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【クレヴ】
決して柔らかいとは言えない、自室のベッドの上で重たい瞼を開く。この微睡みこそ、至福の一時。
久々に心が休まる瞬間である。それも、これまでの苦痛を思い返せば、また一入であろう。
せっかく1人で静かに年を越そうと思っていたら、王族姉妹に絡まれている内に、いつの間にか越しちゃってるし。
父には仕事を押し付けられ、気軽に温泉を楽しめず。サラマンダーがやって来て、何とか帰って貰ったものの、絶妙なタイミングで帰還した姉に四六時中ひっつかれる羽目になるし。
プライベートなスペースがどれほど大切なものか、身に沁みて実感出来た。
「ふぅ……」
過労気味で実年齢よりも老けて見えるおっさんばりの溜息を吐くと、再び瞼を下ろした。
昨日はアイザックとダイアナの見た目化け物夫婦の結婚式に乗じて、村民全員でお祭り騒ぎしてたせいで疲れが抜け切れていないし。
それに外が寒いから、ベッドから出たくないというのもある。
普段なら陽が昇れば自然に起床出来ていた筈なのだが……偶には寝過ごしても罰は当たるまい、と思っていた。
「暑い……」
が、やけに布団の中が暑くて、二度寝出来そうに無い。眠気はあるのだが、中に籠った熱が不快で寝付けそうにも無いのである。
暑いのも嫌だが、寒いのも困る。そんな葛藤の末に掛け布団を勢いよく引っ剥がすと――一糸纏わぬ美女が俺に添い寝している姿があった。
シミ一つ無い白磁のような肌に浮かぶ汗がほっそりとした首から鎖骨の方へと滑り落ちていく。そして、俺の視線は自然と双丘の谷間に吸い寄せられた。
抗えない男の本能、というべきか。男なら、誰しもそのような性欲は持ち合わせている筈だ。
「んぅ……おはよう、クーちゃん」
布団を持ち上げたせいで外気に直接触れたからか、もぞもぞと姉が動きを見せたところで、正気に戻る。
いくら裸を見たからといって、身内に発情するとは……一生の不覚だ。また、目先の脅威よりも数秒前に起きた事に対しての後悔に思考を取られている事も。
寝起きとは思えない程、俊敏な動きでマウントポジションを取り、俺の肩を押さえつける姉。逃げる暇どころか、起き上がる事すら許されなかった。
「……何で俺のベッドの中にいるんだよ? しかも裸で?」
確か念には念を入れて、姉が自身の部屋に戻ってから2時間ほど動きを見せないのを確認してから眠りについた筈だったのだが。
馬車の旅から解放されて、油断していたというのか。簡易的なものではあるものの、部屋には施錠したことだし、安心していたのだろう。
家の内部で破壊活動を行えば、母から『出入り禁止』を言い渡される為、そう易々と侵入されまいと思っていたのが、甘かったのか。
「それは一緒に寝たいからに決まってるでしょ? 裸なのは、人肌で温め合うというウォーミングストーリー的な展開を、ね?」
小首を傾げ、窓から入ってくる太陽光を反射する姉の茶の髪がサラサラと靡く。
仮面のように全く顔面に変化が無いくせに、美の泉効果で手に入った美貌のお蔭かどこか幻想じみたように見えた。
「温まる訳ねぇだろ? 寧ろゾッとするから。ベッドに姉さんが忍び込んでるせいで動悸だって激しくなってるし」
「そう? クーちゃん、汗かいてるけど?」
姉のほっそりとした掌が汗ばんだ額に当てられる。これは暑かったせいで出てきたものなのか、姉の襲撃による冷や汗なのか、判別がつかない。
どちらにせよ、姉が原因なのは変わりないのだが。というか、冬なのにベッドの中が暑いというのがおかしいのである。
元々、姉の基礎体温が高いのもそうだが、自分の意思で体温を変化させるという人間離れした事も可能なのだ。
「それと、胸がドキドキしてるのはクーちゃんが恋してるから。……汗かいてるから、脱いじゃおうか」
気づかぬうちに、首周りやら背中辺りのところに汗が染み込んでいたシャツが脱がされていた。何という早業。
やはり、ベッド内の温度を上昇させたのは口実を作る為か。
「『乞い』してるよ、早く姉さんどいてくれって。後、汗かいたのは姉さんのせいだからな。自由自在に体温調節とか、無駄機能ばかり身につけやがって……。
