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スライムの召喚魔導師  作者: じぱんぐ
ザビウス
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蛇足 姉と弟

 クリュテはどこか壊れている。

 そう彼女自身が自覚させられたのは、3歳の頃。周りの人間と違って、顔から喜怒哀楽が表れなかったことを指摘されたのが、きっかけだった。

 人として当たり前の感情表現が出来ない。まさしく致命的な欠陥と言えよう。

 だが、彼女はその欠陥を治そうとは思わなかった。何故なら、その欠陥を指摘する人がたった1人しかいなかったからである。

 普通の感性を持つ人間ならば、何をしている時でも無表情な人間を不気味に感じることだろう。

 しかし、彼女の住んでいるのはサラナ村。

 "大らか"というレベルを遥かに超え、ある程度の倫理観さえ持っていれば、大抵の人間は受け入れることが可能であった。

 そして、彼女の母親であるクレアンヌはクリュテの欠陥を個性として受け入れ、彼女の父親であるシルヴァはそもそも欠陥とすら考えず、異常なまでに冴え渡る勘で彼女の感情をごく自然に読み取っていた。

 

 そんな中、彼女の欠陥に疑問を抱く数少ない者もいた。その内の一人は、彼女より一つ年下の弟――クレヴである。

 クレヴは感情豊かで、表情がコロコロと変わる。姉のクリュテとは対照的であった。だからであろうか、彼がクリュテに表情の変化の無い事を指摘したのは。


「どうして、お姉ちゃんはいつも『ぶすっと』した顔してるの?」


 当時2歳児とは思えない程、しっかりとした言語能力で問うたクレヴにクリュテは首を傾げた。

 彼女は自分が壊れている、おかしいと自覚はした。しかし、自覚しただけで自己完結したのだ。

 他と違うから、といって何かいけない事があるのか。彼女にとっての"普通"が普通で無いからといって、何故他に合わせなければならないのか。

 全く同一の人間がいないというのに。人間がいつもどこでも、同じような事を考えているはずが無いというのに。


――これが、彼女にとって初めて、クレヴをまともに認識した瞬間だった。







 クレヴは生まれつき身体が弱かった。シルヴァの子で無ければ、死んでいたであろうという程に。

 そのため、彼の母であるクレアンヌが付きっきりで世話をしなければならなくなった。幼いクリュテとしては、それは面白くない。

 なので、初めは弟ではなく、邪魔者としか見れなかった。だが、彼女はその邪魔者を排除しようとは、考えなかった。

 何故なら、クレアンヌがクレヴの事を愛していたからである。クレヴは邪魔だが、母の悲しい顔を見たい訳では無い。

 それならば、他の子供がしているように泣き喚けば良いのだが、クリュテには泣き方が分からない。

 どうやって泣けばいいのか。自然に出来る筈の行為が出来ない彼女は、意識したところでそれが可能になる筈も無い。

 結局、彼女は諦めるしか無い。だが、胸に宿る僅かな嫉妬心が消える事は無い為、クレヴのポジションを奪う以外で発散させる必要があった。

 それはあまりにくだらない。一方的にクレヴと張り合う事だ。


 書物を読むのが趣味であった母に影響されたのか、彼が聡明だったのか分からないが、簡単なものであれば読む事が出来るようになっていた。

 そんなクレヴに負けないクリュテは彼よりも難しいものを。文字の習得も、読む速さも、とにかく比べられるものなら何でも競った。


「ぼく、お父さんみたいに強くなりたい」


 クリュテが4歳になり、クレヴがようやくまともに動けるようになった時、彼は父に向かってそんな事を言い出した。

 書物に書かれた物語に影響されたのか、男という生き物の(さが)なのか。父に頼み込む姿を見て、女の身でありながらクリュテも彼と共に剣を教わる事となった。


