第11話: 元女将の記憶
「あの行商人、泣いてたよ」
ハンナさんが、味噌汁をよそいながら言った。
「宿で泣いたんじゃない。町を出るとき泣いたんだ。"いい町だ"って。——二十年ぶりに聞いたよ、そんな言葉」
霧亭のカウンター席に座ったまま、私は箸を止めた。
ヘルマンさんが旅立ってから三日。ハンナさんの食堂で朝食をとるのが日課になっていた。
「ヘルマンさん、ここに寄ったんですか」
「出立の朝にね。定食を平らげて、お代を置いて、戸口で振り返って——"また来る。仲間を連れてくる"って。目が真っ赤でね」
口コミの種が、もう芽を出し始めている。行商人の言葉は街道を伝って広がる。
「お嬢」
ハンナさんの声が変わった。椀を拭く手が止まり、灰色の目が真っ直ぐに私を射抜いた。
「本気なんだね」
「——はい」
「数年前にも妙な商人が来てね、温泉を掘り当てるとか言って三ヶ月で逃げた。でもあんたは違った。一人で掃除して、一室直して、客を泊めて泣かせた」
ハンナさんが布巾を畳んだ。きっちりと、角を合わせて。
胸の奥が熱くなった。
「いいだろう、聞いてやる。お前さんの計画とやらを」
霧亭の奥の間に通された。四畳半の畳敷き。ハンナさんが茶を淹れ、向かいに座った。左手の薬指に、年代物の銀の指輪が光っている。
私は手帳を広げ、フェーズ1から順に説明した。
「一室の修復は終わりました。次にあと四室と浴場。それが軌道に乗ったら全館修復。最終的には旅館を核にした地域一体型の観光まちづくり」
「でかい話だね」
「でかい話です。でも泉質は王国上位三パーセント。アクセスの悪さは"秘湯"としてブランディング——」
口が滑った。ブランディング。前世のコンサル用語だ。
「……えっと、"秘湯"として売り出せるという意味です。食材はリュカの料理で証明されました」
ハンナさんは言い直しを気にした様子もなく、黙って聞いていた。茶を啜ることもなく。
説明を終えても沈黙が続き、やがてハンナさんが顔を上げた。目が、微かに潤んでいた。
「……お嬢。あたしの話を聞いてくれるかい」
「はい」
「あたしが銀泉楼に入ったのは、十五のときだった」
ハンナさんの声が低く、静かに流れ始めた。
「仲居見習い。掃除と洗い物しかやらせてもらえなかった。朝は客より先に起きて、夜は客が寝てから片付ける。足の裏の皮が三回剥けたよ」
茶碗を両手で包んだまま、ハンナさんは遠い目をした。
「ローザ様——三代目の女将さまだ。あの人が、あたしの人生を変えた」
ローザ。銀泉楼の最後の女将。その名前は、この町に来てから何度か耳にしていた。
「最初に言われた言葉を、今でも覚えてるよ。"ハンナ。宿はお客様の家です。お客様が帰ってきたとき、あたたかい灯がある——それが宿の仕事"」
ハンナさんの声が震えた。一瞬だけ。すぐに抑え込んだ。
「ローザ様の銀泉楼はね、特別だったんだよ。大浴場が三つ、部屋が三十。でも建物じゃない——客が笑ってたんだよ。入ってきた瞬間から帰るときまで」
手帳にペンを走らせたくなる衝動を抑えた。今は、聞く時間だ。
「予約が半年先まで埋まって。ヨハン——リュカ坊の親父さんだ——が厨房で腕を振るって、お風呂は朝から晩まで湯気が立ってね。あたしの人生で一番輝いてた」
「——でもね」
ハンナさんの声が沈んだ。
「街道のルートが変わった。客が減った。源泉が弱くなった。全部同じ頃だよ。まるで——誰かが蛇口を絞ったみたいに」
その比喩に、背筋が冷えた。ノアが源泉の異変について言った言葉と同じだ。
「ローザ様は最後まで諦めなかった。"この泉が枯れない限り、この宿はやれる"って。でも、体のほうが先に参ったんだよ」
ハンナさんの左手が、銀の指輪に触れた。