こちとら暑くて寝苦しいんだよ。だからさっさと部屋から出てってくれません?」
「暑いのなら、余計に脱がないと――」
今度の標的をズボンと定めたらしい姉の視線が下りていったところで、急にピタリと動きを止める。
「私のせいで熱くなってるの……? えっちぃ」
無表情の姉から放たれる台詞に多少の苛立ちを感じた。朝の生理現象なのだから仕方がないではないか。……決して身内に発情した訳では無い。
っと、こんな状況で一人ごちっている場合では無かった。会話で多少誤魔化していたが、これで姉の意識は俺の下腹部に向いてしまったか。
マズい。かなりマズい。このままだと、姉の目論見であろう合体が為されてしまう。
馬乗りされた体勢では力が入らないし、そもそも力では姉に勝てない。
――だが、こんな事は過去に幾度として存在してきた事である。果たして、幼き日の俺がむざむざと姉の好き放題にやられてきたというのか?
否、それは否だ。確かに俺は姉の手からは逃れられず、追い込まれる事なんて昔と変わらず度々ある。
しかし、まだ大事な一線は越えていないのだ。それは何故かといえば、過去の自分が精一杯の努力をしてきたからである。
その時の成果を此度も発揮する時が来たのだ。……全く以て来て欲しくは無かったが。
「ん? クーちゃん、ようやくヤル気に……」
肩を押さえられてはいるものの、肘から先なら動かす事は可能。俺の指を姉の柔肌へと伸ばすのが見えたからか、姉が声だけ喜色を露わにする。
肩への圧力が緩み、その代わりに姉の手が腹へと移った。これで起き上がる事は出来ないが、腕は自由となる。
俺は掌を形が整った胸にまっすぐ向かう――と見せかけて、指先を脇腹の方へとズラす。
そして、繊細な指使いで忙しく動かした。
「……!」
先程までは余裕たっぷりといった様子で俺の上を取っていた姉が思わず身動ぎするところを見て、ほくそ笑む。
……どんな人間にも弱点は存在するものだ。それが完璧に見える無敵超人だとしても、それは例外では無いのである。
父の場合、物理的攻撃及び精神的攻撃の殆どが通用しない。剣で斬られようが、槍で突かれようが、よっぽどの腕前か武器の性能が良くない限り、あの皮膚に傷一つ付ける事は不可能だ。
また、いくら自分の暴言を吐かれようとも、貶されようとも、蔑まれようともビクともしない。父は笑って流す事が出来る。
まぁ、それはまともに言葉を受け止めていないからかもしれない。溌溂で懐っこい性格をしている割に他人への興味が意外と薄いのだ。
さて、そんな父にも弱点は存在する。勿論、母の事だ。
母から叱られると初めは嬉しそうにするものの、段々と自己嫌悪に陥っていく。そして、母に嫌われないか心の中が恐怖で支配されるのだ。
随分と前に、父がうっかり母が大事していた物を壊したせいで、母が激怒した際に『大嫌い』と言われ、自殺を図った事もあったしな。
そんな父の血を色濃く受け継いだ姉は弱点が判明するまで、ある意味無敵と言っても良かった。父よりも他人への興味が薄いし、俺の悪口も照れ隠しだと受け取るのだ。
まぁ、それも色々なものを犠牲に出しながらも試行錯誤した結果、何てことは無い擽りが有効だと気付いたのだが。
「ぅ……んん…………」
姉は笑う事は無い。ただ、何かに耐えるように頬を赤らめるだけだ。
上からの圧力が減ってきたところで、一気に姉を跳ね除ける。そして、徹底的に脇腹を攻めに攻め、痙攣したみたいに身体がピクピクし始めたところで解放。
これで5分は動けまい。今日もどうにか助かったようだ。とはいえ、本気で姉に迫られたら抵抗さえ許されず、ドッキングしていただろう。
……それというのも何だかんだいって、姉が積極的に絡んでくる割にどこか受け身なところがあるから、かもしれない。
サラナ村の性教育に感謝、だな。世間――というか都会の方では多いとされる娼館みたいな所は皆無で、寧ろそういう所を毛嫌いしている人間がこの村では多い。
何故なら、子作りが神聖視されているからである。婚前交渉を娯楽として扱うなど論外。正気の沙汰では無い――と思う人も少なからずいるらしい。
