第13話: 棟梁の帰還
朝、銀泉楼の玄関に立って、私は目を疑った。
昨日なかったものがある。二号室の窓の下に、足場が組まれていた。丸太と横板を組み合わせた、頑丈で正確な構造。素人の仕事じゃない。一目でわかる——職人の手だ。
差出人は、もう隠すつもりもないらしい。
「ノア、これ——」
玄関先に出てきたノアが、足場を一瞥して言った。
「昨夜は一晩中、木を叩く音がしていた。だから熟睡できなかった」
「熟睡できなかったって、それ、夜中に起きて見に来なかったの?」
「……見た」
「やっぱり」
「ガルドだった。暗がりで一人、足場を組んでいた。声をかけたら——」
「なんて?」
「『うるせぇ、寝てろ学者先生』」
思わず吹き出した。あの人らしすぎる。
足場の組み方を観察した。丸太の結合部分が綺麗に面取りされている。荷重が均等にかかるよう角度が計算されていて、一本の釘すら無駄がない。前世で見た現場の足場より、よほど美しかった。
これは「通りすがり」の仕事じゃない。本気の仕事だ。
朝食の後、私はガルドの家を訪ねた。
ミストヴァレーの外れ、霧杉の木立に半分隠れるように建つ一軒家。外壁の板は年季が入っているが、一枚も歪んでいない。戸口の鴨居に鉋の跡が残っている。三代の棟梁が暮らした家だ。
庭先に、削りかけの木材が積んであった。霧杉。あの足場に使ったのと同じ種類だ。
戸を叩くと、中から重い足音がした。
「誰だ」
「セラフィーナです」
沈黙。長い沈黙。ガチャリと戸が開いた。
ガルドが立っていた。鉢巻きを巻いた白髪交じりの頭。鉄色の目が、朝日を眩しそうに細めている。腕を組んで——いや、腕を組もうとして、木屑がついた手に気づいて、わずかに視線を逸らした。
「……何の用だ」
「足場、ありがとうございます」
「何のことだ」
「二号室の足場です。昨夜組んでくれたでしょう。ノアが見てました」
「——あの学者、余計なことを」
ガルドが鼻を鳴らした。でも否定はしない。もう言い訳をするつもりもないのだと、その態度が語っていた。
私は背筋を伸ばした。
「棟梁。正式にお願いに上がりました」
「……聞こう」
「銀泉楼の修復を指揮してください。棟梁として」
ガルドの目が、一瞬だけ揺れた。すぐに元の鉄の色に戻る。
「金は?」
「ありません」
正直に言った。嘘をついても仕方がない。現時点の銀泉楼の手持ちは銀貨三十枚。職人一人の日当にもならない。
「でも、旅館が軌道に乗ったら必ず——」
「金の話をしてるんじゃねぇ」
ガルドの声が低くなった。腕を組み直す。今度はちゃんと組めた。
「何を聞きたいの……何について聞いているんですか」
「……覚悟だ」
鉄色の目が、真っ直ぐ私を射抜いた。
「あの建物を直すってのは、柱を一本立てるのとは訳が違う。三十室。大浴場が三つ。庭に蒸し室に配管に屋根。全盛期でも直すのに三年かかる規模だ」
ガルドが一歩、近づいた。木と汗と鉄の匂いがした。
「途中で投げ出されたら——あの建物が死ぬ。中途半端に手を入れた建物は、放置するより脆くなるんだ。わかってるか」
前世の記憶が蘇った。改修途中で資金が尽きた旅館を何軒も見てきた。壁を剥がしたまま放置された柱が雨に晒され、元の状態より早く腐っていく。建物にとって、中途半端な修復は裏切りだ。
「わかっています」
声が震えそうになった。でも、震えさせなかった。
「最後の一室まで直します。この旅館を——銀泉楼を、完全に蘇らせます」
「……」
ガルドが黙った。鉄色の目が私の目を見て、足元を見て、もう一度目を見た。
長い、長い沈黙。
ガルドが鼻を鳴らした。
「……しょうがねぇな」
この人の「しょうがねぇ」は、最大級の承認だ。この一ヶ月で学んだ。
