第10話: 口コミの種
朝の光が、瞼の裏を橙色に染めた。
硬い床板に横になったまま、しばらく天井を見つめていた。体中が重い。昨夜は興奮で眠りが浅かった。手帳を閉じたのがいつだったか——多分、深夜を回ってからだ。
でも、頭は冴えている。
体を起こした。窓の外に目をやると、昨日までの雨が嘘のように空が白んでいた。東の稜線が薄い金色を帯びている。今日は——晴れる。
時計代わりの砂時計を確認して、まだ早朝だと知った。ヘルマンさんが起きる前に、やることがある。
厨房に向かった。
昨夜のうちに、ノアが採ってきた銀泉草の追加分が棚に置いてあった。リュカが仕分けして保存用と調理用に分けたらしい。束に添えられた走り書きの紙には、こう書いてある。
『朝の粥用っす。葉は三枚。ちぎって最後に入れる。煮すぎ注意!!』
感嘆符が二つもついている。よほど煮すぎを心配されたのだろう。昨日の失敗を考えれば、否定できない。
地脈米を量った。昨夜リュカに教わった通り、一合の米に対して水を七倍。粥は水の量が命だと、あの少年は父の手帳を引きながら教えてくれた。
鍋に米と水を入れて、火にかける。
最初は強火。沸騰したら弱火に落として、蓋をずらす。ここまでは昨夜の復習通りだ。問題は、ここからの火加減。おこげ事件を繰り返すわけにはいかない。
鍋の前に張り付いた。
ぐつぐつと白い泡が上がる。木杓子でゆっくりとかき混ぜた。底が焦げないように。でも混ぜすぎると粘りが出すぎる——リュカの言葉を反芻しながら、手の力を加減する。
二十分。鍋の中の米が水を吸って膨らみ、とろりとした白い液体に変わっていく。蓋の隙間から湯気が立ち上り、米の甘い匂いが厨房に広がった。
味見をした。
……うん。素朴だけれど、米そのものの甘みがちゃんと出ている。昨日の失敗スープとは別物だ。二百軒の旅館で朝食を食べてきた経験を総動員して言うなら、これは「及第点」。自分で自分を褒めたい。
仕上げに銀泉草の葉を三枚、手でちぎって散らした。銀色がかった緑の葉が白い粥の上に落ちた瞬間、ふわりと清涼感のある香りが立った。昨夜のスープで感じたのと同じ、源泉のほとりにいるような匂い。
器に盛って、膳を整えた。粥のほかに、ノアが漬けておいてくれた根菜の浅漬けを小皿に添える。質素な朝食だが、温かさだけは負けない。
一号室の襖の前に立った。膳を持つ手が、かすかに震えている。
昨夜は、リュカの料理をお客様に出した。あれはリュカの手柄だ。でも今朝の粥は——私が作った。リュカに教わって、自分の手で。
深呼吸を一つ。
「おはようございます、ヘルマンさん。朝食をお持ちしました」
襖を開けた。
ヘルマンさんは既に起きていた。窓辺に立って、外を見ている。背中越しに、朝の光が差し込んでいた。
振り返った顔は、昨夜とは全く違っていた。血色が良く、目に力がある。一晩の休息と温泉が、行商人の疲れを洗い流したのだろう。
だが、ヘルマンさんの視線はすぐに私ではなく窓の外に戻った。
「嬢ちゃん。ちょっと来てみなさい」
膳を置いて、窓辺に並んだ。
息を呑んだ。
雨上がりの朝霧が谷を覆い、その上から朝日が射している。霧の表面が金色に燃えていた。棚田の水面が一枚一枚鏡のように光を返し、銀霧川が朝日を受けて白く輝いている。谷全体が——金色と白に染まっていた。
「こりゃあ、すごい」
ヘルマンさんが呟いた。
「二十年、街道を歩いてきた。色んな景色を見てきたが——これは、ちょっと見たことがない」
私も初めてだった。この谷に来て八日目。毎朝起きていたはずなのに、こんな朝焼けは一度もなかった。昨日の雨が空気中の塵を洗い流して、光が純粋になっているのだろう。
前世の知識が囁く。——雨上がりの朝は、旅館にとって最高の演出だ。自然が勝手に「また来たい」と思わせてくれる。