俺は別に娼婦がいる事に正気を疑う、という事は無いが。年頃なんで、性的な事に興味が無い訳でも無いし。
とはいえ、自分で女遊びをする気にはなれず、抵抗感がバリバリあるのだが。
姉が気絶している隙に着替えを済ませ、外に出る。俺なんかの残り香で多少の性欲が落ち着くのなら、と姉は部屋の中で放置しておいた。
万が一漁られようとも、困るものは大体父の部屋に忍ばせてあるので問題は無い。
「おはよう」
動物達の飼育スペースに向かう前に、まずは愛しのスライム達の様子を窺いに行く。言葉が通じなくとも、挨拶は大事だ。自己満足だろうが、気にしない。
俺の声に反応したスライム達は草の陰から飛び出すと、一目散に俺の許へと近寄ってくる。
汚されてしまった俺の心が洗われるようだ。
酷い環境ばかりにいたせいか、スライムへの依存度が余計に高まったかもしれない。
「じゃあ、いつものように身体能力のチェックするぞー」
独り言のように呟いた後、スライム達に庭の周りをグルリと一周させる。
他人様からすれば異様な光景に、リアナからすれば曲芸を仕込んでいるみたいに見えるらしいが、此方としては大真面目にスライム達のチェックをしているのだ。
最弱の異名を持つスライムだからなのか、ひと月ふた月程度では目に見えて成長するような事は無い。
だが、確実に少しずつではあるが、能力が伸びている部分もある。
個体差で速さに特化させたり、器用さに特化させたスライムなんか見ていると違いが顕著に分かって面白い。
身体の弾力を鍛えたスライムはとにかく直線的な動きで跳ね回っているし、身体の形を自在に動かせるスライムはターンの際にスピンしたりと、本来のスライムには無い動きをしてくれる。
ここまで育て上げるのに、随分と苦労したものだ。
といっても、レイオッド先生がナサニエルから取り返してくれた新参の5体を鍛えるのは、そこまででは無かったけど。
それというのも、前例があるからだ。特に『スラさん』と名付けた個体が優秀なのが大きいだろう。
15体全部にいちいち一から教え込むのは骨が折れる作業である。が、しかし1体にそれを習得させれば、事は大きく進む。
後は他のスライムに、その1体のスライムの模倣をさせれば良いだけだからだ。上達の一番の近道は上手い奴の模倣から。
わざわざ言語化したり、手探りでその仕組みを説明しなくていいというのは楽なものである。
ただし、指示を出す際に『それ』が何なのか、しっかりと理解させねばならない手間が存在するのだが。
「……相変わらず、お前は指示を聞いてくれないんだな、リイム」
他のスライム達のように跳ねる事をせず、俺の足元に忍び寄って来ていたリキッドスライムを軽く撫でる。
ちゃんと言い聞かせれば、しっかり動いてくれるのだが……生来の気質が甘えん坊らしい。隙あらば、俺の足にペッタリとへばりついてくるのだ。
リイムの身体能力がどれほどのものか、把握しておきたかったのだが、仕方あるまい。
リイムがノロノロと這っている間に、他のスライム達に何周も周回遅れにされてしまうのだから。
スライムは爆発的には成長しない。するとすれば、俺の発想次第だ。しかし、俺の貧困な発想力では現状で限界。
これ以上、劇的な変化を起こせるのだろうか。行き詰まりを感じて仕方ない。
スライム達を眺めながら、必死に頭を回転させるものの、取りあえずくだらなくとも試行錯誤していかなくてはならないな、と改めて実感したのだった。
「さァて、いつものように身体能力のチェックするぜー?」
既視感というヤツなのか。はたまた因果応報ともいうべきか。
久々に家族全員で朝食を食べた後、父に家の前に連れ出された。真ん前に立つ父は犬歯を剥き出しにしてニヤリと笑っているが、俺はどん底まで気分が落ち込んでいた。
飯を終えた後に父からの扱きとか、確実に胃腸内のものをリバースするに決まっている。
「なぁ、父さん。食休みって知ってる? 食ってからすぐに動くと身体に悪いんだぞ?」
「何言ってやがるんだ、クレヴ? 寝ている時や食事している時なんかが一番隙が出来やすい。だから、食った後でもすぐに動けるように特訓してやってる親心が分かんねぇのか?