「棟梁を引き受ける。ただし条件がある」
「何でも」
「中途半端は許さん。俺が"駄目だ"と言った仕事はやり直す。——それと」
「それと?」
「じいさんの建物だ。汚すなよ」
三代にわたる棟梁の、矜持と愛情が詰まった言葉だった。
「汚しません。もっと輝かせます」
ガルドが、ほんの少しだけ口角を上げた。笑ったというには微か過ぎる。でも確かに、鉄色の目に温度が宿った。
棟梁——ガルドさんではなく、もう棟梁と呼ぼう。この人は銀泉楼の棟梁だ。
棟梁の家の中に通された。壁一面に工具が掛かっていた。鉋、鑿、玄能、墨壺、差し金——どれも手入れが行き届いて鈍い光を放っている。
「明日から全館の総点検をやる。学者先生も呼べ」
「はい。ノアも呼びます」
打ち合わせの日取りを決めて帰ろうとしたとき、ガルドが机の引き出しを開けた。中から便箋と封筒を取り出す。
「……嬢ちゃん。一つ、頼みがある」
「何ですか?」
「この手紙を——町を出た奴らに出してくれるか。俺の字じゃ、恥ずかしくて」
渡された便箋を見た。
太い、不器用な文字が並んでいた。
『仕事がある。銀泉楼を直す。手を貸せ——ガルド』
たったそれだけだった。
でも、この一行には二十年分の思いが詰まっている。町を出た弟子たちを一度も呼び戻さなかった頑固な棟梁が、初めて自分から手を伸ばした。
「……字、全然恥ずかしくないですよ」
「うるせぇ。さっさと出せ」
ガルドが目を逸らした。耳が赤い。——あれ、この反応、どこかで見たような。
手紙は三通。宛先はカルル、ヨナス、フランツ。ガルドの元弟子だ。三人とも五年以上前にミストヴァレーを離れている。
霧亭で手紙を出す準備をしていたら、ハンナさんが目を丸くした。
「ガルドの旦那が手紙を書くなんてねぇ。弟子たちが出て行くとき、"勝手にしろ"の一言だったのに」
「口が悪い人ほど、本音は逆ですよね」
「先生と一緒だね」
否定できなかった。
三日後の朝。
銀泉楼の前に、二人の若い男が立っていた。
背の高い方が日に焼けた顔をして、小さな旅行鞄を提げている。もう一人はがっしりした体格で、背中に大工道具の袋を背負っていた。
「あの……ガルド棟梁に呼ばれて来たんですが」
背の高い方——カルル——がおずおずと言った。
「棟梁は、どちらに……」
「ここだ」
銀泉楼の玄関から、ガルドが出てきた。鉢巻きを巻き直し、腰に道具袋を提げた完全装備。
「遅ぇ。三日もかかりやがって」
「棟梁! ご無沙汰して——」
「挨拶はいい。手を見せろ」
ガルドがカルルの手を取った。掌を見て、指を曲げさせ、爪の状態を確かめる。
「……鉋を握ってるな。まあいい」
次にヨナスの手を見た。
「こっちは——鑿か。太い指になったな」
「へへ、東の町で石工もやってまして」
「余計なことを覚えやがって。——まあいい。使えるなら使う」
ガルドの声は乱暴だったが、弟子たちの手を離すとき、指先が少しだけ遅かった。
「銀泉楼の修復を始める。期間は未定。金も未定。文句あるか」
「ありません!」
「棟梁が呼んでくれたんですから!」
「うるせぇ。声がでかい」
ガルドが怒鳴った。でもその怒鳴り声には、怒りの色が一滴も混じっていなかった。
私は少し離れた場所から三人を見ていた。隣にノアが立っている。
「棟梁、嬉しそうだね」
「……あれが嬉しそうに見えるのか」
「わかんない? 声のトーンが半音上がってるでしょ。怒鳴ってるけど語尾が跳ねてる」
ノアが私を見た。呆れたような、感心したような顔。
「……お前は本当に、人を見る目だけは確かだな」
「"だけは"って何」
「褒めたんだ。珍しく」
翌日から、全館総点検が始まった。五人で銀泉楼の隅から隅まで歩いた。