「病に倒れた。あっという間だった。地脈が弱まると体に来る人がいるって、ノア先生から後になって聞いたけどね。ローザ様は、まさにそうだった」
「最期の日にね」
ハンナさんが私を見た。目の縁が赤い。
「ローザ様が、あたしの手を握って言ったんだ」
間。長い間。
「"いつかこの宿を、心から愛してくれる人が来る。その人に、鍵を渡しておくれ"」
息が止まった。
「それから——」
ハンナさんがエプロンのポケットに手を入れた。ゆっくりと、何か硬いものを取り出す。
古い鍵だった。真鍮製。年月で黒ずんでいるが、蔦の模様が彫り込まれた鍵頭は美しい。ハンナさんの掌の上で、鈍い光を放っている。
「ローザ様がね、言ってたんだよ。待ってろって。いつか来るって」
ハンナさんの声がかすれた。
「十八年待った」
その言葉の重さに、体が震えた。十八年。毎日この鍵をエプロンに入れて、食堂に立って、来ない誰かを待ち続けた。
「……お嬢。お前さんかい。ローザ様が待っていた人は」
鍵が差し出された。
私は両手でそれを受け取った。掌の中で、真鍮がひんやりと冷たかった。すぐに体温で温まっていく。
前世の夢。——三十四年間、「自分の宿を作りたい」と思い続けた。叶えられないまま死んだ。
ローザさんの夢。——「いつかこの宿を愛してくれる人が来る」。十八年間、ハンナさんの掌の中で待ち続けた。
二つの願いが、今、私の手の中で重なった。
「ハンナさん」
声が震えた。堪えきれなかった。
「この宿を——ローザさんの宿を、必ず蘇らせます」
涙がこぼれた。鍵を握りしめて、頭を下げた。
ハンナさんが立ち上がった。小柄な体が、目の前に来た。節くれだった手が、私の頭にそっと触れた。
「泣くんじゃないよ。女将が泣いたら、お客が不安になるだろう」
叱りながら、ハンナさんの手も震えていた。
「この老骨でよければ、手を貸すよ」
顔を上げた。ハンナさんが——十八年ぶりに、笑っていた。
「掃除からだ。角を見なさい、角を。お客様は角を見るんだよ」
二人で霧亭を出た。山際の道を歩くと、銀泉楼の巨大な影が霧の向こうに浮かぶ。
石段の下で、ハンナさんの足が止まった。十八年前に閉じた扉を見上げている。
「……でかいね」
小さく息を吸って、石段に足をかけた。一段目。二段目。背筋はまっすぐだが、足取りはゆっくりだった。
玄関の前。霧撫子が風に揺れている。ハンナさんの目がそこに留まった。
「花を飾ったのかい」
「ノアに教わって」
「ローザ様もいつも飾ってた。季節の花を、ここに」
ハンナさんが敷居を跨いだ。
十八年ぶりに。
足が床板に触れた瞬間、ハンナさんが立ち止まった。目を閉じて、空気を吸い込んでいる。
「……変わってないね。匂いが。木の匂いが」
一号室の前を通り、廊下を奥へ。ハンナさんの手が壁に触れた。柱に触れた。梁を見上げた。
「ガルドの旦那が直したのかい。いい仕事だ。木目が活きてる」
「ガルドさんが設計して、ノアの建築魔法で強化しました」
「あの酔っ払いが……ふん。やればできる男だったんだよ、昔から」
ハンナさんが指で廊下の角を撫でた。指先を確認する。
「埃。——掃除が甘いよ、お嬢。角を見なさいって言っただろう」
「す、すみません」
「明日からあたしがやる。お前さんは経営のほうをおやり」
厳しい声だった。でもその目は、嬉しそうだった。
銀泉楼から霧亭に戻ると、見慣れない客がカウンターにいた。
赤銅色の髪を雑に束ねた大柄な女性。旅装の上にくたびれた前掛け。右腰に革のナイフロール。がっしりした肩幅は、包丁を振り続けた料理人のそれだった。
女性がスプーンを置いた。
「悪くない」
独り言のような声。低く、歯切れがいい。
「だがこの茸、火を入れすぎだ。旨味が半分逃げてる」