――この時、クレヴは己がとんでもない失言をしたと気付かなかった。


 一つは、手加減しても並の人間ならば充分殺傷出来る能力を持つ父――シルヴァに頼んだ事。そして、もう一つは『父のように』というワードを組み込んだ事である。

 クレヴとしては、身近にいる強い存在を漠然と目標にしただけなのだが、シルヴァはその言葉を真正面からまともに受け止めてしまった。

 元々身体能力が高かったシルヴァではあるが、今の強さの域へ到達する為に並大抵では無い修練を積み、経験を重ねてきたのだ。

 身体が強くは無いクレヴにとって、シルヴァが考える稽古は厳しいというレベルを軽く超えていた。

 実際、シルヴァとの特訓が始まってから数日後、クレヴは生死の境を彷徨う事態に陥ったのである。

 原因はシルヴァの何気ない一振り。クリュテ達に扱っている得物の危険性を説明している際に、シルヴァの剣から発せられた余波が彼らを襲ったのだ。

 クリュテはそれを難なく自分の得物で受け止めたのだが、反応出来なかったクレヴはモロに直撃。

 十数メートル程、ノーバウンドで飛んでいき、地面に首周りを強打し吐血。落下の際の衝撃で意識を失い、5日間目覚める事は無かった。

 そのクレヴの容態に顔面真っ青になったクレアンヌは彼が意識を取り戻すまでベッドから離れなくなったのと。彼があまりに弱いので、クリュテは優越感に浸ることも出来なかった。

 

 僅か3歳という歳で父親に殺されかけ、生まれ落ちた時にも発揮した尋常じゃない生命力で何とか生還したクレヴは、死ぬ恐怖と命の大切さを身をもって学んだのだが。

 息子の身を案じるクレアンヌの制止を振り切って、クレヴは再び剣を手に取った。

 そんな弟の行動が気になって、クリュテは彼に『何故、痛い目にあったというのに戻ってきたのか』と聞くと、彼は『お父さんとお母さんには内緒にしてね』と前置きして、こう答えた。


「お父さんに頼み事しておいて、途中で止めちゃうのは良くないし、教わるのならキチンと教わらないとって思ってね。

 約束は守らなきゃいけないものだし。それに止めたら、お父さんが悲しそうな顔をしそうだしね」


 苦笑いするクレヴを見つめながら、クリュテは彼に対して少しだけ親近感を覚えていた。

 彼女の弟だからなのか、彼も壊れていたのである。普通の感性をしているならば、もう二度と父から教わろうとしないだろう。

 また故意では無いが自分に暴行を加えた父に恐怖し、近付こうとは考えなくなってもおかしくは無い。

 だがクレヴは、そうしなかった。彼が優しいから、という理由では片付かない。

 約束を(たが)えるのは良くない事だ、というだけで自制し、自分の感情よりも、他人の事を優先する。

 幼児がそのように考えるとは、明らかに異常のことだ。その日からクリュテは、そんな異常な彼を自分と同類、仲間だと認識するようになった。



 




 それから2年の歳月が過ぎた頃には、クリュテが抱いていたクレヴに対する嫉妬心は大分薄れていた。

 成長したことで母親への執着心に似た感情を制御出来るようになったのもあるが、クレヴへの見方が変わったせいでもあるだろう。


「ふっ……ッ!」


 頭上にまでもってきた腕を勢い良く振り下ろすその動作は、あまりに(つたな)い。これが2年間必死に剣を振ってきた成果だとは、誰にも見えないだろう。

 クレヴの剣の才能が壊滅的であったのだ。自他共に上達を感じられず、もはやその才能の無さは呪いに近いものであっただろう。

 それでもめげずに、その動作を反復して行うクレヴを傍で見続けたクリュテに彼を羨む事は出来なくなっていた。

――何て不憫な弟なんだろう、と憐れみ。そして、その憐れみを通り越し、愛おしくさえ感じるようになっていた。

 駄目な子ほど可愛い。彼女が身をもって実感した瞬間だった。


「よしっ! 今日もやるぞ! クリュテ、クレヴ!」


 クリュテ達が手に持つ得物の数倍ほどの重量があるだろう木製の剣を肩に当て、家から出てきたシルヴァが叫ぶ。

 

