第12話: 自然じゃない
「この地脈は、誰かに抜かれている」
ノアの声は、いつもより低かった。
地脈計測器の水晶盤を見つめる横顔に、いつもの研究者の好奇心はない。もっと切迫した——何かを確信してしまった人間の顔だった。
話は、今朝に遡る。
朝一番、私はハンナさんを銀泉楼に呼んだ。
昨日の夕方、言いかけて止まった言葉が一晩中頭を離れなかった。「ローザ様が倒れる前、地下に……」。あの先に何があるのか。手帳に書いた「明日、必ず聞く」を、実行する朝だ。
「ハンナさん。昨日の続きを聞かせてください」
玄関先で待っていたハンナさんは、覚悟を決めた顔をしていた。白髪をきっちりまとめ、背筋をまっすぐに伸ばして。
「……お嬢。地下に降りようかね」
「地下に?」
「あたしの話は、あそこで聞いたほうがいい。——先生も呼びな」
ノアを呼びに行くと、研究室で地脈計測器の調整をしている最中だった。
「ノア。ハンナさんが地下に降りようと言ってる。昨日言いかけた話の続きを——」
「わかった」
説明を終える前に、ノアは立ち上がっていた。計測器を肩に担ぎ、手帳を外套のポケットに突っ込む。
「お前も来い」
「もちろん。——ノア、あなたも何か気づいてた?」
足を止めた。深い緑色の目が一瞬だけ揺れる。
「……二年間、数値が合わなかった。地脈の減衰がどうしても自然曲線に乗らない。だが——証拠がなかった」
二年。一人で、この廃墟の地下で。
地下への階段は、銀泉楼の奥まった廊下の突き当たりにあった。
重い木の扉を開けると、湿気を含んだ温かい空気が吹き上がってきた。苔の匂い。微かな硫黄の香り。石段の表面が結露で黒く光っている。
ノアが魔導灯を掲げた。青白い光が石壁を照らし、階段の先へ伸びていく。一段、また一段。石段の端が長年の足の摩耗で丸くなっていた。何百人もの足が、何十年もかけて削った丸みだ。
「昔はここが一番賑やかだった」
ハンナさんが私の後ろから声を出した。
「湯守が三人いてね、交代で源泉を見張ったもんだよ。湯の色、温度、匂い——少しでも変われば、すぐにローザ様に報告さ」
石段を降りるにつれて、温度が上がっていく。壁の石が手に触れると生温い。かつてはもっと熱かったのだろう。
「蒸し室もここにあった。ヨハンが——リュカ坊の親父さんだ——朝一番に降りてきて、蒸気の具合を確かめて、その日の献立を決めるんだ」
ハンナさんの声が少し震えた。
「ローザ様はね、"源泉は宿の心臓だ"って。心臓が止まったら、体も止まるって」
階段を降り切ると、天井の高い石室に出た。壁面に沿って太い石の管が何本も走っている。地脈の湯を各浴場に送るための配管だ。今はほとんどが乾いていて、苔と水垢だけが当時の面影を残している。
中央に、浅い石の池があった。直径三間ほど。底から微かに湯が湧いている。指先を浸すまでもなく、以前より湯量が減っているのがわかった。
「ここが源泉の合流点だ」
ノアが石の池の縁に地脈計測器を置いた。水晶盤に手をかざすと、淡い光が灯る。
「静かにしてくれ」
三人が黙った。石室に、水の滴る音だけが響く。
ノアが計測を始めると、空気が変わる。呼吸すら邪魔になりそうな集中力だ。池の北側。東側。西側。それぞれの流入点で数値を取り、手帳に書き込んでいく。ページをめくる音と、ペンが走る音だけが石室に反響した。
五分。十分。
ノアの手が止まった。
「おかしい」
声が低い。
「地脈の流量が、自然な減衰カーブから大きく外れている」
「どういうこと?」
「地脈は生き物のように動く。季節で増減し、年単位でゆっくり弱まることもある。だがそれには必ずパターンがある。滑らかな曲線を描くんだ」
ノアが水晶盤を私のほうに傾けた。淡く光る数字の羅列。詳細は読めないが、ノアの指が示す一点に目を凝らした。
「ここだ。二十年前を境に、流量が急激に落ちている。自然減衰なら百年かけてじわじわ下がるはずの数値が——数ヶ月で崖のように落ちている」
背筋が冷えた。
「北脈と東脈の二本が、ほぼ同時期に急減している。西脈だけが辛うじて残っている。三本あるうちの二本だけが選択的に弱まるのは、自然現象ではありえない」
ノアが乾ききった北の配管に手を当てた。
「まるで——誰かが蛇口を絞ったように」
