた。工程表を引く。前世のコンサルタント時代、改装現場で何度もやった仕事だ。ただし——あの頃は図面と予算を見ていただけで、自分の足が泥に沈むことはなかった。




 作業は取水口から始まった。


 ヴァルターが朝一番に来ていた。何も言わず、水路の脇に腰を下ろして黙ってこちらを見ている。口は出さない。ただ見ている。


 あの目は——試されているのだ。口だけの嬢ちゃんか、本気なのか。


 「ヴァルターさん。取水口の角度なんですが——地脈水の湧出方向に対して、どの角度で受けるのが最適ですか」


 老人の眉がわずかに動いた。


 「……嬢ちゃん。それを聞くのか」


 「地脈水の流れは季節で変わりますよね。春は雪解けで水量が増えて、夏は地脈が安定して流速が上がる。あなたが何十年もこの水路を見てきた経験には、どんな計測器も敵わない」


 長い沈黙。


 ヴァルターが立ち上がった。水路に降り、取水口の石に手を当てた。


 「十五度だ。春先は二十度に広げる。石を一つ外せば角度が変わるよう、じいさんが組んである」


 ガルドが目を見開いた。


 「……なるほど。可変式の取水口か。じいさん、そこまでやってたのか」


 「ヘフナーの大棟梁は、農家の声を聞いた。わしの爺さんが『春は水が暴れる』と言ったら、次の年にはこの石組みに変わっとった」


 二人の老職人——石工の系譜と農家の系譜。八十年越しの会話が、ここで交わった。




 ノアの建築魔法が、棚田の斜面に青白い光を走らせた。


 五十キロの石が宙に浮き、ガルドの指示した位置にすっと収まる。石と石の接合部にノアが魔力を流し込むと、まるで百年そこにあったかのように、ぴたりと噛み合った。


 「角度を二度西へ」


 「了解」


 石が僅かに回転する。ガルドが水平器代わりに使っている木片を当てて、頷いた。


 「よし。次だ」


 一つ、また一つ。石が積み上がっていく。


 第一号室の修復の時は、二人はぶつかってばかりだった。ガルドが「魔法なんぞ邪道だ」と怒鳴り、ノアが「職人の感覚だけでは精度が出ない」と返した。


 今は——違う。


 ガルドが石を読み、ノアが魔法で応える。言葉は最小限。「三寸右」「上げろ」「そこだ」。それだけで石が正しい位置に落ち着く。


 ガルドの石工の知恵が、ノアの魔法に精密さを与えていた。ノアの魔力が、ガルドの仕事を何倍にも加速していた。


 職人と魔法使い。相容れないはずの二つが——融合している。


 私は手帳にメモを取りながら、ただ見惚れていた。前世で何百軒もの旅館の改装を見てきたけれど、こんな仕事は初めてだった。




 昼を過ぎる頃には、上流側の三分の一が完了していた。


 ガルドが汗を拭い、ノアが石に背を預けて息をついた。魔力の消耗が顔に出ている。大規模な建築魔法は体力を削る。わかっている——だから私は、昼食の準備をしておいた。


 「はい、おにぎり。ヴァルターさんの地脈米を、今朝ハンナさんに炊いてもらいました」


 ガルドが受け取って一口齧り、目を閉じた。


 「……うめぇ」


 ノアも無言で受け取った。食べるのが遅い人だけれど、今日は二つ目に手を伸ばすのが早かった。相当消耗しているのだ。


 「ノア、無理しないで。午後は休憩を多めに——」


 「必要ない。終わらせる」


 「でも——」


 「セラフィーナ。今日中に水を通すと言ったのはお前だ。俺はそれに合わせている」


 ぶっきらぼうだけれど——その声は優しかった。