カウンターの向こうで、ハンナさんの眉がぴくりと動いた。
「文句があるなら自分で作りな」
「……いいのか?」
女性の深い緑色の目が光った。立ち上がると百七十はある。カウンターを回り込み、厨房に入った。
棚に並んだ食材を一瞥して、干し霧茸に手が伸びた。秋に採れた茸を乾燥させたもので、銀色の傘がぎゅっと縮んでいる。
「この茸。地脈の霧で育ったやつだろ」
手に取り、鼻を近づけた。目を閉じて、深く吸い込む。
「嘘だろ……こんな香り、王都じゃ絶対手に入らない」
呟きながら、もう動いていた。
鍋を火にかける。油を引く。手際が——速い。
強火。油が波打ち、白い煙が上がった瞬間、霧茸を投入した。
じゅう、と爆ぜる音。油が弾け、湯気が天井に向かって噴き上がる。鍋を振る腕が力強い。茸が宙を舞い、鍋に戻る。
十秒。二十秒。
三十秒で火を止めた。皿に盛る。一つの動作に迷いがない。
「火は三十秒。それ以上は食材への冒涜だ」
皿の上の霧茸は別物だった。表面は焼き色がつき、中は瑞々しいまま。深い旨味の香りが湯気と一緒に広がっている。
ハンナさんが箸を取った。一切れ口に入れて、噛んだ。
沈黙。
長い沈黙。
「……あんた、何者だい」
「流しの料理人。この辺りに地脈の食材があると聞いて来た」
ちょうどそのとき、裏口からリュカが入ってきた。ハンナさんに食材を届けに来たらしい。
「ハンナ婆ちゃん、今日の山菜——」
言いかけて、皿を見た。目が釘付けになる。
「すげぇ……茸ってこんな味が出るのか」
リュカが霧茸を一切れつまんで口に入れた。噛んだ瞬間、茶色い目が見開かれた。
「旨味が全然逃げてない。むしろ凝縮されてる——なんでっすか、これ」
女性がリュカを見た。視線が鋭い。リュカの手を見ている。
「小僧、料理人か?」
「……見習いっす」
「手を見せろ」
リュカが戸惑いながら手を差し出した。女性がその手を取り、表と裏をじっくりと見た。
「包丁ダコはある。だが偏ってる。右の親指と人差し指だけ硬い。基礎がなってない」
的確すぎる指摘だった。リュカの顔がわずかに曇る。
「——誰に習った?」
「独学っす。親父が死んで……手帳だけが残って」
「手帳?」
リュカがエプロンの内ポケットから、使い込まれた革表紙の手帳を取り出した。ヨハンのレシピ手帳。
女性がページをめくり始めた。三ページ目で手が止まり、四ページ目で指が震えた。
「この男……天才だ」
声が掠れていた。
「源泉の蒸気で蒸す? こんな発想、見たことがない」
ページをめくる手が加速する。
「霧茸の蒸し方——三十秒蒸して七秒休ませる、これを三回。蒸気の温度と芯温を完全に計算してる……信じられない」
手帳をリュカに返した。その手が、まだ震えていた。
「小僧。お前の親父は——会いたかった。この人の料理を食べてみたかった」
リュカが唇を噛んだ。父を褒められると、いつもこの顔をする。嬉しいのと悲しいのが同時に来て、言葉にならない顔。
女性が私に向き直った。
「あんたか。旅館をやろうとしてるっていうお嬢様」
「銀泉楼を再建しようとしています」
「あたしを雇え」
単刀直入だった。
「え? あの、お金が——」
「金はいい」
女性が一歩、近づいた。
「食材と厨房をよこせ」
緑色の目が燃えていた。食材を前にしたときの、あの獣のような輝き。
「王都の店を辞めて三年。いい食材を探してあちこち回った。あの手帳のレシピは、この土地の食材でなきゃ意味がない。あたしが探してたのは、ここだ」
この人は本物だ。経験が囁いていた。食材への敬意と、自分の腕への確信。両方を持っている料理人は百人に一人もいない。
「あの、お名前を聞いても」
「ユーディット・ランメルト。流しの料理人だ」
ユーディットさんがリュカを見た。