分かんねぇよな。『親の心、子知らず』って言うしな。わざわざクレアンヌとのイチャイチャする時間を割いて、息子と楽しい時間を過ごすっていう、父親と責務を果たそうとしてるのによォ」
ペチャペチャと言葉を垂れ流す父に苛立ちを覚える。
わざわざ母との時間を割いたんじゃなく、絡み過ぎて鬱陶しいと母に追い払われたから、渋々暇潰し程度で息子に構っているだけであろう。
「それに吐いたら、せっかく作ってくれた母さんの朝食が台無しになると思うんだけど、それでも良いのかよ?」
「吐いた奴が悪ぃんだ。俺は息子を可愛がるだけだぜ?」
そう言いつつも、父の目は泳ぎ、頬からは冷や汗が流れていた。やはり母から嫌われる等の事は弱点のようだが、切り返し方を覚えたらしい。
「んじゃ、始めっぞォ! クリュテもサポート頼むな」
俺の背後にいた姉に声をかけた後、父は地面に突き刺しておいた大振りの剣を手に取った。あれは確かザビウスでも使っていたものだろう。
父が何度か素振りして感触を確かめている間に、姉が例の生きた大剣を呼び出す。イグニード、という名だっただろうか。
姿どころか、名前すら聞いた事が無い。そんな物をこれから弟に向けて振り回すとか、どういう神経しているんだろうか。
というか、自身の身体よりも大きな大剣を持った2人に挟まれるとか、威圧感が尋常じゃないのだが。
「そういや俺が貸してやってる盾はどうしたんだ? どこにも見当たらねぇんだが?」
「あぁ、それなら修理に出しておいたよ。父さんがその盾を作って貰ったっていうルイゼンハルトの店に。
つーか、父さんさ、あの盾をよくもあんなにボロボロに出来たな。店主の話だと、俺の手に渡った時には10%程度しか効果を発揮してないって言ってたぞ?」
まずは俺の肩慣らしに、そこそこの速度で向かってくる剣を躱していく。あまり速くないが、背後から姉の得物も来る為、油断は出来ない。
「あぁ、それは主にクリュテのせいだぜ? あの盾なら滅多な事じゃ壊れねぇ、と思って的代わりに打ち込ませてた結果、そうなったんだ。
ったく、本当に規格外だぜ、俺の娘はよォ」
姉が旅に出たのは、確か9歳か10歳くらいだった筈だ。今の俺ですら傷一つ付けられない代物だっていうのに……恐ろしい姉である。
剣の速度が大分危ないところにまで変化したところで、父と姉が一旦手を止めた。
「まだまだ粗が目立つみてぇだが、身体の方はそこそこ鍛えてたみてぇだな。ウォームアップはこの辺にして、そろそろ本題にいくとすっか。
今日はそうだな……感知能力を鍛えてみるとすっかな」
ちぃと離れてな、と言い置いてから、父が片腕で剣を振るう。俺の網膜に弧を描く銀閃が映ったと思った瞬間、父から数十メートル離れた柵が吹き飛んだ。
「……今のを感じ取れたか、クレヴ?」
「無理に決まってんだろ。それより柵壊して、母さんに怒られるぞ?」
困ったようにボサボサの頭を乱暴に掻く父を睨むと、今度は吹き飛んでいった柵の方へと視線を移す。
手加減はしていたみたいで、柵の状態は全壊とまではなっていないっぽいが、確実に修理は必要そうだ。
相も変わらず、いつ見ても常識外れにしか思えない技である。しかも、父は剣を使わずとも手や足から『衝撃』を放てるしな。
いくら頑張っても、俺には一向に出る気がしないというのに。
「つーわけで、今日は『衝撃』を感じ取れるようになれ、以上」
それだけ言うと父はバックステップで俺から距離を取ると、目に追い切れない速度で虚空を切り裂く――その前に俺は咄嗟の判断で大きく横っ跳びする。