「お父さん、まだ素振りが終わってないから、ちょっと待って」


「そんなもん、いざって時には何の役に立たねぇよ、クレヴ! 確かに動きを身に付ける際に反復練習は有効かもしれねぇ。

 が、それはあくまで平静な状態の時だけだぜ。咄嗟に出来るようにする為には、やっぱ実践形式が一番なんだぜ?」


 基礎の段階で(つまづ)いているクレヴの言葉を払い除け、シルヴァはクリュテ達に向かって剣を構えるように言い放つ。

 あまりに強引な理論を振りかざす父親に、クレヴは不満げな表情をするも、彼の身体は素早く体勢を整えていた。

 そして、今日も分厚い筋肉に覆われた巨体が彼ら姉弟(きょうだい)に突っ込んでいき、いつものようにシルヴァの初撃でクレヴの身体が宙を舞った――


 真上にあった太陽が傾き、空の色が赤くなった頃。


「これで本当に強くなれてるのかなぁ?」


「今日は両腕が折れただけで済んだんだし、強くなってると思うよ」


 地面に倒れ荒く呼吸を繰り返すクレヴの隣に腰かけたクリュテは、首周りの汗を拭いながら彼を慰めた。


「本当に? 僕なんかお姉ちゃんみたいにお父さんとまともに剣を交わした事無いんだけど?」


「少なくとも耐久力は上がったと思う。気絶してる時間も短くなったし」


 剣の腕は全く上達していないものの、クレヴの耐久性の成長速度には目を(みは)るものがあった。

 彼が剣を握る前までは、強い風が吹いたら折れてしまいそうな枯れ木のような身体をしていたが、今ではクリュテの身体より太くなっている。

 彼が成長していない訳では無いのだ。ただ剣を振るう際には、その成長した成果が見られないだけである。

 

「これはお父さんから聞いた話なんだけど、怪我って唾を付ければ治るんだって。だから――」


 骨が折れて動きが鈍いクレヴの腕を手に取り、クリュテは自分の顔に近付けていく。そして、指の先からじっくりと舐め始める。


「ひゃっ!? いきなり何するの、お姉ちゃん?」


「これは治療だよ、クーちゃん。だから、逃げちゃ駄目。我慢して」


 クレヴの悲鳴を耳にして、クリュテの背筋にゾクリとした甘い痺れが奔るが、彼女はそれを気にせず泥と汗と混じった味のする彼の手に舌を(なす)り付けていく。

 手の甲から手首、柔らかな産毛が生えた腕に唇を這わせ、彼の腕全体を(よだれ)で汚し、それを恍惚とした感情で見つめていた。

 

 そして、シルヴァの言葉を建前にこの行為が自然とエスカレートしていき、最終的にはクレヴの全身を舐め回すまでに発展して。

 それを知ったクレアンヌが罰として、ひと月ほどシルヴァと口を聞かないようにした為に、シルヴァが『傷口に唾を付ける』という民間療法を廃絶しようと、アスタール近郊に低コストで作れる消毒薬を普及させたのは余談である。