その比喩を、私は二度目に聞いた。一度目は、ハンナさんの口から。銀泉楼の衰退を語ったとき、同じ言葉を使っていた。二人が独立に同じ結論に達している。
「ノア。それは、人為的な操作ってこと?」
「断定はできない。だが——」
ノアが手帳を開いた。二年分の計測データがぎっしり詰まっている。
「俺は二年間、この数値が自然現象で説明できると仮定して研究してきた。地殻変動。地下水脈の変化。火山活動の影響。全部調べた。全部——辻褄が合わなかった」
初めて聞く言葉だった。ノアが「わからない」と認めるのを。
「自然現象では説明がつかない。二年分のデータが、同じ結論を示している」
「自然じゃない」
私が言った。ノアが頷いた。
「自然じゃない」
沈黙が落ちた。源泉のわずかな湧出音だけが、石室に反響している。
ハンナさんが口を開いた。
「……先生。あたし、二十年間言えなかったことがある」
ノアと私が同時にハンナさんを見た。小柄な体が石室の薄闇の中で震えていた。けれどその目は、決意の色をしていた。
「ローザ様が倒れる少し前のことだよ。——見慣れない連中が、ここに出入りしてた」
「見慣れない連中?」
「術師風の男が二人。黒い外套を着てね、道具を運んでた。大きな布に包んだ、石みたいなもの」
石みたいなもの。ノアの目が鋭くなった。だが口を挟まず、ハンナさんに先を促した。
「夜中にだけ来て、朝には消えてた。三晩か、四晩。あたしは夜回りの途中で見かけたんだよ。この石段を降りていくのを。灯りを消して、声を潜めて」
「この場所に?」
「ここだよ。客が来てるわけでもないのに、おかしいと思った」
ハンナさんの手がエプロンの裾を握りしめた。
「安い身なりじゃなかった。いい外套にいい革鞄。自分の意思で来てる感じじゃない。誰かの指示で動いている——仕事で来ている人間の目だった。客商売四十年やってりゃ、それくらいはわかるさ」
「ハンナ殿。ローザ殿に報告したか」
「しようとした」
ハンナさんの声が詰まった。
「翌朝、ローザ様の部屋に行くつもりだった。でも——その翌日に、ローザ様は倒れた」
石室の空気が凍りついた。
「それからは、もう、それどころじゃなかった。ローザ様の看病で手一杯で——二年だよ。倒れてから亡くなるまで、二年。少しずつ弱っていくのを見てるしかなかった。ローザ様が亡くなった後には、連中も消えてた。証拠も何もない」
ハンナさんが顔を伏せた。
「あたしが——あたしがもう一日早く報告していれば。ローザ様は……」
「ハンナさん」
私は彼女の手を取った。節くれだった指が、冷たかった。
「あなたのせいじゃない。あなたは二十年間、この秘密を抱えて、それでもこの町に残って鍵を守り続けた」
「でも——」
「ハンナ殿」
ノアの声が、静かに石室に響いた。いつもの素っ気なさがなかった。
「あなたの証言は、二年分の計測データが出せなかった答えを出してくれた」
ノアが手帳を広げた。
「時期が一致する。地脈の急変と、ローザ殿の発病と、その術師たちの出入りが。——三つが重なるのは偶然ではない」
ハンナさんの灰色の目に涙が光った。だが流さなかった。この人は、簡単には泣かない。
「ノア。前にも似たようなケースを見たことがある?」
聞いた瞬間、ノアの表情が一瞬だけ固まった。深い緑色の目に、何かが翳った。
「……ある」
短い答えだった。それ以上は言わなかった。研究室の机に積まれた「リンドヴァル村」のファイルが脳裏をよぎった。今は追及すべきときじゃない。
代わりに、私の中で別のものが動き出していた。
前世のコンサル脳。数百軒の旅館を分析してきた頭が、目の前のデータを組み立て始める。不自然な衰退。人為的な原因。原因が特定できれば、対策が立てられる。
「源泉が枯れた原因が人為的なら——」
声に力が入った。
「原因を取り除けば、源泉は戻る」
ノアが私を見た。
「理論上は、そうだ」
「理論じゃなくて、現実の話をしてる。ボトルネックは情報の断片化——」
また出た。前世の癖。ノアが怪訝な顔をしている。
「……つまり、ノアの計測データと、ハンナさんの証言と、源泉の現状。この三つを突き合わせれば、何が起きたのか特定できるんじゃない?」
「……可能性はある。だが術師が何を施したのか。地脈のどこに干渉したのか。それがわからなければ——」