「クリュテ、フォロー頼む」
父の言葉に姉が腕だけ動かし、袈裟斬りに振るう。その一瞬後、視界に全く変化が無いというのに、先程まで俺がいた場所に衝突音が鳴り響いた。
父の『衝撃』を姉が『衝撃』で打ち消したのである。威力は同程度、されど進行速度は父よりも速く調整してある一撃。
それを瞬時に判断して放てるとか、とんでもない姉だ。天賦の才、というヤツなのだろう。……本当にこの人は俺と血が繋がっているのだろうか?
「おら、ドンドンいくぞ。振った方向で予測すんじゃねぇぞ? 考えるんじゃねぇ、感じ取るんだ!」
「無理無理無理無理ィ――ッ!」
喉が裂けるぐらいに叫ぶものの、父の手が止まる事は無かった。
【シルヴァ】
「ようやくお目当てのモンを引き摺り出せたか……」
シルヴァは先程まで苦悶の表情で喚いていたクレヴを見つめながら、唇をつり上げる。
「お父さん? クーちゃんの様子が……」
『衝撃』に吹き飛ばされる事、数十回。
身につけていた衣服がボロボロになり、血に濡れた素肌が見え隠れしているクレヴが急に黙り込んだのを見て、クリュテが不安そうな声を上げる。
「あぁ、クリュテは知らねぇのか。これはだな、クレヴをちょっぴり極限状態に追い込むと『ああ』なるんだ」
目の前のにいるクレヴからは表情が抜け落ち、通常ならば困ったような色を宿す瞳には獰猛な獣と同じ鋭いものへと変化していた。
この状態に初めて陥ったのは、数年前。クレヴが『壊れて』から半年が過ぎた頃、痺れを切らしたシルヴァがクレヴの頭を叩いて『再起動』させた後の事。
今度は『壊れて』しまわないようにと、精神を鍛えるついでにクレヴの肉体を苛め抜き、息子の意識を数度飛ばした後、偶然クレヴが別の形で壊れた事があったのだ。
一時的な感情の欠落し、その代わりに生存本能や闘争本能が全面に押し出される。人間から獣に成り下がった、とも言えるだろうか。
「このままにしておいて、クーちゃんは大丈夫なの?」
シルヴァを咎めるように言い放つクリュテに、シルヴァは野性味溢れる笑みを返した。
「大丈夫、だと思うぜ? 今までもどうにかなってたしよォ」
全く根拠が無いというのにも拘わらず、自信たっぷりにシルヴァは頷く。とはいえ、決してクレヴから視線を逸らさずに、だ。
今のクレヴは意識を手放した状態にある為、自身の制御が効かない。この状態でどこかにふらりと行かれようものなら、色々と面倒な事態になる事は目に見えていた。
シルヴァは目でクレヴを威圧すると、すっかり使い慣れた大剣を構える。
意図的にクレヴを『壊した』シルヴァには、勿論そうするだけの理由がある。
とはいえ、クレヴの雰囲気が変わったからといっても、急激に強くなる訳でも身体のリミッターが外れる訳でも無い。
そんなものは、書物の中にある世界だけだ。
かといって、元々の目的である感知能力が上昇する訳でも無い。ただ、動きに躊躇が無くなる事と、吸収力が高まる事。
『考えるのでは無く、感じる事』が重要だと考えたシルヴァにとって、現在のクレヴに教える事は好ましい。
が、この方法には当然リスクが発生する。クレヴが今のように陥ったのは、完全に『壊れて』から。
つまり、今の状態は『壊れかけ』とも言えなくは無い。万が一、完全に『壊れて』しまった場合、通常のクレヴに戻すのは難しいのだ。
もしかしたら、もう二度と感情が戻らない可能性もある。
「(そん時はそん時だろ)」
しかし、シルヴァは躊躇わない。先の事を考えず、思考を放棄した。いや、この程度ではクレヴが壊れないと信じていた。
