彼女の不安
オウトウを腹一杯食べたウィルには、宿屋で用意された晩飯に手をつける余力は残されていなかった。口に合わなかったかと申し訳なさそうに尋ねる宿屋の主人に平謝りしウィルは部屋へと戻った。
「ふい〜、さすがに食べ過ぎたぜ……」
ベッドにうつ伏せに倒れこみ呟くウィルにリリィは更に呆れた。
「食べ過ぎなんて可愛いもんじゃないわよ。確かに美味しかったけどね。オウトウ」
「だろ? あの色艶と香りで美味くない訳ないと思ったんだよね!」
子供らしくはしゃぐウィルにリリィは冷ややかに苦言を呈した。
「それより本来の目的が全然果たせてないわよ。『彼奴の正体を掴む』なんて言って、結局餌付けされただけじゃないの」
ウィルはぐっと言葉に詰まったが、しどろもどろに言い訳し始めた。
「ま、まあ確かに全然エマのことは分からないけどさ……あの様子で裏があるとは思えない。ペクトラの話だってあの後全く無かったし、明日もオウトウを用意してくれるって言ってたし……少なくとも、悪いやつじゃないと思うけどな?」
「……鏡の前に座って頂戴」
リリィは嘆息すると言った。明らかに機嫌の悪い声色に逆らわない方が良い気配を感じ取り、ウィルは大人しく言われた通りにした。
ウィルを鏡の前に座らせたのはリリィ自身の苛立ちと呆れを表情で伝えるためだった。リリィは冷淡な視線を鏡の中へ向けた。
「どれだけ楽観視してるのよ、もっと冷静に考えなさい。エマが明日も親切にしてくれる保証などないし、そもそも本当に無害な人間なのかも怪しいじゃないの。オウトウをくれるって言うのもこちらを油断させる罠かもしれない。明日は会わない方が良い」
リリィの長く理屈っぽい説教が妙に癇に障り、ウィルは露骨にムッとしながら反論した。
「リリィは逆にエマに随分否定的な印象を持ってるよな。 なんか……いつものお前らしくない気がする。何かあるのか?エマに」
「……別に、私はいつも通りよ」
リリィは苦々しげに顔を歪め視線を逸らすのだった。
*
翌日の朝。
ウィルはすっかり落ち込んでいた。夜のうちに調べる筈だった事――というより、夜でなければ調べられなかった事――を、うっかりベッドで眠りこけてしまったため全く出来なかったのだ。これでは仕事が進まない。ウィルは朝から理不尽な八つ当たりをしていた。
(起こしてくれたっていいだろがよ……、と言うか、代わりに調べてくれた方がもっと良かった!)
朝食を口一杯に頬張りながら不貞腐れ顔で抗議するウィルに、リリィは冷静な分析を返した。
〈昨晩の眠気は脳が満腹感を感じた事で副交感神経優位になって起きたもの。いわば身体というハードの強制電源オフ状態によ……〉
(あーわかったわかった、要はどうにもならないんだろ? ったく、今日の晩までできることないんだから、今日一日は俺の自由にするぞ! 分かったな!)
