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追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります  作者: 歩人


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第9話: 最初のお客様

 雨の日の夕方に、その人はやってきた。


 七日目。一号室の修復は完了し、隣の廊下の雨漏り補修も順調だった。ガルドは昼過ぎに帰り、ノアは地下の源泉調査に潜っている。私は一号室の窓辺で手帳を広げ、本格浴場の設計案を練っていた。


 源泉から細い管を引いて、一号室の隣に小さな浴槽を据える。湯量は微かだが、一人分の浴槽なら溜まる。温度はぬるめでも、疲れた体には十分だ。


 ——コンコン。


 最初は雨の音かと思った。けれど二度目のノックは、明確に玄関の扉を叩く音だった。


 石段を駆け下りて玄関を開けた。


 ずぶ濡れの男が立っていた。四十代くらいの、恰幅のいい中年男性。背中には大きな荷物を背負い、泥だらけのブーツが石畳を汚している。雨に打たれた顔は青白く、疲労の色が濃い。


「こ、こんなところに宿が……? 一晩泊めてもらえないだろうか。どこでもいい、屋根の下なら」


 その瞬間、体の奥で何かが切り替わった。


 背筋が伸びる。口角が上がる。声の温度が変わる。二百軒の旅館で、何千人ものお客様の到着を見てきた——あの感覚が、血液のように全身を巡った。


「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」


 言葉が先に出た。考えるより先に。


 男が目を丸くした。当然だ。この廃墟同然の建物で、こんな出迎えを期待した人間はいないだろう。


「あ、あの……ここは、宿なのか?」


「はい。銀泉楼と申します。まだ開業前ですが——この雨ですもの、お休みいただくことはできます」


 玄関の脇に置いてあった手拭いを取り、差し出す。


「まずはお顔を拭いてください。お名前をお聞きしても?」


「ヘ、ヘルマンだ。行商をしている。街道の分岐で道を間違えて、この谷に迷い込んだんだが……」


「ヘルマンさん。お疲れのところ、ようこそ。どうぞ中へ」


 荷物を預かり、一号室へ案内した。修復した壁はきれいに白く、窓から差す光は雨で淡いが、暗さは感じない。


 一号室の襖を開けた。


「おお……」


 ヘルマンさんが息を呑んだ。


 飴色の床板。白い壁。まっすぐな梁。仮設の小さな浴槽には、源泉から引いた微かな湯が溜まっている。白く濁った湯から、微かに硫黄の香りが漂っていた。


 そして窓の外——雨に煙る谷の景色。霧が棚田の上を流れ、銀霧川の水面が雨粒で揺れている。


「こりゃ……きれいだ。こんな宿があったのか」


「ありがとうございます。お着替えがございませんが、乾いた布ならお渡しできます。お湯で体を温めてください」


 手帳に走り書きする。『臨時受入——ヘルマン氏、行商人、一名。宿泊料は未設定のため謝礼扱いで処理。後日町長に記録共有。』


 さて。問題はここからだ。


 お客様が来た。部屋はある。お風呂もある。だが——食事は?




 私は厨房に向かった。かつてヨハン料理長が腕を振るっていた広い厨房。棚にはガルドが持ってきてくれた食材がある。地脈米が少し。根菜が数種類。ノアが源泉の近くで採ってきた銀泉草ぎんせんそうの束。


 よし、何か作ろう。料理のプロセスは理解している。理論は完璧だ。


 鍋に水を入れて火にかけた。根菜を切る——が、包丁が思うように動かない。芋の皮を剥いたら半分なくなった。鍋が沸いて、根菜を入れ、銀泉草を全部入れてしまった。味見をする。