ガルドが建物を見る目は、医者が患者を診るのに似ていた。柱を叩き、壁を押し、天井を見上げる。
「二号室。床板三枚腐ってる。根太は生きてるから板だけ張り替え」
「三号室。窓枠の歪みが雨漏りの原因。枠ごと作り直す」
「四号室。——待て」
ガルドの足が止まった。天井の梁を見上げている。
「嬢ちゃん、こっちに来い」
言われるままに近づくと、ガルドが梁の一点を指差した。木肌に小さく、何かが刻まれている。
「読めるか」
目を凝らした。古い字体で、二文字。
「"鉄"と"杉"?」
「鉄杉。じいさんの号だ」
ガルドの声が、わずかに震えた。
「百年前にこの梁を据えたとき、自分の印を刻んだんだ。——まだ残ってやがる」
太い指が梁の刻印を撫でた。節くれだった、傷だらけの職人の手。その手が百年前の祖父の手跡に重なる。
「……おやじもこの梁を見てたはずだ。俺が弟子入りした日に、"この梁を折るなよ"って言われた」
「折れてないですね」
「折れてねぇ。——百年経っても、折れてねぇ」
ガルドが梁から手を離した。鼻を一度すすり、何事もなかったように歩き出す。
「次。五号室」
カルルとヨナスが顔を見合わせた。棟梁の背中を見つめる二人の目に、敬意がにじんでいた。
総点検に二日かかった。三十室と浴場三つ、蒸し室、厨房、屋根——全てを見て回った。
三日目の朝、帳場に全員が集まった。ガルド、ノア、カルル、ヨナス、ハンナさん。ユーディットが壁にもたれ、リュカが床に座っている。
「結果を共有します。全三十室のうち、修復可能なのは——」
「二十八室」
ガルドが先に答えた。
「崩落していた四室のうち二室は基礎が残っていて修復可能と判明した。結果、全三十室のうち二十八室が使える見込みだ。残り二室は構造からやり直す必要がある。が、骨格は全部生きてる。じいさんの仕事は伊達じゃねぇ」
「浴場は?」
ノアが聞いた。
「大浴場の石組みは八割方使える。配管が問題だ。地下から浴場まで湯を引く石管が劣化してる」
「そこは俺が設計する」
ノアが手帳を出した。いつの間にか配管の設計図を描いている。地下源泉から各浴場への経路が、細かな数字と矢印で示されていた。
「源泉の引き込み経路を再設計した。現在の湧出量——西脈一本分で、大浴場を二つまで稼働させられる。建築魔法で管の内壁を滑らかにすれば、流量を一割五分改善できる」
「一割五分か。……悪くねぇ」
ガルドがノアの設計図を覗き込んだ。太い指が紙面を辿る。
「ここの接合部。石と石の隙間が問題になる。魔法で埋められるか」
「やれる。精度は保証する」
「ほう。——じゃあ、ここの勾配はどうする。湯が溜まって冷める」
「勾配を三度上げる。石管の断面を楕円に変えれば流速が維持できる」
「楕円だと? そんな石管、削るのに——」
「建築魔法で成形する。刃物より正確にできる」
ガルドが黙った。ノアの目を見て、ノアの設計図を見て、もう一度ノアの目を見た。
「……学者先生。お前、現場もわかるんだな」
「二年間、この建物の中で暮らしていた。わからないほうがおかしい」
「ふん。——まあいい。配管はお前に任せる」
ノアが静かに頷いた。
二人の会話を聞きながら、私は手帳に書き込んでいた。——フェーズ2、始動。
「優先順位をつける」
ガルドが全員を見回した。
「まず浴場だ。風呂のない旅館は旅館じゃない」
「同感です」
私が即答すると、ガルドが少し驚いた顔をした。
「前世——いえ、昔読んだ本にこんな言葉があります。"旅館の心臓は湯殿であり、湯のない旅館は胸のない人と同じ"」
「……誰の言葉だ」
「古い、とても古い旅館経営の本です」
嘘は言ってない。前世で読んだ温泉経営学の教科書に、たしかにそんな一節があった。
