第18話: 看板料理
「小僧。桂剥き、何回やった」
ユーディットの声が厨房に響いた。朝五時。もうこの時間に起きるのが当たり前になっている。一ヶ月前は寝ぼけ眼で包丁を握っていたリュカが、今はまな板の前にぴしりと立って待っている。
「512回っす」
「……よし。次は魚を捌け。谷鱒だ」
私がその会話を聞いたのは、厨房に向かう廊下でのことだった。
朝の巡回ルートに厨房を組み込んだのは二週間前からだ。修復中の部屋の進捗を確認し、帳場を覗き、厨房を回ってからハンナさんの朝食をいただく。女将の朝回りだ。
厨房の入口から覗くと、まな板の上に銀色の谷鱒が横たわっていた。リュカが包丁を握り、魚の前で固まっている。
「512回……」
思わず呟いた。一ヶ月前、ユーディットに「あと100回やれ」と言われたのが始まりだった。それを5回繰り返した計算になる。
リュカの桂剥きは、確かに変わっていた。
一ヶ月前はぶつ切りの連続だった。それが今では薄く、均一に、途切れることなく剥ける。向こう側が透けて見えるほど薄い。
「包丁が体の一部になった。やっとスタートラインだ」
ユーディットがそう言い放った日の夜、リュカが中庭で嬉し泣きしていたのを私は知っている。
「で、魚は?」
リュカが谷鱒の前で固まったままだ。ユーディットが腕を組んでいる。
「鱒は骨が柔らかい。包丁の角度さえ間違えなければ三枚に卸せる。まず背びれの上に刃を入れろ。——深く入れすぎるな。骨に刃が当たったら、そこが限界だ」
リュカが息を吸った。包丁を当てる。手が僅かに震えている。
「震えてるぞ、小僧」
「……わかってるっす」
「わかってるなら止めろ。魚は緊張が伝わる。力を抜け。大根と同じだ。刃を動かすな、魚を——」
「魚を動かす」
リュカが呟いて、包丁を滑らせた。
じゃり、と骨に刃が触れる音。リュカの表情が変わった。集中している目。料理をしているときだけ現れる、あの鋭い目だ。
二太刀目。背骨に沿って刃を走らせる。まだ不格好だが、身は繋がっている。
「……及第点ぎりぎりだ。あと50尾捌け」
「50尾!?」
私はそっと厨房を離れた。リュカの叫び声が廊下に追いかけてくる。
帳場で朝食をいただきながら、手帳を広げた。
グランドオープンまで、残すは二つ。大浴場の完成と——看板メニューの決定だ。
大浴場はノアとガルドに任せている。源泉の引き込み経路は設計が終わり、配管の施工が始まっている。あと十日もあれば湯が通るとガルドが言っていた。
問題は料理だ。
旅館の看板メニューは、その宿の「顔」だ。前世で二百軒の旅館を見てきた経験から言えば、お客様は温泉の泉質を忘れても、夕食の一品は忘れない。
この谷にしかない食材。この源泉でしかできない調理法。ユーディットとリュカの腕。全てを掛け合わせた「ここでしか食べられない一膳」を作る。
手帳に書き込んだ。先付。椀物。焼物。食事。華美すぎず、食材の力が伝わる四品構成。
「ユーディット」
午前中。リュカが50尾の谷鱒と格闘し終わった厨房に向かった。
「メニューの試作をしたい。グランドオープンに向けて——看板料理を決めましょう」
ユーディットが包丁を拭いて、こちらを見た。
「女将さんにしては遅い提案だ。あたしはもう三日前から試作を始めてる」
ユーディットの試作帳を見せてもらって驚いた。十二品の候補が書き込まれ、合格は三品だけ。各料理に「◯」「△」「✕」の評価がついている。この人は一人で黙々と試作を重ねていたのだ。
「この三品を軸に、あと一品。四品で一膳。これが看板になる」
ユーディットが試作帳を広げた。