「この景色を見せられるだけで、宿としての価値がありますよ」
ヘルマンさんが振り返って、膳に目をやった。
「これは?」
「銀泉草のお粥です。昨夜の料理を作った少年に教わって、今朝は私が作りました」
「ほう。嬢ちゃんが作ったのか」
椀を手に取り、一口。
静かに、噛みしめるように含んだ。二口目。三口目。そのたびに、肩の力が少しずつ抜けていくのが見えた。
「……うまいなぁ」
大きな感嘆ではなかった。しみじみと、体の奥から漏れ出たような声だった。
「米の甘みがしっかり出ている。そこに、この草の……なんというか、すうっとする香りが重なって、朝の体に染み込んでくる」
「銀泉草です。源泉の近くに自生する薬草で、食べると体が温まります」
「ああ、確かに。指先までじんわりと……」
ヘルマンさんは粥を食べ終え、浅漬けをつまみ、最後に白湯を飲み干した。膳の上には何一つ残っていなかった。
「ごちそうさま。——昨夜の夕飯も素晴らしかったが、朝もいい」
その言葉に、胸の奥がきゅっと熱くなった。
ヘルマンさんが身支度を整えている間に、玄関の掃き掃除をした。石段の落ち葉を掃き、苔の間に溜まった水を拭く。昨日の雨でぬかるんだ場所に板を渡して、歩きやすくした。
チェックアウトの瞬間は、宿の最後の印象を決める——前世の知識が、体を勝手に動かしていた。
荷物をまとめたヘルマンさんが、石段を降りてきた。
「世話になった、嬢ちゃん」
大きな手が差し出された。握手を交わす。分厚い掌。二十年の行商で鍛えられた手だ。
「お代は——開業前ですので、お気持ちだけで結構です」
「いや、それはいかん」
ヘルマンさんが首を横に振った。荷物の中から革の袋を取り出し、中身を数え始めた。
「雨に濡れて凍えていたところに、温かい部屋と風呂と飯。こんないい宿に泊まって、タダで帰る行商人はいない。——商人の矜持に関わる」
革袋から、銀貨を数えて並べた。
一枚、二枚、三枚。十枚。二十枚。
三十枚。
「中級の旅館でも、これくらいは取るだろう。正直、昨夜の飯を考えたら安いくらいだ」
銀貨三十枚。中級旅館一泊分の相場だ。
「ヘルマンさん、これは……」
「謝礼だ。宿泊料じゃない。雨宿りと、あの飯と、あの景色への謝礼。——受け取ってくれ」
謝礼。その言葉の選び方に、商人の配慮を感じた。開業前の宿から「宿泊料」を取ったと言えば、こちらが困ることを察してくれたのだろう。
「……ありがたく、頂戴します」
両手で銀貨を受け取った。ずっしりと重い。銀の冷たさが掌に染みた。
手帳に走り書きした。『会計区分: 臨時受入・謝礼金。宿泊料とは別枠で処理。町長への報告書を作成すること。』
ヘルマンさんが荷物を担ぎ直した。それから、ふと足を止めて振り返った。
「次はいつ泊まれる?」
「え?」
「正式に開業したら、また来たい。今度はゆっくり湯に浸かりたい。できれば商人仲間も連れてくる。——あの料理を食わせてやりたいんだ」
心臓が跳ねた。口コミ。行商人のネットワークは広い。街道沿いの町で「あの谷にいい宿がある」と一言漏らすだけで、情報は商人から商人へ、宿場から宿場へ広がっていく。
「ぜひ。次はもっと良いおもてなしができるよう、準備しておきます」
「楽しみにしてるぞ」
ヘルマンさんは手を振って、石段を降りていった。朝日を背にした大きな背中が、霧の中に消えていく。
最後に振り返って叫んだ。
「嬢ちゃん! 看板を出せよ! こんないい宿、もったいないぞ!」
声が谷にこだまして、消えた。
ヘルマンさんの姿が完全に見えなくなってから、石段に座り込んだ。
掌の上の銀貨を見つめた。三十枚。銀の表面が朝日を反射して光っている。
——私の宿に、お客様が泊まった。