 ヴァルターが黙って、おにぎりの残りをガルドとノアに差し出した。自分の分を削って。何も言わず。


 ガルドが受け取った。「……うまい米だな」


 ヴァルターは何も答えなかった。ただ、棚田の方を見ていた。乾いた土を。水を待っている土を。




 午後。


 陽が傾き始めた頃、最後の石が据えられた。


 八百メートルの水路。崩落三箇所の再構築。漏水七箇所の補修。取水口の清掃と再調整。


 一日で——やり遂げた。


 ガルドが腰に手を当てて水路を見渡した。ノアが傍らに立ち、計測器を水路にかざしている。


 「接合強度、問題ない。水路勾配は元の設計通りに復元できている。——いい仕事だ、ガルド」


 「てめぇもな、学者先生」


 二人は目を合わせなかった。でも——それでよかった。この二人は、そういう関係だ。


 「さて」


 私は取水口の前に立った。心臓がうるさい。


 「流しますよ」


 ヴァルターが、黙って頷いた。




 取水口を塞いでいた石を、ノアが魔法で持ち上げた。


 最初は——何も起きなかった。


 地脈水の湧出口が開いたはずなのに、水路は乾いたまま。石の隙間から滲む程度の水が、かすかに光を反射しているだけ。


 一秒。二秒。


 胸が詰まった。まさか——


 ちょろ、と。


 音がした。


 水だ。取水口から水が溢れ出して、石組みの水路に流れ込んだ。最初はほんの糸のような細い流れ。石と石の隙間を舐めるように、ゆっくり、ゆっくりと進んでいく。


 水路が水を思い出している。長い年月この石を通ってきた水の記憶が、石の表面に刻まれている。水は——道を知っていた。


 ちょろちょろ、と流れが太くなった。さらさら、と音が変わった。水路の底を覆った苔が、流れに洗われて鮮やかな緑を取り戻していく。


 水が——走り出した。


 八百メートルの水路を、地脈水が下っていく。一段目の棚田の入水口に届いた瞬間——水面がきらりと光った。


 あぜ道を越えて、二段目へ。三段目へ。乾いていた土が水を吸い込む。黒く、深く、潤っていく。


 地脈水は温かい。この谷の大地を流れてきた水だから。霧峰山の奥深くから、何百年もかけて濾過された水だから。触れると——生きている、と感じる温もりがある。


 水が棚田を満たしていく。八枚の稼働田の先にある休耕田にも、水が入り始めた。草に覆われた土が水を受け止めて、じわりと色を変える。


 ガルドが腕組みをしたまま、水路を見つめていた。


 ノアが計測器を構えて、水路の各所のデータを記録していた。


 私は手帳を抱えたまま、ただ——見ていた。


 水だ。たった一日で水路を直しただけなのに。たったそれだけのことなのに。


 ——景色が変わった。


 乾いた茶色の棚田が、鏡のように空を映す水面に変わっていく。銀嶺連山が水面に逆さに映り、雲が棚田の上を流れていく。


 こんなに綺麗だったのだ、この場所は。


 ヴァルターが——動いた。


 あぜ道を降り、棚田の縁にしゃがみ込んだ。節くれだった手を、水に浸した。


 温かい水が、老人の指の間を流れていく。


 長い、長い沈黙。


 ヴァルターの肩が震えていた。


 「……帰ってきた」


 それだけだった。それだけで——十分だった。


 二十年間、枯れかけた水路を見つめ続けた老人の手に、もう一度水が戻った。それがどれほどのことか。この土を愛し、この米を守り、この棚田に人生を捧げた人間にとって、それがどれほどのことか。