「先付は決まった。銀泉草の白和えだ。冷たい仕上げで、清涼感を活かす」
「温度がポイントなんすよね。銀泉草って、熱くすると香りが甘くなるから——」
「そうだ。15度以下なら清涼感、30度以上で甘み。白和えなら冷たいまま出せる。先付にはちょうどいい」
私は手帳にメモを取った。銀泉草の温度特性。これはノアのデータだ。
「ノアに確認するわ。薬草データベースから最適な配合を——」
言いかけたとき、厨房の入口に影が差した。
ノアだった。手に束ねた紙を持っている。
「銀泉草の温度別香気成分のデータ。必要だと思って持ってきた」
「……なんで今持ってくるの?」
「厨房から声が聞こえた。壁が薄い」
ユーディットが紙を受け取り、目を通した。片眉が上がる。
「学者先生。これは使える。——15度で清涼成分が最大値、豆腐との相性が良い成分もここにある。ふん、データってのも馬鹿にしたもんじゃないな」
「馬鹿にしていたのか」
「冗談だよ、学者先生」
ノアが無表情のまま厨房を出ていった。データだけ渡して去る。あの人らしい。
午後。試作が始まった。
ユーディットが厨房を仕切り、リュカが助手に回る。私は味見役兼記録係だ。ハンナさんも呼んだ。全盛期の味を知る唯一の人だから。
一品目——銀泉草の白和え。
ユーディットが絹漉し豆腐を裏漉しする手つきに、一切の無駄がない。白い塊が絹のように崩れ、すり鉢の中で滑らかな衣になる。私が朝摘んできた銀泉草を刻み、混ぜ、冷やした小鉢に盛りつけた。
「食べてみな」
一口。口の中に清涼な風が吹いた。豆腐の甘みの奥から、銀泉草の澄んだ香りが立ち上がる。冷たくて、爽やかで、後味にほのかな温かみ。
「……おいしい」
「当然だ。次」
二品目——霧茸の源泉蒸し吸い物。
これが、最大の挑戦だった。
銀泉楼の地下にある蒸し室。ノアの源泉調査で配管が通り、蒸気が出るようになったのは三日前のことだ。源泉から立ち上る白い蒸気が、蒸し室の天然石に当たって柔らかく拡散する。
ユーディットが蒸し室に入った瞬間、足を止めた。
「……この蒸気」
目を閉じて、深く息を吸い込む。
「地脈の魔力が、蒸気に溶けてる。こんな蒸し場、王都には絶対にない」
ヨハンのレシピ手帳を開いた。源泉蒸しの項。リュカが読み上げる。
「『霧茸は乾燥させてから蒸す。生のまま蒸すと水分が多すぎて旨味が逃げる。乾燥で旨味を十倍に凝縮させ、源泉の蒸気で戻す。蒸気の魔力が旨味と結合し、生でも乾燥でも出せない第三の味が生まれる』——親父、何言ってんすか……」
「お前の親父は天才だ。理屈じゃなく舌で正解に辿り着いてる」
ユーディットが乾燥霧茸を蒸し器に並べた。蓋を閉じ、源泉の蒸気を通す。
待つこと十五分。
蓋を開けた瞬間——。
厨房中に、香りが広がった。
森の奥の、朝露に濡れた木立の匂い。そこに温泉の甘い湯気が重なる。霧茸の旨味が蒸気に溶け出し、空気そのものが「美味しい」と叫んでいるような、途方もない香り。
「この香り……!」
声を上げたのは私だった。
振り向くと、ハンナさんが立ちすくんでいた。
しわだらけの手が、口元を押さえている。目が大きく見開かれていた。
「ハンナさん?」
「……この、匂い」
ハンナさんの声が震えていた。
「全盛期の銀泉楼の匂いだよ……。ヨハンが蒸し室で料理をすると、いつもこの匂いが旅館中に広がったんだ。お客様が廊下を歩いてるだけで、『いい匂いだ』って笑ってた……」
ユーディットが黙って、蒸した霧茸を吸い物の椀に移した。出汁を注ぎ、銀泉草を一枚浮かべる。
「味見はまだだ。食うぞ」
三品目——谷鱒の霧杉炭火焼き。
これはリュカの担当だった。