 薄い。根菜の甘みはあるが、深みがない。ただのお湯に野菜が浮いているだけだ。


 焦った。お客様が待っている。だが指先は不器用に食材を壊し、火加減は見当がつかず、盛り付けの美意識だけが空回りしている。


 リュカの顔が浮かんだ。


 雨の中を走った。町の外れの廃屋——リュカがいつも一人で料理の練習をしている場所へ。


「リュカ!」


 廃屋の軒先に駆け込むと、リュカは火の前にいた。小さな鍋を覗き込んでいる。大きすぎるエプロンが雨に濡れて重そうだった。


「セラさん? どうしたんすか、こんな雨の中——」


「お願い、手を貸して! お客様が来たの。銀泉楼に。食事を出したいのに、私じゃ——」


「客? 銀泉楼に客が来たんすか!?」


 リュカの茶色い目が大きく見開かれた。父のエプロンの裾を握りしめて、一瞬だけ固まる。


 それから、火を消した。鍋をどかした。棚から何かを取り出す——ヨハンのレシピ手帳だ。使い込まれた革表紙。ページの端が丸くなっている。


「……行くっす」


 声が震えていた。でも、足は動いていた。




 銀泉楼の厨房に戻ると、リュカは私が用意した食材を一目見て、すぐに動き始めた。


「セラさん、これ全部使っていいすか」


「もちろん。足りないものがあれば言って」


谷鱒たにますがほしいっす。三枚おろしにできるやつ。……あと、炭」


 ノアが地下から戻ってきたのは、ちょうどそのときだった。私がリュカを連れてきた経緯を手短に説明すると、ノアは一瞬だけ眉を上げ、それから黙って外に出た。十分ほどで、銀霧川で釣った谷鱒を二尾と、倉庫にあった炭を抱えて戻ってきた。


「……これでいいか」


「ノアさん、すげぇ。この鱒、型がいい」


 リュカの目が変わった。栗色の髪に寝癖がついたままの十六歳が、父のエプロンを締め直してレシピ手帳を開いた。


「三品、作るっす」


 手帳のページをめくる指が、迷いなく止まった。


「銀泉草のスープ。谷鱒の炭火焼き。地脈米のご飯。——親父の手帳に全部ある」


 私は頷いた。そして、厨房の隅に下がった。ここから先は、リュカの仕事だ。




 最初に、スープの仕込みが始まった。


 リュカが谷鱒を三枚におろす。包丁の動きは荒削りだが、骨に沿って身を外す手つきには確かな勘がある。身は炭火焼き用に取り分け、アラ——頭と骨と尾——を鍋に入れた。


「親父は"出汁は魚と会話しろ"って言ってたっす」


 水を張った鍋を弱火にかける。リュカの目が鍋の中に据えられた。白い泡が鍋肌を這い上がり、水面がかすかに揺れる。


「泡が立つ前に火を弱める——ここっす」


 火を絞った。灰汁あくが浮く。丁寧にすくい取る。スプーンの動きは不器用だが、タイミングだけは正確だった。味覚と嗅覚で、鍋の中の変化を読んでいる。


 十分。二十分。弱火のまま、アラからゆっくりと旨味が染み出していく。厨房に魚の出汁の香りが漂い始めた。湿った空気の中に、じんわりと温かい匂いが広がっていく。


 リュカが根菜を切る。私が切ったものよりずっと薄く、均一に。


「私が切ったのと全然違うわね……」


「セラさんのは煮物向きっす。スープは薄く切らないと出汁に馴染まないっす」


 根菜を鍋に加え、さらに煮込む。琥珀色の液体が、とろりと深みを帯びていく。


 最後に、銀泉草。リュカは手帳を見ながら、銀色の葉を一枚ずつ丁寧にちぎった。


「仕上げに散らすだけっす。火を通しすぎると香りが飛ぶって、親父が」


 ちぎった銀泉草を鍋に散らした瞬間——清涼感のある香りが、ふわりと厨房を満たした。魚の旨味の奥に、すうっと抜けるような爽やかさ。思わず目を閉じた。雨の日の厨房が、一瞬だけ源泉のほとりにいるような香りに包まれた。




 炭火焼きの準備に移った。


 ノアが起こしてくれた炭火の前に、リュカが陣取る。三枚におろした谷鱒の身を串に刺し、遠火の位置に据えた。


「近火は皮だけ焦がすっす。遠火でじりじり、脂を引き出す」


 パチ、と炭が爆ぜた。脂が滴り落ちて、炭の上で白い煙を上げた。その煙が魚の身にまとわりつき、燻したような香ばしさを纏わせていく。


 皮がパチパチと音を立てた。透明だった脂が黄金色に変わり、表面にじわりと焼き色がつく。身がふっくらと膨らんで、串の上で微かに震えた。火の上で、この魚はまだ息をしているような気配を放っている。