「小僧。お前があたしの下に就くなら、基礎から叩き直してやる。お前の舌は本物だ。あとは技術があれば、あの手帳のレシピを超えるものが作れる」
リュカの目が大きく見開かれた。
「俺を……教えてくれるんすか」
「教えるんじゃない。鍛えるんだ。甘ったれた仕事をしたらぶっ飛ばす」
ハンナさんが腕を組んだ。
「お嬢。この女、腕は確かだよ。あたしの霧茸を三十秒で超えやがった。——悔しいけどね」
ユーディットさんが「大姐さん」とハンナさんに一礼した。その仕草に、年長の料理人への敬意が見えた。
私は手帳を開いた。「人材」の欄に、新しい名前を書き加える。
「ユーディットさん。銀泉楼はまだ一室しか直っていません。厨房も荒れ放題です。お金も満足にお支払いできません」
「聞いてただろ。金はいらない。食材と厨房をよこせ」
「——よろこんで」
手を差し出した。ユーディットさんの手が握り返す。分厚い掌。火傷の跡が当たった。この手が、銀泉楼の厨房を蘇らせる。
日が暮れかけた頃、ハンナさんと二人で銀泉楼の玄関に座った。
ユーディットさんはリュカを連れて裏山に消えた。「この辺りの食材を見せろ」と言って。リュカが嬉しそうについていった。ノアは地下で源泉の調査を続けている。
「にぎやかになったね」
ハンナさんが呟いた。
「ローザ様が見たら笑うだろうね。こんな小さな一歩でも——あの人はいつも言ってた。"灯は一つあれば十分。一つの灯が、次の灯を呼ぶのよ"って」
掌の中のローザの鍵を見つめた。真鍮の蔦模様が、夕日に照らされて赤く光っている。
「ハンナさん。明日から、よろしくお願いします」
「掃除は容赦しないよ。角を見なさい、角を。ローザ様の基準を教えてやる」
二人で笑った。夕日が霧の谷を赤く染めていく。
ハンナさんが立ち上がりかけて、ふと足を止めた。
「でもね、お嬢。一つだけ気になることがある」
「何ですか?」
ハンナさんの目が、玄関の奥——地下への階段を見た。
「ローザ様が倒れる前、地下に……」
その先は、夕風にかき消された。ハンナさんは首を振って「また今度」と言い、石段を降りていった。
一人残された玄関先で、私は手帳を開いた。
今日の記録の最後に、こう書いた。
『仲間が増えた。ハンナさん——銀泉楼の記憶を持つ人。ユーディットさん——最高の料理人。
ローザさんの鍵を預かった。この鍵が開けるのは、扉じゃない。銀泉楼の未来だ。
——ハンナさんが言いかけたこと。地下のこと。明日、必ず聞く。
ノアの源泉調査と合わせて確認。何かが、繋がりそうな気がする。』
手帳を閉じて、鍵を胸に当てた。真鍮の冷たさが、体温でゆっくり温まっていく。
——ローザさん。あなたの宿を、預かります。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第十一話は「託す人」と「受け取る人」の物語でした。ハンナさんが十八年間ポケットに入れ続けたローザの鍵——あの重さは、数字では測れません。セラにとっての銀泉楼は「前世の夢を叶える場所」でしたが、ローザの鍵を受け取ったことで「誰かの想いを引き継ぐ場所」に変わりました。夢と使命が重なったとき、人は強くなれる。そう信じて書いた回です。
そしてユーディット登場。「火は三十秒。それ以上は食材への冒涜だ」——この人が銀泉楼の厨房に立ったら何が起きるのか、書いている私もわくわくしています。リュカとの師弟関係がどう育っていくか、お楽しみに。
ハンナさんが最後に言いかけた「地下」の話。ローザさんが倒れる前に何があったのか——この謎は次回、いよいよ動き出します。
ブックマーク・評価いただけると励みになります。次回「自然じゃない」でお会いしましょう。