〈……分かったわよ。でもね〉
リリィは視線だけ動かすと困惑顔の宿屋の主人に焦点を合わせた。
〈……機嫌の悪い顔をしてたら、今日も誤解されるわよ? 多分。〉
ウィルは仏頂面を引きつらせてご飯を急いで飲み込み、主人に無意味な笑みを向け誤魔化した。
*
翌朝。
朝食を食べ終えるとウィルは昨日の丘へ向かった。
エマは既にサクラの木の根元に腰掛けて本を読んでいた。今日の髪型はポニーテールを花――恐らくサクラだろう――の飾りが付いたヘアゴムでまとめ、ボタニカルなデザインの膝丈ワンピースに身を包んでいた。ウィルに気づくとエマはにっこり微笑み手を振った。
「……悪い、待たせたかな?」
ばつの悪そうな表情を浮かべ頭を掻くウィルにエマは首を横に振った。
「ううん、そんなに待ってないよ」
エマは栞を挟み、本をそっと閉じた。日頃本など読まないウィルだが、その時は何故かエマの読んでいた本の内容に興味がわいた。
「何を読んでたんだ?」
エマの隣に腰掛けながら尋ねると、エマは少しだけ寂しげに微笑み言った。
「サクラの女神様のお話」
「ふうん……綺麗な神様なんだろうな」
神仏の類は一切信じていないウィルだったが、エマの言葉に意地悪く答え返す気にはどうにもなれなかった。珍しく感傷的になっている自分に気づき、ウィルは肩の辺りがむず痒くなるのを感じた。
「あら、知ってるの? この話」
「いや、知ってる訳じゃないけどさ」
ウィルははらはらとふりしきる花びらを見上げた。
「こんな綺麗な花に神様が宿るなら、さぞかし美しくて優しい女神様なんだろうなってのは、思う」
「……そうだね。きっと、そうだよ」
エマも樹を見上げ呟いた。その顔には先程よりも強い悲しみが浮かんでいた。ウィルは少しばかり不安になったが、その事を尋ねようか迷っている間にエマの表情は微笑に変わっていた。エマは背後から少し小振りの紙袋を取り出すと言った。
「……さて、お待ちかねの時間だよ」
「う、別に……餌付けされたわけじゃないぞ」
赤面するウィルにエマは吹き出した。
*
エマはオウトウをがつがつ食べるウィルの横で、自分の話を訥々と話し始めた。小さいころは病弱で寝込みがちだったものの今はすっかり元気になり、その頃に遊べなかった分、今は大いにヤンチャしているらしかった。
「それにしたって、教会の屋根の上に登るのは少しお転婆が過ぎるだろ」
呆れて呟くウィルにエマは困ったように笑った。
「あそこにいたのはね、アンジェリーナと話したかったからなの」
ウィルはふと昨日の会話を思い出し身構えた。アンジェリーナとはエマのエクストラの名前だろうか。ウィルの気配が変わったことに気付き、エマは慌てて弁解した。
「いえ別に、貴方達の詮索をするつもりはないの。ただ、私達、少し困った事になってて…誰かに相談したかったの」
「困ってるって?」
「うん、その……アンジェリーナと、ここ最近、全然話せなくなってしまっているの。あ、アンジェリーナって、私の中にいる子の名前ね。で、その、うまく言えないんだけど……」
エマは言葉を慎重に選んでいる様子だった。何が起こっているのか自分でも把握出来ておらず、混乱しているように見えた。
「何だか、このままじゃアンジェリーナが消えてしまうような、そんな気がして……不安なの」
「消える、ねぇ……」
ウィルはエマの不安を理解出来なかった。ペクトラの知り合いは何人かいたが、エクストラが消えるなんて話を聞いたことは一度も無かった。
「……そんな簡単に、人格が消えるとは思えないんだけどな」
そっけないウィルの答えにエマは項垂れた。
「やっぱり分からないわよね、こんな話。私自身、よく分からなくて戸惑ってるもの。……うん、大丈夫。今のは忘れて」
エマは歪な微笑みを浮かべて言ったが、ウィルはエマの悩みを解決してやりたいと思い始めていた。エマが悲しむのも無理に微笑むのも嫌だった。
「……とりあえず、俺の方でも調べてはみるよ。詳しくは言えないけど別の仕事を受けている最中だから、そのついでにって感じになっちゃうけど。それでもいいか?」
急に真剣になったウィルの顔を、エマは眼を丸くしてまじまじと見つめた。
「信じてくれるの……?」
「こんなに美味しいものをくれたんだ、放っておけるわけないだろ。任せてくれ」
ウィルは胸を張って言った。内心、帰室後の小言の嵐を覚悟しながら。