「次に客室を五室、同時に修復する」ガルドが続けた。「一号室はもうできてる。二号室から六号室を仕上げて、計六室。これなら一日に五組は泊められる」
「その間に厨房の設備も整えてほしいんですが」
ユーディットが壁から身を起こした。
「蒸し室を使いたい。蒸し料理がなけりゃ、銀泉楼の名前が泣く」
「蒸し室は浴場の隣だ。配管と一緒にやる」ガルドが頷いた。
「源泉の蒸気を蒸し室に引き込む経路も設計済みだ」ノアが設計図のもう一枚をめくった。「蒸気の温度管理が鍵になるが、弁で調整できる」
全員の視線が設計図に集まっている。ユーディットは厨房のことを考え、ガルドは構造を読み、ノアは地脈と魔法の観点から補足し、カルルとヨナスは棟梁の指示を待って背筋を伸ばしている。
ハンナさんが隣で、小さく呟いた。
「……こんな光景、二十年ぶりだよ」
「えっ?」
「みんなで銀泉楼のことを話してる。あの頃と同じだ。——いや、あの頃より、いいかもしれない」
ハンナさんの灰色の目が潤んでいた。でも涙は流さない。この人は強い人だ。
打ち合わせが終わり、それぞれが持ち場に散った夕方。
銀泉楼の玄関先で、私はノアと並んで座っていた。谷を覆う夕霧が、夕日を受けて橙色に燃えている。
「ノア。ステークホルダーが揃った」
しまった。
ノアが怪訝な顔をした。
「ステーク何だ?」
「……仲間。仲間が揃ったって言いたかったの。昔の癖」
「お前の"昔"は時々、妙に専門的だな」
ノアの深い緑色の目が私を見た。探るような、だけど追及するつもりはない目。この人はいつもそうだ。気づいているけど、踏み込まない。
「……まあいい。仲間は揃った。だが——この前の調査で話した通り、地脈は人為的に操作されている。修復を進めれば、必ず邪魔が来る」
地下源泉で掴んだ手がかり。二十年前に地脈を操作した何者か。その影が、まだこの谷を覆っている。
「来るなら来ればいい。旅館経営で一番大事なのは、お客様に最高の体験を提供すること。妨害が来ても、やることは変わらない」
「……お前のその無駄な楽観主義は、時々助かる」
ノアが立ち上がった。口角が微かに上がっていた。
「明日から配管の実測に入る」
「よろしくお願いします」
「……ああ」
ノアが銀泉楼の中に消えた。
夜。帳場に灯りが一つ残っていた。
覗き込むと——ガルドだった。カルルとヨナスはとっくに戻ったのに、棟梁だけが紙を広げている。太い指に筆を握って、何かを描いていた。
銀泉楼の全体図だった。三十の客室、浴場、廊下、階段、蒸し室。全てが正確な寸法で描かれている。
「棟梁、これいつの間に……」
「頭の中に入ってる」
ガルドが筆を止めずに言った。
「じいさんが建てて、親父が改修して、俺が浴場を増築した。三代分の図面が——全部、ここに」
太い指で、自分の額を叩いた。
「嬢ちゃん」
「はい」
「弟子が二人戻った。……まだ足りんがな」
ガルドの鉄色の目が、図面の上の浴場の部分を見つめていた。
「次は——厨房だ」
図面に向き直る背中が、魔導灯の光で大きく見えた。
口では言わない。でも行動が全てを語る。深夜に一人で足場を組む男。頭の中に三代分の設計図を持つ男。不器用な手紙で弟子を呼び戻す男。
この人は——ずっと、銀泉楼を愛していたのだ。
手帳を開いて、今日の最後の書き込みをした。
『フェーズ2「基盤」——始動。
棟梁: ガルド。建築: カルル、ヨナス。配管・地脈: ノア。
厨房: ユーディット、リュカ。仲居: ハンナさん。総指揮: 私。
——全員で、銀泉楼を蘇らせる。』
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