「じゃあ調べましょう」
ノアの目が、少し見開かれた。
「ノア。この謎を解くこと、あなたの地脈研究にも関係ある?」
聞いた瞬間、ノアの表情が変わった。学者の目。二年間追い続けた謎の答えが、手の届くところにあると気づいた目。
「……ああ。むしろ——これが俺がここに来た理由だ」
低い声だった。けれど、そこに熱があった。
「じゃあ利害は一致する」
私は手帳を開いた。新しいページに、大きく書いた。
「旅館の再建と、源泉の謎の解明。——両方やる」
ノアが私を見た。私もノアを見返した。数秒、視線が交わる。ノアの口角が、ほんの少しだけ上がった。
「……お前、本当に止まらないな」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めてない」
「でも否定もしてない」
ノアが目を逸らした。魔導灯の光でもわかるくらい、耳が赤い。
ハンナさんが、くしゃりと笑った。
「あんたたち……頼もしいねぇ」
二十年間の重荷を下ろした顔に、初めて安堵が滲んでいた。左手の銀の指輪が、魔導灯の光を受けてきらりと光った。
「ローザ様が聞いたら笑うだろうね。"遅いよ、ハンナ"って」
「遅くないです。今からです」
「……そうだね。今からだね」
ハンナさんが背筋を伸ばした。いつもの、ぴんと張った仲居頭の姿勢。
「あたしにできることがあるなら何でも言いな。記憶なら全部差し出すよ。五十年分ある」
三人で石段を登った。
地下の湿気を抜けて地上に出ると、夕方の光が差し込んでいた。谷を覆う霧が夕日に染まって、淡い橙色に光っている。
「明日からの計画を立てましょう。ノアは地脈の過去データを遡って、急変が起きた正確な時期と場所を特定。ハンナさんは当時の記憶をできる限り詳しく書き出してください。術師の人相、服装、道具、出入りの時間帯——どんな些細なことでも」
「あいよ」
「……了解した」
ハンナさんが石段を降りて、霧亭へ戻っていった。小さな背中が夕霧の中に消えるまで見送った。
夜。
一号室に戻って、手帳を膝の上に広げた。
今日の調査記録を書き終えて、ペンが止まった。計画表の最後に、新しい項目を書き加える。
『調査事項:源泉枯渇の真因。二十年前に何があった?
——地脈の急変は人為的操作の可能性。北脈と東脈が同時に急減。
——術師二名の出入り(ハンナさん証言)。黒い石の柱のようなものを運搬。
——ローザさんの発病との時期的一致。
——ノアの二年分の計測データと突き合わせ。
→ 次のステップ:正確な時期の特定、術式の痕跡調査、術師の身元。』
ペンを置いた。掌の中でローザの鍵を握りしめると、真鍮の蔦模様が指に食い込んだ。
「源泉は宿の心臓だ」と言った人が、その心臓が弱っていくのを感じなかったはずがない。
三つの問いが、手帳の上に浮かんだ。
源泉を枯らしたのは誰か。
なぜミストヴァレーを衰退させたのか。
そして——ローザさんの死に、それは関係しているのか。
旅館再建の物語は、もう一つの顔を持ち始めていた。
鍵を胸に当てた。真鍮が、体温でゆっくり温まっていく。
——ローザさん。あなたの宿を蘇らせるだけじゃ足りない。あなたの宿を壊した理由を、必ず突き止めます。
手帳を閉じて、灯りを消した。
窓の外には、星空と霧。相変わらず静かな谷の夜だった。
でも私はもう知っている。この静けさの下に、二十年間隠されてきた秘密が眠っていることを。
王都からミストヴァレーへ向かう街道を、一台の馬車が走っていた。
揺れる車内で、砂色の髪の男が羊皮紙を広げている。辺境総督府の紋章入りの封書。蝋印は今朝割ったばかりだ。
ディートリヒ・ブランドは、書面の文字を二度読み返した。
『ミストヴァレー地区において、営業許可を持たない宿泊施設が違法に運営を開始した旨、報告あり。速やかに現地調査を実施し、必要に応じて営業停止命令を発出せよ』
書面を畳み、外套の内ポケットに仕舞った。窓の外を見る。街道の先に、谷を覆う霧がぼんやりと見え始めていた。
「ミストヴァレー、か」
呟きは馬車の走行音に紛れて消えた。
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