厨房の裏手に据えた七輪。霧杉の炭がじわりと赤い。煙は出ない。ただ微かに、甘い木の香りが漂う。
リュカが谷鱒を網に載せた。
「火の前に立つと、親父のことを思い出すんす」
独り言のように呟く。ユーディットが黙って聞いている。
「親父は火の色だけで温度がわかった。赤ならまだ早い、橙で中火、白に近づいたら強火。目を瞑ってても焼ける、って言ってた。俺はまだ——」
「見ろ」
ユーディットが遮った。静かな、しかし有無を言わせない声。
「皮の色が変わる瞬間を。表面の水分が飛んで、脂が滲み出す。皮が縮み始める。——そこだ」
リュカが見ていた。火を、魚を、皮の一点を。
「——今っす!」
返した。
竹串が身に触れる。じゅう、と小さな音。皮目がきつね色に焼き上がり、身はふっくらと膨らんでいる。
ユーディットが鱒の断面を見た。箸で身を割ると、淡い紅色の身から透明な脂がじわりと滲む。
「……小僧」
「は、はいっす」
「火入れは合格だ」
リュカの目が丸くなった。ユーディットの「合格」を聞いたのは、桂剥き以来かもしれない。
「た、棟梁のと——」
言いかけて口を噤んだ。照れて耳が真っ赤だ。
四品目——地脈米の源泉水炊きご飯。
これは単純で、だからこそ最も難しい。
ユーディットが釜に地脈米を研いで入れ、源泉水を張った。火にかける。
蓋が踊り始めるまでの間、誰も喋らなかった。炊飯は静寂の料理だ。
やがて蒸気が噴き出した。甘い香り。源泉水に含まれる地脈の魔力が、米の甘みを引き出している。
火を引き、蒸らすこと十分。
ユーディットが蓋を取った。
湯気の中に、艶やかに輝く白い飯が現れた。一粒一粒が立ち、表面に薄い膜のような光沢がある。
「この米は普通に炊いても旨い」
ユーディットがしゃもじで底から返した。
「だが源泉水で炊くと——甘みが一段上がる。邪魔な匂いが消えて、米本来の香りだけが残る。反則みたいな水だよ」
試食会は、銀泉楼の帳場で行った。
テーブルに四品を並べる。先付、椀物、焼物、食事。
セラ、ノア、ハンナさん、ガルド。四人が席についた。ユーディットとリュカは厨房の入口に立って、腕を組んでいる。料理人は食べる側の顔を見る。それがユーディットの流儀だった。
「いただきます」
先付。銀泉草の白和え。
ガルドが一口食べて、顎を動かした。二口目。三口目。無言のまま小鉢を空にした。
「……悪くねぇ」
それはガルドの最大の賛辞だ。
椀物。霧茸の源泉蒸し吸い物。
蓋を取った。あの香りが、再び広がる。
ハンナさんが椀を持ち上げ、一口すすった。
そして——手が止まった。
箸を置いた。目を閉じた。
しわの刻まれた頬を、涙が一筋、流れた。
「ハンナさん……?」
ハンナさんは目を閉じたまま、小さく唇を動かした。
「……ローザ様。聞こえますか」
声が震えている。
「あの味が、帰ってきましたよ」
厨房の入口で、ユーディットが唇を噛んだ。リュカが目を伏せている。二人とも泣いてはいない。料理人は——泣かない。代わりに、拳をきつく握っていた。
私も目頭が熱くなった。
二十年の空白を越えて、新しい料理人の手で蘇った味。完全な再現ではない。でも土台にあるのは同じだ。この土地の恵みと、源泉の力。
焼物。谷鱒の霧杉炭火焼き。
ガルドが箸でほぐした。皮がぱりっと鳴る。身を口に運ぶ。
「うまい。文句なしだ。——もう一切れくれ」
ノアは黙って食べていた。表情は相変わらず読めない。ただ箸が止まらない。白和えの小鉢は空、吸い物の椀も空、谷鱒の皮まで綺麗に食べ終えている。
そして——食事。地脈米の源泉水炊きご飯。
ノアが茶碗を手に取り、一口。
噛む。もう一口。
「……」