昨夜、手帳に書いたあの一行が、胸の中で反響していた。
知っている。何百回と見てきた。旅館にお客様が泊まり、満足して帰っていく。「いい宿だった」と笑顔で去る背中。それを見送る女将の顔。
いつも、それを横から見ていた。コンサルタントとして。「顧客満足度が向上しましたね」と数字に変換して。改善提案書にまとめて。次のクライアントへ移って。
女将が泣くのを見た。板前が笑うのを見た。仲居が頭を下げるのを見た。あの涙の意味を、わかっていたつもりだった。
わかっていなかった。
「……こういうことだったのね」
今、やっとわかった。
自分の宿で——自分が迎えて、自分が粥を炊いて、自分が掃除した玄関から送り出して——お客様が「いい宿だ」と言ってくれた。
銀貨三十枚。それは金額の問題じゃない。誰かが、この場所に価値を認めてくれた。廃墟に夢を見た私は間違っていなかったと——数字が、証明してくれた。
目頭が熱くなった。
手帳を胸に押し当てて、唇を噛んだ。三十四年分の「見ているだけ」が、全部胸の中で燃えるように。肩が震えて、鼻の奥が熱くて、銀貨を握る手が白くなるほど力が入った。
自分の宿。自分の手で。ようやく——ようやく。
どれくらい泣いていたのだろう。
涙が引いて、鼻をすすって顔を上げたとき、足音が聞こえた。
ノアだった。研究室から出てきたところらしい。いつもの外套に手帳を挟んで、地下の調査に向かう途中だろう。石段の上から、座り込んでいる私を見下ろしている。
目が合った。
私の赤い目も、涙の跡も、掌の銀貨も——全部見えているはずだ。ノアの深い緑色の目が、一瞬だけ揺れた。
何か言いかけて、口を閉じた。それから視線を逸らして、玄関の横を見た。
「……入口の花を変えろ」
「え?」
「季節の花を飾ると、客が入りやすくなる」
唐突すぎて、涙が引っ込んだ。
「花?」
「客が最初に目にするのは入口だ。苔と落ち葉だけでは印象が暗い。季節の花を飾れば、建物の印象が変わる」
ノアは私を見ないまま、早口で続けた。
「銀泉楼の庭に自生している花がある。今の時期なら霧撫子が咲いているはずだ。薄紫の小さな花で、香りがいい。客間に飾るにも適している」
「ノア……」
「研究で読んだ。地脈の強い場所に咲く花は、人の心理に鎮静作用を与えるという論文がある。装飾としての効果だけでなく、科学的な根拠が——」
「あなた、宿のことちょっと考えてくれてる?」
彼がようやくこちらを見た。耳の先が、赤い。
「……地脈調査の参考文献に書いてあっただけだ」
目を逸らして、地下への階段に向かう。背中が石段の下に消える直前、小さな声が聞こえた。
「粥の匂いがした。悪くなかった」
聞き返す前に、足音は地下に消えていた。
泣き笑いの顔で、空を見上げた。朝の光が眩しかった。
霧撫子は、すぐに見つかった。
銀泉楼の裏庭——二十年間放置されて雑草に覆われた庭の片隅に、薄紫の小さな花が群生していた。朝露を纏った花弁が、朝日の中で宝石のように光っている。
ノアの言った通り、香りがいい。甘すぎず、青すぎず、初夏の朝にぴったりの清涼感がある。
茎を数本折って、厨房にあった欠けた壺に生けた。玄関の横、来客が最初に目にする場所に置いた。
一歩下がって、眺めた。苔むした石段。修復した玄関の板壁。その横に、薄紫の花。
小さな変化だ。でも、空気が変わる。「ここには人がいる」と、花が語りかけている。
「——悪くない」
ノアの口癖がうつったらしい。思わず笑った。
午後。石段に腰かけて、手帳に数字を並べた。
銀泉楼の再建に必要な資金。修復の進捗。食材の在庫。そして、たった今手に入った銀貨三十枚。
投資回収の計算をした。ノアの試算では、全館修復に金貨三百枚。銀貨に換算すれば三万枚。今日の売上が三十枚。
「……千泊」