 私の目から涙がこぼれた。手帳で顔を隠した。コンサルタントが現場で泣くなんて——前世では一度もなかった。




 水が通った、という知らせは——誰が広めたのだろう。


 夕方になる前に、町の人々が棚田に集まり始めた。


 「おい、見てみろ。水が流れてるぞ」


 「嘘だろ。あの水路、二十年動いてなかったんだぞ」


 「棚田に水が入ってる……本当に……」


 遠巻きに見ていた人たちが、一人、また一人とあぜ道に降りてきた。水に手を浸す。温かい。驚く。笑う。


 「本当に水が通ったぞ!」


 「棚田が戻るのか? 本当に?」


 声が重なり始めた。二十年間、諦めていた景色が目の前にある。水が棚田を満たし、夕陽が水面を金色に染めている。


 エミールさんが駆けてきた。走っている。エミールさんが走っている。眼鏡がずれて、息が切れて、顔が真っ赤で——でも目が輝いている。


 「で、では——休耕田の再開手続きを——書類を——今すぐ——」


 嬉しそうに慌てている。声が裏返っている。この人は本当に、嬉しい時も声が裏返るのだ。


 「エミールさん、落ち着いて。書類は明日でも大丈夫です」


 「い、いえ! 明日では遅い! 町長として、この好機を——この好機を逃すわけには——」


 目が潤んでいた。また泣きそうだった。でも今回は嬉し涙だ。


 「……ありがとうございます、セラフィーナさん。本当に、本当に——」


 「私じゃありません。ガルド棟梁と、ノアと、ヴァルターさんの力です」


 エミールさんは何度も頷いて、眼鏡を直して、それから走って帰っていった。書類を取りに。あの背中は——前より少しだけ、真っ直ぐだった。




 フリッツが来たのは、陽が傾き始めた頃だった。


 手を引かれているのは——小さな女の子。六歳くらいだろうか。栗色の髪を二つに結んで、大きな瞳をきょろきょろさせている。


 「セラフィーナさん。娘を——アンナを連れてきました」


 フリッツの声が震えていた。昨日会った時の、疲弊した灰色の目ではなかった。


 アンナちゃんがあぜ道をとことこ歩いて、棚田の縁にしゃがみ込んだ。水面に手を入れて——


 「あったかい!」


 甲高い声が棚田に響いた。


 「パパ、お水があったかいよ!」


 小さな手で水をすくって、ぱしゃぱしゃと遊び始めた。スカートの裾が濡れている。でもアンナちゃんは気にしない。水が温かくて、光っていて、楽しいのだ。六歳の女の子にとって、それだけで世界は完璧なのだ。


 フリッツの目に——光が戻っていた。


 昨日までの暗い目ではない。娘が笑っている。温かい水の中で、棚田の上で、この町で——笑っている。


 「……セラフィーナさん」


 フリッツが声を絞り出した。


 「俺、ここでやります。この棚田で。親父と一緒に——いや、親父の後を継いで。アンナに見せたいんです。この棚田が黄金色に輝くところを」


 「見せましょう。秋には、必ず」


 フリッツが深く頭を下げた。


 その後ろで——ヴァルターが立っていた。


 息子の背中を見ていた。孫が水を跳ねて遊ぶのを見ていた。


 何も言わなかった。


 でも——口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。この人が笑うのを見るのは、初めてだった。




 みんなが帰った後。


 あぜ道に座り込んだ。


 足が動かない。朝から一日中、水路沿いを走り回った。石を運ぶのを手伝い、水の流れを確認し、ヴァルターさんとガルドの間を行き来し、エミールさんの書類の段取りを整え、フリッツに今後の計画を説明した。


 全身が泥だらけだ。爪の間に土が入り込んでいる。前世のコンサルタント時代には考えられない姿だろう。スーツとヒールで会議室に立っていた頃の自分が見たら、目を丸くするに違いない。


 でも——清々しかった。


 気配がした。


 ノアが隣に来た。何も言わず、水筒を差し出した。


 「……ありがとう」


 受け取って、飲んだ。冷たい水が喉を通る。生き返る、とはこういうことだ。


 「脱水になる。休め」


 「うん……」


 返事をしたきり、言葉が続かなかった。


 夕陽が、棚田の水面を金色に染めていた。


 さっきまで茶色い土だった場所が、鏡になっている。空を映し、山を映し、雲を映している。水が一面に広がって、棚田の段差ごとに高さの違う水鏡が並んでいる。


 ——綺麗だ。


 こんな景色を、この谷の人たちは二十年間見られなかったのだ。ヴァルターさんが一人で守った八枚の棚田の先に、今日やっと水が戻った。まだ八枚が増えただけ。四十枚のうちの半分にも満たない。