「リュカ、火加減をどうやって見分けるの?」


「煙の色っす。白い煙は水分、青い煙が脂。青くなったら焼き上がりが近い」


「ここで銀泉草の塩を振るっす」


 リュカが小さな壺を取り出した。乾燥させた銀泉草を塩と一緒にり合わせたもの。手帳に「魚の焼き上がり三分前」と記されたタイミングで振る。


 ぱらり。塩が脂に触れた瞬間、じゅっと音がして、銀泉草の香りが立ち上った。炭の煙と銀泉草の清涼感が混ざり合って、厨房全体が深い香りに包まれた。


「……いい匂いだ」


 ノアが呟いた。いつの間にか厨房の入口に立って、腕を組んで焼き上がりを見つめている。




 ご飯を炊いたのは、私だ。


 リュカに教わりながら地脈米を研ぎ、水加減を合わせて火にかけた。だが途中で別の作業に気を取られ、気づいたときには——焦げ臭い匂いが鍋の蓋から漏れていた。


「あっ!」


 慌てて蓋を取ると、鍋底に見事なおこげができていた。茶色く色づいた米が、香ばしい匂いを放っている。


「だめ……焦がしちゃった……」


「セラさん! これ——」


 リュカがしゃもじでおこげをひとすくい、口に入れた。目を丸くする。


「最高っす! おこげ、めちゃくちゃうまいっす! パリパリで、米の甘みが凝縮されてる!」


「……え?」


「地脈米はもともと甘みが強いから、おこげにするとさらに旨くなるんすよ! 親父の手帳にも"焦げ飯は旨し"って書いてある!」


 手帳の片隅に、確かにその走り書きがあった。『焦げ飯は旨し。されど客前にて告白すべからず』——最後の一行に、私は思わず笑った。


「怪我の功名ね」


「結果オーライっす! ていうか、おこげ、メニューに入れません?」


「……今のは事故よ。再現性がないわ」


「俺、火加減覚えるっすよ!」




 三品が揃った。


 リュカの手が止まった。手帳を閉じ、エプロンの裾を握りしめている。


「……これを、お客さんに出すんすよね」


「そうよ」


「俺の料理を。人に。初めて」


 声が小さくなっていた。十六歳の少年の顔に、緊張と不安が滲んでいる。廃屋の裏で一人で作り続けた料理。何度も味見して首を振った日々。父の味に届かないと悔しがった夜。


 その全部を抱えた手で、今、人に差し出す一皿を作った。


「リュカ。たくさんの厨房を見てきた私が保証する。あなたの料理は、お客様に出せる味よ」


 リュカが唇を引き結んだ。それから、大きく頷いた。




 一号室に料理を運んだ。


 浴槽で体を温めたヘルマンさんが、乾いた布で体を拭いて座っている。頬に血色が戻り、先ほどの疲れ切った顔とは別人だった。


「おお、これは……」


 膳を並べた。


 銀泉草のスープ——琥珀色の出汁の中に、銀色の葉が浮いている。湯気が立ち上り、清涼感のある香りが部屋に広がる。


 谷鱒の炭火焼き——皮がぱりっと張った焼き色の美しい身。銀泉草の塩が微かに光っている。


 地脈米のご飯——白い米の横に、こんがりとした黄金色のおこげ。


「どうぞ、温かいうちに」


 ヘルマンさんがスプーンを取った。スープを一口。


 ——動きが止まった。


 スプーンを持つ手が、空中で静止している。目が大きく見開かれた。


「これは……なんだ、この味」


 もう一口。今度はゆっくりと、味わうように含んだ。


「魚の出汁が……何層にも重なっている。旨味の奥に、すうっと抜ける香りがある。都会の料亭でも食べたことがない」


「銀泉草というこの谷の薬草です。源泉の近くにだけ生えるもので——」


「薬草! 道理で体が温まるわけだ。飲むほどに指先まで血が通っていく」


 谷鱒に箸をつけた。皮を噛んだ瞬間、パリッと小気味よい音がした。


 目を閉じた。ゆっくりと噛み、飲み込み、もう一口。今度は皮ごと頬張る。言葉の代わりに、箸が加速していた。


「——この塩。普通の塩じゃないな?」


「銀泉草の塩です。料理を作った少年が、お父様のレシピ通りに」


 ヘルマンさんがおこげをひとつまみ口に入れた。ぱりぱりと噛む音がして、甘い香りが立つ。


 噛みしめるたびに、頬の力が抜けていく。目を細めて、窓の外の雨をぼんやりと見ている。何かを——遠い日の食卓を、思い出しているような顔だった。


 ヘルマンさんはそれから一言も喋らなかった。黙々と食べた。スープを飲み干し、谷鱒を骨まで綺麗にし、ご飯の最後の一粒まで残さなかった。箸を置いて、大きく息を吐いた。


「何年ぶりだろう。こんな食事は」


 その目が、潤んでいた。


「行商を二十年やっている。街道の安宿で硬いパンを齧るのが日常だ。旅の食事なんて、そんなものだと思っていた」


 ヘルマンさんが窓の外を見た。雨に煙る谷。霧が棚田を這い、銀霧川のせせらぎが微かに聞こえる。