実際、クレヴがこれまでシルヴァによって受けてきた苦行は、幼き日の苛めとは比較にならない。
「おら、もう一発いくぜッ!」
頭上から片手で大剣を振り下ろし、『衝撃』を一直線上に放つ。向かう先にはクレヴの姿があったが、既の所で身を横に投げた。
「(俺が動き出したところで予測しやがって……クレヴの奴、まだ目に頼ってやがるな。んじゃ、次はどうだ……?)」
クレヴが滞空している僅かな間に、シルヴァは空いた片手を用いて、中指を掌の内側に丸め、親指でそれを抑える。
そして中指を伸ばそうとする力を込めて――俗に言う『デコピン』を放った。つまりは、指先一つで『衝撃』を放ったのである。
これならば、回避行動で手一杯になったクレヴに勘付かれるような余裕は無い。仮にシルヴァが何かしたと気付いたとしても、予備動作が剣を振るうよりも圧倒的に短い。
とどの詰まり、これで躱す為には、『衝撃』を感知するしか無いだろうとシルヴァは安直に考えた。
「(さァて、また吹っ飛ばされちまうか、それとも……)」
そんなシルヴァの予想も良い方向で裏切られる事となる。
受け身を取ろうともせずに、片手で着地するが、勢いを殺しきれずにクレヴは地面を滑っていく――かに思われた。
だが、握力だけで掴み止まると、強靭な腕のバネを使ってシルヴァとの距離を詰めてくる。
「(ありゃあ、獣人の歩法じゃねぇか)」
若干胸を衝かれるシルヴァだったが、すかさず牽制として『衝撃』を放ちながら息子の成長を微妙に喜んだ。
村に住み着いた獣人に何度か見せてもらった、あの歩法は自身の体重と支え、機動力として生かせる力が無ければ出来ない、力任せのものである。
アクロバティックに跳んだ際の勢いを弱めるのでは無く、力業で何とかしてしまうのだが、利点もある。
足を利用せずとも、急な方向転換も可能。咄嗟の判断で回避に役立つ技術と言っても良いだろう。
「(ただ、凄ぇ地味な小技なんだよなァ。それを使ったからって形勢が逆転する訳でもねぇし。
それにまだまだ未熟だからか、利き腕じゃねぇと上手く制御出来てねぇみたいだなァ)」
連続で放った『衝撃』を躱しつつ、近付いてくるクレヴを冷静に観察しながら、シルヴァは納得したように一人頷く。
取りあえず、目だけに頼らずともいつの間にか『衝撃』を少しは感じ取れるようになったクレヴの姿があったからだ。
とはいえ、全てを完璧に、という訳では無いらしく、『気付きかけた』状態ではあるのだが。
「(それにしても、『こう』なる前までは逃げてばかりなのに、今は俺に向かってくるたァなァ……)」
互いに攻撃が届く範囲に距離が狭まったところまで迫ってきていたクレヴに、大きく口を開けて笑い返す。
クレヴは本能までしっかりと身に沁みてしているのだ。決して尻尾巻いて逃げられる相手では無いという事を。
逃げる為には、最低限どうにかして隙を作らねばならない事を。
「よっしゃ、どんくらい『へなちょこ』じゃなくなったか、受け止めてやるぜェ!」
相当手を抜いていたとはいえ、ここまで接近されたのだ。褒美に一発くらい攻撃を受けてやっても良いかな、と考えたシルヴァは構えもせずに堂々とクレヴと向き合う。
が、途中でクレヴの視線が下腹部に向かったところで、己の手をその視線の先にあるものを隠した。流石のシルヴァもそこに当てられるのは嫌だと判断したのだ。
攻撃の手が止まったシルヴァを見て、クレヴは左足を強く踏み込むと右足を高く振り上げた。フェイクを混ぜる事もせず、そのまま顔面へのハイキック。