 でも——始まった。


 ノアが隣にいた。


 何も喋らない。いつも通りだ。でも、いてくれる。


 この人は、いつもこうだ。


 口は悪い。愛想がない。褒めない。気の利いたことは言わない。


 でも——一番近くにいてくれる。


 水筒を差し出す手。一号室を直した夜も。源泉を調べた朝も。営業停止命令と戦った日も。棚田を見に行った昨日も。いつも——隣にいた。


 言葉じゃなくて、行動で。声じゃなくて、存在で。


 夕陽がノアの横顔を照らしていた。藍色の髪に金色の光が混ざって、深い緑の目が棚田の水面を映している。


 綺麗だな、と思った。


 景色じゃなくて。


 ——いや。景色が綺麗なのだ。棚田が綺麗なのだ。水が金色で、空が茜色で。それだけだ。それだけの話だ。


 黙ったまま、二人で棚田を眺めた。


 蛙が鳴き始めた。水が戻ったことを知って、どこかから来たのだろう。小さな声が一つ、二つ。やがて合唱になった。


 「……蛙だ」


 ノアが呟いた。


 「水を引いて半日で、もう蛙が来た。……生態系の回復が早い。地脈水の魔力密度が高い証拠だ」


 学者の言葉だった。でも——声が柔らかかった。


 「ノア」


 「何だ」


 「ありがとう。今日、あなたがいなかったら——」


 「ガルドがいなかったら、の間違いだ。石の配置は全てあの男が決めた」


 「それでも」


 「……俺は魔法を使っただけだ」


 そう言って、目を逸らした。


 夕陽が沈んでいく。金色が茜色に変わり、やがて紫に染まっていく。棚田の水面がその全てを映していた。


 遠くで——ヴァルターが、あぜ道に立っていた。


 こちらを見ていた。


 二人並んで座っているのを、遠くから見ていた。


 老人の口元が——ほんの少し、笑っていた。


 今日二度目の笑みだった。




 立ち上がった時、膝が笑った。


 「……よし」


 手帳を開いた。今日の成果を書き込む。


 『水路修復完了。800m全線通水。棚田16枚に入水。エミール町長、再開手続き開始。フリッツ、復田決意。ヴァルター——笑った。』


 最後の一行を書いて、ペンを止めた。


 コンサルタントの手帳に、こんな一文は似合わない。でも——書いておきたかった。


 ノアが先に歩き始めていた。振り返って、言った。


 「明日は休め。今日の消耗は、お前が一番大きい」


 「私は魔法使ってないのに?」


 「走り回っていただろう。監督は体力仕事だ」


 それだけ言って、また前を向いた。


 私は手帳を閉じて、後を追った。


 棚田を振り返る。もう蛙の大合唱だった。星が一つ、二つ、水面に映り始めている。


 帰り道、ふと口を開いた。


 「ノア。棚田の次は、川を見に行きたい」


 「川?」


 「あの養魚場。下流にあるって聞いた。源泉の支流を引き込めば、温泉養殖ができるかもしれない」


 ノアが半歩振り返った。暗がりの中で、深い緑の目がこちらを見た。


 「……前世でもそうだったのか。一つ終わると、すぐ次に走る」


 「走るのが仕事です、コンサルタントは」


 「コンサルタントじゃない。お前はもうここの人間だ」


 言い返そうとして——言葉が出なかった。


 ここの人間、か。


 前世ではクライアントの宿を立て直す仕事はしたけれど、自分がその場所の人間になったことは一度もなかった。


 「……そうだね。ここの人間なら、もっと速く走らないと」


 ノアが何か言いかけて、やめた。


 夜道を並んで歩いた。銀泉楼の灯が見えてきた。誰かが暖簾を出してくれている。藍色の暖簾が、夜風に揺れていた。


 帰る場所がある。


 帰る場所を、自分の手で作った。


 明日は川だ。棚田に水を引いたように、川にも人を連れ戻す。養魚場を直して、谷鱒を育てて、この谷の食卓をもっと豊かにする。


 足は疲れている。でも——心は、走りたがっていた。

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