「腹が温まって、体が温まって、景色が綺麗で——いい宿だ」


 厨房の入口で、リュカが立ち尽くしていた。


 泣きそうな顔で、笑っていた。


 父のレシピ手帳を握りしめたまま、大きすぎるエプロンの裾を拳でぐしゃぐしゃに掴んでいる。


 私はリュカの肩にそっと手を置いた。何も言わなかった。言葉は要らなかった。




 夜が更けた。


 ヘルマンさんが眠りについた後、私は一号室の布団を整えた。


 ——下手だった。角がどうしても合わない。シーツが斜めになる。枕の位置が定まらない。


 ノアが廊下を通りかかった。私の格闘を一瞥し、何も言わずに部屋に入ってきた。


「角が合っていない」


「わかってるわよ……」


 ノアが布団の端を摘んで、すっと引いた。一動作で角が揃う。


「論文を製本するときに覚えた。紙も布も、角を合わせる原理は同じだ」


「……それ、布団に応用する人、あなたくらいよ」


 ノアは答えずに廊下に消えた。




 全ての片付けを終えて、厨房に戻った。


 リュカはまだいた。鍋を洗い、炭の始末をし、包丁を丁寧に拭いている。その手つきが、ガルドが道具箱の手入れをする手つきに似ていると思った。道具への敬意。仕事への敬意。


「リュカ。今日は本当にありがとう」


「……俺のほうっす」


 リュカが包丁を布で包みながら言った。


「親父が死んでから、ずっと一人で作ってた。誰にも食べてもらえなかった。味が合ってるのかもわかんなかった」


 手帳を胸に抱いた。


「でも今日、あのおじさんが"うまい"って言ってくれた。俺の料理を。親父のレシピで、俺が作った料理を」


 声が震えた。十六歳の少年が、父のエプロンをぎゅっと握って泣くのを堪えている。


「……まだ全然、親父の味には届いてないっす。でも——」


「でも?」


「——届くかもしれないって、初めて思えたっす」


 私は微笑んだ。この少年の味覚と、この手帳のレシピと、この谷の食材があれば。


「届くわ。絶対に」


 リュカが帰った後、ノアが厨房に来た。何も言わず、棚の上に乾いた薬草の束を置いた。


「銀泉草の追加だ。源泉の近くで採った。明日の朝食に使え」


「……ノア。あなた、朝食のことまで考えてくれてるの?」


「坊主が朝も作るだろう。足りないと困る」


 目を逸らして、研究室に消えていった。


 一人になった厨房で、手帳を開いた。


 『七日目・夕方——銀泉楼、最初のお客様。

  ヘルマン氏。行商人。道に迷って来訪。

  料理: リュカの手で三品(スープ、焼き魚、ご飯)。

  入浴: 仮設浴槽。ぬるめだが好評。

  布団: 私が敷いた(ノア修正)。

  正式開業前のため宿泊料なし。臨時受入として台帳に記載。

  ——明日の朝食はリュカに相談。銀泉草の粥が作れるかもしれない。』


 最後に一行、書き足した。


 『私の宿に、お客様が泊まった。』


 ペンが止まった。その一行を、もう一度読んだ。


 泣きはしなかった。涙は出なかった。その代わり、胸の奥がじんわりと熱くなった。温泉に浸かったときのような、ゆっくりと体の芯まで届く熱。


 どの旅館にも「最初のお客様」がいたはずだ。全ての始まりとなった夜が。


 今夜がそれだ。私にとっての。


 手帳を閉じて、窓の外を見た。雨はまだ降っている。けれど雲の向こうに、うっすらと月の気配がある。明日は——晴れるかもしれない。


 この谷の朝焼けを、ヘルマンさんに見せたい。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 第九話は、銀泉楼にとって記念すべき「最初の一食」の物語でした。道に迷ったずぶ濡れの行商人に、温かい料理と湯を出す。旅館としてはごく当たり前のことですが、セラにとっては前世から追いかけてきた夢の具体化であり、リュカにとっては父の味を継ぐ第一歩です。


 書いていて一番楽しかったのは、やはり料理シーンです。リュカの「出汁は魚と会話しろ」という台詞は、父ヨハンから受け継いだ料理哲学。十六歳の少年が父のレシピ手帳を頼りに、初めて「知らない人のために」料理を作る。その緊張と誇りが伝わっていれば嬉しいです。


 ちなみにセラのおこげは完全な失敗だったのですが、地脈米の甘みが焦げによって凝縮されるという偶然の産物でした。コンサルタントは分析のプロでも、現場では素人というセラの愛すべき弱点が出た場面でもあります。次回は翌朝、ヘルマンさんの出発と「口コミの種」が蒔かれる朝をお届けします。


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