第17話: 源泉の声
ノアが地下に潜って、三日が経った。
食事は階段の踊り場に置いておけば、数時間後に空の皿だけが残されている。声をかけても「——今は来るな」の一言だけ。地脈計測器の微かな作動音と、ノアの足音だけが銀泉楼の地下から響いてくる。
地上では、五室の修復が終わった余韻がまだ残っていた。ガルドは弟子たちと大浴場の下見に取りかかり、リュカは厨房でユーディットに怒鳴られ、マリカさんは帳場で完成した客室の備品リストを作っている。
私だけが、階段の前で立ち尽くしていた。
ノアが源泉の調査を始めたのは、五室修復の最終日の夜だった。
「明日から地下に入る。しばらく上がらない」
夕食の席でそう宣言したのだ。ガルドが「何日だ」と聞くと、ノアは「わかるまで」とだけ答えた。
「前回の調査で見つけた異常波形を追跡する。表面的な計測じゃ限界がある。源泉の奥に入らなければ、地脈操作の全容は掴めない」
ノアの目に、研究者の炎が灯っていた。5年前からミストヴァレーに通い、2年前から住み着いて、ずっと追い続けてきた謎。地脈が不自然に弱まっている原因。その核心に手が届きそうだという確信が、彼を突き動かしているのだと思った。
止める理由はなかった。ノアが地脈の謎を解かなければ、源泉の本格的な復活はない。そして源泉なくして——旅館はない。
「わかった。食事は階段に置いておく。無理はしないで」
「……ああ」
四日目の朝。
階段を降りかけたとき、下から足音が上がってきた。
ノアだった。
土埃にまみれている。外套の裾が破れ、髪には蜘蛛の巣が絡みついている。しかし——目だけが、異様に澄んでいた。何かを見つけた人間の目。
「ノア」
「来い」
それだけ言って、また階段を降りていく。
私は手帳を引っ掴んで後を追った。
銀泉楼の地下は、初めて来たわけではない。ハンナさんと三人で降りたあの日以来、何度か足を運んでいる。
しかし今日、ノアが案内したのは、それまでの調査で入ったことのない場所だった。
源泉の湧出口から更に奥。岩壁に手を当てて歩くと、ノアの魔法灯が青白い光を放ち、足元を照らす。天井が低い。私でもかがまないと頭をぶつけそうだ。
「三日目の夜に見つけた」
ノアが足を止めた。
岩壁の一部が——違った。自然の岩肌ではない。石が切り出され、積み上げられている。目地に魔法的な処理の跡がある。
「人工物?」
「ああ。壁を魔法で透視した。この奥に空間がある。通路だ」
ノアが壁に手を当て、建築魔法を通した。石の目地が青白く光り、音もなく——壁の一部がずれた。石扉だ。
隙間から、冷たい空気が流れ出てきた。地脈の魔力を含んだ風。源泉の匂いがする。
「行くぞ」
ノアが先に入り、私が続いた。
その通路は——息を飲むほど美しかった。
幅は二人が並んで歩ける程度。天井はアーチ状に石が組まれ、壁面に沿って溝が走っている。溝の中を、微かに光る液体が流れていた。地脈の魔力を帯びた水。源泉の支流だ。
壁には、一定間隔で紋様が刻まれていた。円形の基本文様に、流れるような線が放射状に伸びている。
「……これは」
「源泉回廊」
ノアの声が、通路に反響した。
「全盛期に湯守が巡回するための管理通路だ。文献には名前だけ残っていたが、実在するとは思わなかった」
「湯守?」
「源泉を管理する専門職だ。地脈の流れを監視し、湯量と温度を調整する。銀泉楼の全盛期には、三人の湯守が交代でこの回廊を巡回していたという記録がある」
通路を進んだ。魔法灯の光に照らされて、壁の紋様が次々と浮かび上がる。どの紋様も同じ基本構造を持ちながら、微妙に形が違う。
「この紋様は地脈制御の術式だ。古い時代のものだが、原理は今の地脈学と同じ」
ノアが壁の前に屈み込んだ。指先で紋様をなぞる。
「地脈の流れを監視し、流量が増えすぎたら抑え、弱まったら促す。温泉のサーモスタット——温度と流量の自動制御装置のようなものだ」
サーモスタット。前世の言葉を使ったのは私じゃなくてノアだ。もちろん、この世界にサーモスタットはない。ノアなりの比喩だろう。
「つまり、全盛期はこの回廊の制御装置で源泉を管理していた?」
「ああ。だが——見ろ」
ノアが通路の奥を魔法灯で照らした。
紋様が途切れていた。
正確には——破壊されていた。壁面の紋様が鑿のようなもので削り取られ、制御術式が機能不全に陥っている。削られた痕は古い。二十年以上前のものだとわかった。
「誰かが、この回廊の制御系統を意図的に壊した」
ノアの声に、怒りに似たものが混じった。
「制御装置を破壊すれば、地脈の流れは不安定になる。その隙に——別の術式を埋め込めば、流れごと奪える」
回廊はY字に分岐していた。
ノアが地脈計測器を取り出した。水晶盤に映る光の流れが三つに分かれている。