無言のまま、茶碗を空にした。
そして——立ち上がって、釜の方に歩いていった。
自分でしゃもじを取り、二杯目をよそった。席に戻る。黙って食べる。
また立ち上がった。三杯目。
「ノア」
ノアは答えなかった。ただ三杯目のご飯を口に運びながら、わずかに——本当にわずかに——口角が上がった。
言葉はない。でも三杯が何よりの証拠だ。
「学者先生、食いっぷりがいいな」ガルドがにやりと笑った。
「腹が減っていただけだ」
ノアが目を逸らした。耳が赤い。
「結果は出たな」
ユーディットが厨房から出てきて、テーブルの端に腰を下ろした。
「先付、椀物、焼物、食事。四品で一膳。これが銀泉楼の看板になる」
リュカが隣に立っている。拳をぎゅっと握りしめていた。さっきからずっと、ハンナさんの涙とノアの三杯を反芻しているのだろう。
「女将さん。名前は?」
ユーディットが私を見た。
名前。看板料理の名前。
手帳を開いた。一ヶ月前から温めていたフレーズがある。
「『銀泉楼・谷の恵み膳』」
声に出すと、しっくりきた。
銀泉楼の名前と、この谷の恵み。それだけでいい。飾らなくていい。華美な名前より、一口で「旨い」と言わせる味こそが全てだと、目の前の料理人が証明したのだから。
「谷の恵み膳、か」ハンナさんが呟いた。涙の跡が頬に残っている。でも、もう笑っていた。「いい名前だね。この谷のもの全部が、あの一膳に入ってる」
前世の癖で、感動の直後に数字が回り始める。
「銀泉草は源泉近くの自生。霧茸の乾燥在庫は壺三つ。谷鱒は銀霧川、地脈米はヴァルターさんの棚田、源泉水はうちの地下。つまり、プロダクトのコスト構造としては——」
ノアが三杯目の茶碗を置いた。地下回廊で名前を呼んだあの瞬間から、また「お前」に戻っている。照れ隠しなのだろう——この人らしい。
「前世の言葉が出ている」
しまった。「プロダクトのコスト構造」。完全にコンサル用語だ。
「……原材料費がとても安いということ。この膳は、この土地にいるだけで作れる」
「それが強みだ」ユーディットが頷いた。「金で食材を買い集めて作る料理は、どこでも真似できる。だがこの膳は、この谷でしか成立しない」
ガルドが腕を組んだ。
「碧泉宮には絶対に真似できねぇってことだな」
その名前が出て、空気が一瞬張り詰めた。
「そうよ。土地の力で作る料理は、金では買えない。それが銀泉楼の武器」
片付けの後。厨房の外で、リュカが空を見上げていた。大きすぎる父のエプロンが夕風にはためく。
「リュカ」
「……ハンナ婆ちゃんが泣いてたっす」
「うん」
リュカは空を見上げたまま、目を細めた。
「俺、親父の味を超えたいってずっと思ってたっす。でも今日わかった。超えるとか超えないとかじゃなくて——繋ぐことが大事なんすね。親父が作った味を、師匠の技術で磨いて、俺が次に渡す」
十六歳だからこそ、真っ直ぐにそこに辿り着けるのかもしれない。
「あなたが銀泉楼の料理人よ。——最高の厨房を作ってね」
「……はいっす!」
リュカの声が谷に響いた。
夜。帳場で手帳を広げた。
『看板メニュー「谷の恵み膳」——決定。四品構成、全食材を谷の地産で賄える。最大の競争優位は「この土地でしか成立しない」再現不可能性。』
ペンが走る。でも、今日ばかりは数字だけじゃない。ハンナさんの涙。リュカの成長。ユーディットの拳。ノアの三杯。ガルドの「文句なし」。全部が、この一膳に詰まっている。
手帳に最後の一行を書いた。
『メニューも決まった。あとは——風呂だ。』
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