思わず声が出た。一日一組でも三年近くかかる。
「気が遠くなるわね……」
でも、ゼロじゃない。
昨日まではゼロだった。計算のしようもなかった。今は三十枚ある。三十枚から逆算すれば、投資回収までの道筋が描ける。道筋が描けるということは、計画が立てられるということだ。
手帳の新しいページに「収支計画(初月)」と書いた。宿泊単価。食材原価。修復の追加コスト。人件費——まだゼロだけれど、いずれリュカやガルドに正当な報酬を払いたい。
「段階的に。まずは五室で月十五泊を目標に……」
ペンが走り、手帳のページが埋まっていく。
そのとき、ふっと記憶が蘇った。
コンサルタント時代。最初の成功案件で嬉しくて、夜通し改善計画を書き続けた。翌日も、翌々日も。眠らずに走り続けて——三ヶ月後に倒れた。
掌を見た。マメと筋肉痛。この体は二十歳で、前世より若い。でも、限界がないわけじゃない。
手帳に、もう一つ項目を加えた。
『休息計画: 週に一日、作業を軽くする日を設ける。
走りすぎたら倒れる。倒れたら全部が止まる。
続けるために、休む。』
夕方、厨房で翌日の仕込みを考えていると、リュカがやってきた。
「セラさん! 今朝のヘルマンさん、どうだったっすか!」
「喜んで帰っていったわ。粥も褒めてもらえた」
「マジっすか! セラさんが作ったやつっすよね? 焦がしてないっすよね?」
「焦がしてないわよ……! あなたの教え方が良かったのよ」
リュカが拳を突き上げた。大きすぎるエプロンの裾が翻る。
「よっしゃ! 親父のレシピ、ちゃんと伝わったっす!」
その笑顔を見ていると、胸が温かくなる。
「リュカ。今度は朝食の献立をもう少し広げたいの。粥以外に、温泉卵や汁物も出せるようにしたい。一緒に考えてくれる?」
「もちろんっす! 親父の手帳に朝飯のレシピもあるはずっす。えーと——」
リュカがレシピ手帳をめくり始めた。料理の話になると、この少年の茶色い目が別人のように輝く。
「あった! "朝の膳"って章があるっす。『銀泉草の粥、源泉温泉卵、谷菜の浅漬け、霧蜜の湯——これを基本とし、季節で椀物を替える』って」
「完璧な朝食構成ね……」
手帳に書き写した。朝食のメニュー構成。食材の調達計画。銀泉楼の食の骨格が、また一歩具体的になっていく。
夜。一人になった廊下で、手帳を開いた。
今日一日の記録を書き終えて、ページの最後に視線が落ちた。昨夜書いた一行がそこにある。
『私の宿に、お客様が泊まった。』
その下に、今日の一行を書き足した。
『そのお客様が、笑顔で帰っていった。
銀貨30枚。投資回収まであと何泊必要か——気が遠くなるけど、0じゃなくなった。
次のお客様は、いつ来るだろう。
来るかどうかもわからない。でも、その日のために準備はできる。
入口に花を飾った。ノアに教わった霧撫子。
明日は、二号室の掃除を始めよう。』
ペンを置きかけて、もう一行だけ書き足した。
『気になること——ノアが地下から戻ったとき、いつもより口数が少なかった。源泉のこと、明日聞いてみる。』
手帳を閉じた。
窓の外は星空だった。雨上がりの夜は空気が澄んでいて、星が近い。谷を覆う霧が月明かりで白く光っている。
玄関の横に飾った霧撫子が、夜風に揺れているのが見えた。薄紫の花弁が月光に透けて、銀色に見える。
口コミの種は蒔かれた。芽が出るかはわからない。でも——私にできるのは、次のお客様が来たときに今日より良いおもてなしをすること。それだけだ。
明日も、早起きしよう。粥を炊こう。花を替えよう。二号室を掃除しよう。
床板に横になって、目を閉じた。
体は疲れている。でも、心は——温かい。
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