「ここがミストヴァレーの地脈の合流点だ」
ノアが壁に炭で図を描いた。三本の線が一点に集まる模式図。
「北から霧峰脈。東から棚田脈。西から森林脈。三本の地脈がこの銀泉楼の地下で合流し、源泉として湧き出す。それがミストヴァレーの温泉だ」
「三本……」
「今、この計測器が拾っているのは西脈だけだ。他の二本は——ほとんど沈黙している」
ノアがY字の分岐を北へ進んだ。十歩ほど歩くと、魔法灯の光が何かに反射した。壁面に、回廊本来の紋様とは明らかに異質な術式が刻まれていた。新しくはないが、回廊の石組みよりずっと新しい。黒い鉱石で描かれた幾何学模様。
「……これが、地脈導管術の痕跡だ」
ノアの声が硬くなった。
「北脈はここで絞られている。術式が地脈の流れを制限し、魔力の大部分を——別の方向に迂回させている」
「別の方向って……」
「王都の方角だ。正確には、王都近郊。地脈計測器の偏差から推定すると——グランシュタットの南東方面」
碧泉宮。ヴィクトール侯爵の温泉施設がある方角だ。
二十年前——街道が付け替えられ、ミストヴァレーが幹線路から外されたのも同じ時期だ。偶然ではない。
東の分岐にも同じ痕跡があった。棚田脈も絞られている。
ノアが水晶盤のデータを読み上げた。
「北脈の流量は本来の推定値の12パーセント。東脈は8パーセント。西脈だけが本来の90パーセント近くを維持している」
「つまり——」
「三本のうち二本が、二十年前に絞られた。残った西脈一本だけで、銀泉楼の源泉は辛うじて生きている」
手帳に書いた。数字を書く手が震えた。12パーセント。8パーセント。この数字の裏側に、町ひとつの衰退がある。
「二本を解放できれば?」
「全盛期の七割は取り戻せる。計算上は確実だ」
「七割……!」
思わず声が上がった。七割。全盛期の七割の湯量があれば、大浴場三つを満たせる。旅館として十分すぎる。
「ただし」
ノアが冷静に続けた。
「術式の解除には、術を施した者の手法を解明する必要がある。闇雲に壊せば地脈が暴走する。最悪、地震が起きる」
「……そう簡単にはいかないか」
「相手は中央の術師だ。金で雇えるということは、相応の腕前ということだ。解除には時間がかかる」
回廊を戻りながら、私は考えていた。
二十年前に誰かが——おそらくヴィクトール侯爵が雇った術師が——この回廊に入り、制御装置を破壊し、導管術の術式を埋め込んだ。地脈の魔力を奪い、碧泉宮に引いた。ミストヴァレーの温泉を枯らし、町を衰退させた。
ハンナさんが証言した「夜中に地下に出入りしていた不審な連中」は、この回廊を使って術式を仕掛けた人間たちだ。
全てが繋がった。
「ノア。この情報は、まだ他の人には話さないで」
「なぜだ」
「証拠が足りない。地脈が人為的に操作されていることはわかった。でも"誰が"やったかを証明する物的証拠がまだない。下手に騒いだら、相手に隠蔽の時間を与えるだけ」
ノアが少し驚いた顔をした。
「……お前の、その切り替えの速さは、時々怖い」
「コンサルの——」
言いかけて、止まった。前世の言葉だ。でもノアの前では、もう何度か漏れている。今更か。
「——昔の癖よ。分析と対策は同時に回す。感情は後回し」
ノアが鼻を鳴らした。「便利な癖だな」
「便利じゃないわよ。感情を後回しにしすぎると、いつか全部まとめて来るの。前世ではそれで——」
口を噤んだ。過労死の話は、さすがにできない。
「……まあいい。とにかく今は、目の前のことに集中する」
回廊の出口に向かう途中だった。
天井が特に低い区間を抜けるとき、頭上の岩に注意を払いすぎて、足元の段差に気づかなかった。
「——っ」
躓いた。体が前に傾ぐ。
腕を掴まれた。
ノアの手だった。無造作に、しかし確実に。元冒険者の反射神経が、暗闇の中でも正確に私の腕を捉えていた。
「足元を見ろ」
「……ありがとう」
引き起こされて、体勢を立て直した。ノアの手が離れる。
——と思ったら、離れなかった。
ノアの手が、私の腕ではなく、頭の方に動いた。
「……動くな」
「え?」
指先が、髪に触れた。
蜘蛛の巣だ。天井の低い区間を通ったときに、髪に絡みついていたのだろう。ノアが慎重に——不器用な手つきで——糸を取り除いていく。
魔法灯の青白い光の中。ノアの顔が近かった。深緑の目が、私の髪を見ている。手帳を持つときとも、地脈計測器を扱うときとも違う、妙にぎこちない指の動き。
「……取れた」
ノアが手を引いた。指先に白い蜘蛛の糸が絡んでいる。それを払って、何事もなかったように歩き始める。
顔が熱かった。
暗くてよかった。絶対に赤くなっている。地下回廊の闇が、今だけはありがたかった。