 毎日のように剣を振っていたクリュテ達であったが、彼らはまだ遊びたい盛りの子供。シルヴァとの特訓の合間に同年代の子と遊んでもいた。

 (もっぱ)ら付き合いが深かったのは、偶然クレヴが知り合う事となったルシルであった。

 この時期のルシルは嘘や欺瞞(ぎまん)を激しく嫌い、そんな事を平気でする他人を忌避していたのだが、そんな性格をクリュテ達姉弟によって変えられてしまっていた。

 家の前で待ち伏せされ、籠城しようものなら親からの呼び出しという汚い手段を用いるのだ。

 それでも抵抗すると、最終的には腕尽くで連れていかれる。然程、頭が回らない幼いルシルに打つ手は無く、諦めて彼らの遊びに付き合う他に無かった。

 が、それが彼女の尖った心を少しずつ丸くされていった事を、彼女自身も気付かずにいた。


「――クーちゃん? ほら、『行ってきますのチュー』は?」


「え? お母さんはお父さんに『行ってらっしゃいのグー』をして無かったっけ?」


 遊びのチョイスは女児の比率が2倍であった為か、自然と御飯事(おままごと)をする機会が増えたのだが。

 ルシルは初め、自分の望んでいた役をやらせて貰えなかった。理由としては、至極簡単。ルシルの仲間内でのカーストが低かったからである。

 子供の世界も案外シビアなもので、自分の立場が低い場合は自分の要望が通らない事が多い。

 癇癪(かんしゃく)を起こしても親のように一歩下がって譲る事はしないのだ。子供とは往々にして我儘なもので、譲り合いの精神など皆無。

 自分の望みを叶えたければ、何としてでも周りの人間よりも優れた部分を見せつけ、上に立たなければならない。

 それを学ばされたルシルは、この時代に己の人格形成をしたと言っても過言では無いだろう。


「(今は『子供役』で我慢するけど、次は絶対に『お母さん役』になってやるんだからッ!)」


 そう決意するも、クリュテが参加した時にルシルの要望が通る事は一度も無かった。







 それから更に1年の年月が流れ、クリュテ達はシルヴァに連れられてアスタールにやって来ていた。


「酔った……。乗り物酔いには酸っぱい物が良いのに、何で胃液を飲み込むと余計に気持ち悪くなるんだろう?」


「鍛え方が足りねぇぞ、クレヴ! 後、酸味のある食い物なんかは酔う前に食っとかなきゃ効果は無いからな!」


 彼らを荷車に乗せて、それをアスタールまで自ら走らせたシルヴァが豪快に笑う。が、その息子のクレヴは顔面蒼白で今にも倒れそうな程にふらふらとしていた。

 そんな弟に肩を貸すクリュテは初めて訪れた場所を無言のまま、じっと眺める。彼女の故郷には無い整然とした街並みに着飾った人間が行き交い、活気に満ち溢れていた。


「そういえば今日は何でアスタールに? 村から歩いて一時間なのに、荷車を持ってきてさ」


 シルヴァから何も話を聞かされていなかったクレヴが自身の状態から意識を逸らそうと、そう問いかける。


「荷車持って来たのは村の人の買い出しを頼まれたからだ。んで、お前らを連れて来たのは別件な。そろそろ俺以外の相手とも手合わせしても良い頃だと思ってな」


 シルヴァは己の視線を手元にあるメモと店の看板を往復させながら、北へと目指す。息子と娘を率いてシルヴァの足が向かう先は身分を問わず剣の指南をしてくれる養成所。

 そこから度々剣士が輩出されるためもあるからか、正式名称を覚える気が無いシルヴァは『剣士育成所』と呼んでいた為、クリュテ達もそう呼ぶようになっていた。


「おはようさんっと!」


「「「げっ!?」」」


 シルヴァが扉を潜るのと同時に、複数の呻き声が上がる。タイミング的にも、シルヴァがここに訪れたせいだろうと、クリュテはそう察した。


「何でシルヴァさんがこんな所に来るんですか? シルヴァさんなら、もう充分にお強いでしょうに」


 指南役の一人が一旦手を止めてシルヴァの(もと)へと近寄ると、言外でシルヴァに帰るように促した。


「いや、俺じゃなくて娘と息子に此処で経験を積ませようとだな」


 シルヴァの言葉に対面している男の視線が下がり、クリュテ達の姿を確認すると彼の目が大きく見開いた。

 何故なら、同じ人間とは思えない大男の子供が何ら普通の子供と大差無かったからである。この国では一番多いであろう茶の髪と瞳をした姉弟。

 とてもじゃないが、シルヴァと血が繋がっているとは、彼には思えなかった。


「ま、まぁ、それなら構いませんけど……」


「んじゃ、暫くの間は此処で稽古をつけて貰え。夕方になったら迎えに来るからよォ」


 クリュテ達にそう伝えた後、再びメモを手に取ってシルヴァは街並みに戻っていった。