しかし、シルヴァは眼前へと迫ってくるそれを見て、少し顔を顰めた。何故なら、それが素足だったからである。
確か外に出てきた時には、しっかりと靴を履いていた筈だった。疑問が残るものの、シルヴァはそのまま顔面で受け止めようとしたところで――動転した。
「(クレヴの野郎、砂利を仕込んでいやがった……!)」
シルヴァは歯噛みしつつも、クレヴの足より速く自分のところへ到達するであろう砂利を首を振って躱すが、それもクレヴには読まれていたらしい。
回し蹴りの要領で身体を回した際のフォロースルーを利用して、左手に握っていた砂利を続けて投下してきた。
視界から外れているにも拘わらず、左手から放たれた砂利はシルヴァの顔がこれから向かうであろう場所に飛んでいく。
魔法陣を用いての召喚魔法を特訓した際に身に付けたイメージ力が遺憾なく発揮された瞬間だった。
「こなくそ――ッ!」
躱す事はよもや不可能。ならば、という事でシルヴァは素早く息を吸い込むと、砂利に向かって勢い良く吹き付けた。
尋常では無い肺活量で以て噴出されたオッサンの空気弾は飛んでくる砂利のスピードを弱めるどころか
、クレヴが投擲した以上のスピードで跳ね返すと、怒り任せに剣の腹で無防備となったクレヴの背中へと叩き付けた。
【クレヴ】
気がつけば首から下全体の骨にヒビが入っており、重傷を負っていたらしい。
いつの間にかベッドの上で寝かされていたのだが、腹が減っていたので起き上がろうとしたところで全身に痛みが走ったところで、そう実感させられた。
伊達に怪我ばかりしていた訳ではないのだ。自分の身体の調子くらいは何となく把握出来るようになって無ければ、父となんぞ暮らしてはいけないしな。
「あぁ、気がついたのね、クレヴ」
苦痛と格闘しつつ、何とか元の位置へと戻ったところで、ベッドの傍にいた母が声をかけてくる。
手に持っているタオルを見るに俺の看病をしてくれていたらしいが……服装が外行きのものであった。
「目覚めたならちょうど良かった。これからグレースさん達と一緒にルイゼンハルトの方までショッピングに行くから、シルヴァさんとクリュテに伝えておいてくれない?
後、『走り屋』さんにお願いするから、運賃の方は安心してって事もね」
深い怪我を負った息子を放っておいて買い物に行くとか、薄情過ぎじゃないだろうか。
「姉さんと父さんは今どこに?」
「ちょっとアスタールに買い出しに行って貰ってるところ。果物をカットしておいたのを机の上に置いておいたから、お腹が空いたら適当に食べておいて」
それだけ言うと軽い足取りで母は出かけていってしまった。
「やべぇ……」
これはマズい事になった。ウチの最大抑止力である母がいなくなってしまったという事は、あの姉が野放しになるという事である。
抵抗が許されないこの状況で、絶望しか残ってないじゃないか。
絶対、俺が動けない事をいいことに、全身を拭くという建前で全身舐め回される。エレクチオンは避けられまい。
「カムバーック、母さァァァァァんッッ!!!!」
ご近所の方々に母親への強い執着がある変態野郎に思われようが、これを聞き付けた父に半殺しされようが構わない。
貞操の危機だ。恥や痛みで済むなら、全然マシである。
大声で母を呼び戻す言葉は段々と母への恨み事へと変わり、そして最終的には存在しているかも分からない神に祈る事にした。
どうせ、現実は厳しい。俺の願いなど叶う筈も無く、母が戻ってくる事は無かった。
――そして母は、1週間経とうとも、2週間経とうとも、とうとう帰って来なかった。