——何を動揺しているの、セラフィーナ。蜘蛛の巣を取ってもらっただけじゃない。
でも。あの不器用な指先が。蜘蛛の巣を取るだけなのに、あんなに慎重だったのが。
……だめだ。考えるのをやめよう。
回廊の出口近く。源泉の湧出口が見える場所まで戻ってきたとき、ノアが足を止めた。
「セラフィーナ」
振り向いた。
名前で呼ばれること自体は、最近は珍しくなくなっていた。でも今の呼び方は——少し、違った。
「お前」でも、何かのついでに呟く「セラフィーナ」でもなく。意識して、選んで、この名前を口にした。そんな声だった。
「この源泉を取り戻すことが、旅館復興の鍵だ」
「……うん」
「だが——相手は中央の貴族だ。術師を雇えるほどの権力者。地脈操作は禁術だが、取り締まりは不十分で、証拠の立証が困難だ。正面からぶつかっても勝てない」
ノアの目が真っ直ぐに私を見ていた。警告ではなかった。事実を共有しようとする目だ。対等な相手に、正確な情報を伝えようとする目。
「わかってる」
私も真っ直ぐ見返した。
「でも、今は目の前のことに集中する。まず——旅館を開く。お客様を迎えて、この町が生きていることを証明する。証拠集めと戦略は、並行して進める。一度にやろうとしたら足元を掬われる」
「……それがお前の戦い方か」
「ステークホルダーを増やしてから——」
また出た。前世のコンサル用語。慌てて言い直す。
「——味方を増やしてからじゃないと、大きな敵には勝てないもの」
ノアが僅かに——本当に僅かに——口の端を上げた。笑ったのだとわかるまで一瞬かかるほど、微かな変化。
「……悪くない」
この人の最大の賛辞だ。
「さて。術式の完全な解明には時間がかかる。だが——」
ノアが地脈計測器を持ち上げた。水晶盤に残った一本の光。西脈の流れ。
「今ある西脈一本でも、地脈流路の最適化を施せば湯量を15パーセント改善できる。大浴場二つを満たすには——ぎりぎりだが、足りる」
「足りるの?」
「俺が設計する。源泉回廊の管理通路を使えば、地脈管の内壁処理も直接できる。合法的な手法だけで——やれるだけのことはやる」
合法的な手法だけで。その言葉に、ノアの矜持を感じた。地脈を操作する禁術に手を染めず、学者として正当な手段で戦う。それがノア・ヴェステルンドという男だ。
「お願い、ノア」
「……頼まれるまでもない。地脈の流れを歪めた奴が許せないだけだ」
地上に出ると、夕方だった。
西日が銀泉楼の玄関を橙色に染めている。三日ぶりの陽光を浴びて、ノアが目を細めた。
「ノア! 生きてたか!」
ガルドが大浴場の方から歩いてきた。腕組みをして、ノアの土だらけの姿を見ている。
「先生、浴場の下見は終わった。石組みの配置は全部頭に入ってる。源泉の引き込み経路はいつ出る」
「明日出す」
「明日か。——風呂のない旅館は旅館じゃないからな。急いでくれ」
ガルドが去っていく。ノアが溜め息をついた。
「……あの男は、人にものを頼むときに"急いでくれ"しか言わない」
「でも、あなたもガルドに"見事だ"って言われたとき嬉しそうだったでしょう」
「……聞こえていたのか」
「五号室の花鳥画。あのとき、ガルドの"見事だ"にあなた、ちょっと驚いた顔してた」
ノアが目を逸らした。耳の先が赤い。この人は感情を指摘されるのが苦手なのだ。
夜。
私は帳場で手帳を広げた。今日の調査結果を整理する。
三本の地脈。北脈12パーセント、東脈8パーセント、西脈90パーセント。二本解放で全盛期の七割。合流点は銀泉楼の地下。源泉回廊は実在した。制御装置は破壊済み。導管術の術式が二箇所に埋め込まれている。
手帳に図を描いた。三本の線が合流する模式図。二本に×印。一本だけの細い線が、かろうじて銀泉楼まで届いている。
この一本の命綱を、ノアが最適化する。15パーセントの改善。それで大浴場二つ。
『源泉の問題は時間がかかる。だが、今の一本でも——大浴場は満たせる。ノアの設計に全面的に委任。風呂を開けなければ、旅館は旅館にならない。』
ペンが止まった。
手帳のその下に、無意識に何か書きかけていた。
『ノアが名前を——』
消した。手帳に書くようなことじゃない。
でも。
あの地下回廊で「セラフィーナ」と呼ばれたときの声は、忘れられそうにない。あの暗闇の中、蜘蛛の巣を取ってくれた不器用な指先も。
頬が熱くなるのを感じながら、私は手帳を閉じた。
明日はノアと源泉の引き込み経路を詰める。ガルドと大浴場の設計を確認する。ユーディットには浴場完成後の蒸し室の使い方を相談する。
やることは山ほどある。感情は——後回しだ。
前世と同じ癖。でもこの癖が、今はありがたかった。
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