「化け物の子供はやっぱり化け物じゃねぇかッ!!」


 それから数日もしないうちに、シルヴァの話に頷いてしまった指南役の男の顔は早くも後悔の色に染まっていた。

 初めはクリュテ達を同年代のところに混ぜていたのだが、クリュテの実力があまりに突出していたせいで相手にならなかったのである。

 それで急遽、指南者側でクリュテの対応をすることとなったのだが――彼らでさえ全く歯が立たなかった。

 しかし、彼らとて教える立場に立っている人間のプライドがあり、年端のいかない少女に負け続けてはいられない。

 搦め手でも何でも、とにかくクリュテを打倒しようと必死になっていた。


「(この人の足運びは独特)」


 それに対してクリュテは相手を倒そうとする意識は低く、彼女からの攻撃の手数は男の半分にも満たなかった。

 だが、自分より弱いからといって、適当に流していた訳では無い。手を抜いている分、相手の動きを注視して、その技術を自分に取り込もうとしていたのだ。

 しかし、その技術を取り込むにしても、その動きがどういったものなのか、しっかりと理解せねばならない。

 クリュテは勝手に盗み見している為、相手に自分の技術を伝える気はサラサラ無いので、見ているだけではいけない。

 わざと隙を作って相手の攻撃を誘ったりして出来るだけ多くのパターンを試し、相手の技術を引き出す。

 本気を出すには不十分な相手ではあるが、彼女にとって未知の技を試すにはちょうど良い相手であった。


「……ッ!」


 相手の動きが鈍くなってきたところで、彼女は自分の獲物を相手の首筋に軽く当てる。これがいつの間にか手合わせの終了の合図になっていた。

 毎回同じ箇所に木製の剣を当てられる為、相手は意地でもそれを回避しようとするのだが、一度も上手くいっていない。


「今日はここまでにする」


 背を向けたクリュテに苛立ちを隠せない彼は思わず己の獲物を彼女に向けて投擲するも――難なく(かわ)されてしまう。

 それも彼が汗水垂らして習得したであろう歩法で、である。

 クリュテとしては、いち早く自分の動きにせんと無意識でやったものだったが、彼には馬鹿にしているようにしか見えなかった。


「クーちゃん、こっちは終わったよ?」


 そんな彼の逆恨みに近い視線に気付かず、クレヴを呼びに行くのだが、いつも子供達が集まっている場所に弟の姿が見当たらなかった。

 なので近くにいる子に尋ねようとするが、気色が悪そうな顔をされ逃げられてしまう。

 

「クーちゃん?」


「お姉ちゃん? ちょっと待ってて。今行くから」


 クリュテがもう一度呼びかけると、端の方からクレヴの声が聞こえてきた。

――何故、そんな所にいるのか。クリュテは疑問に思ったが、クレヴの姿を見てそれはすぐさま氷解した。


「クーちゃん、その格好……」


「うん、ちょっと転び過ぎちゃったんだ。こんなに汚すとまたお母さんに怒られちゃうかも」


 頭を掻いて笑うクレヴの身体は泥だらけであった。シルヴァとの稽古でも、吹っ飛ばされる事が多いクレヴは泥に(まみ)れてはいた。 

 が、今はそれ以上に酷い有様だと彼女は思った。そして何より、何か痛みを堪えているのか、彼の笑みは少々引き攣っているように見える。

 

「誰に、やられたの?」


「転んだだけだよ」


 自然とクリュテの口から飛び出した台詞は弟を心配するものでは無く、静かな怒りを感じさせるものだった。

 それを感じ取ったクレヴは誤魔化そうとするも、おどおどとした仕草のせいで何か隠している事は明らかであった。

 顔に表れないものの、クリュテの内側では沸々と激しい憤怒に溢れていく。掌の内にあった剣の柄が易々と砕け散り、刃の部分が地面に落ちる乾いた音が鳴り響く。

――ここまではっきりとした激情は彼女にとって初めての事であった。


「……殺す」


「待って、お姉ちゃんッ!!」


 ドスの利いた声にクレヴが慌ててクリュテの腕を強く掴む。彼女にとってクレヴの制止など、全力を出さずとも軽く振り払える。

 むしろ全力で振り払おうものなら、彼の身体が宙を飛び、どこかに衝突した際の衝撃で大怪我を負わせる事も可能だ。

 身体の内側で渦巻く感情の奔流のせいで力の制御が上手くいきそうにないとクリュテは判断すると、渋々その場に留まった。


「……お姉ちゃんの想像通り、確かに僕は嫌がらせをされてるよ。お姉ちゃんが僕の為に怒ってくれてるのも嬉しい。

 けど、もし僕が今止めようとしなかったら、お姉ちゃん、僕を嫌がらせした子に暴力を振るいに行く気だったでしょ?」


 クリュテは静かにゆっくりと首を縦に振った。クレヴと同じ目に、それ以上の事に遭わせなければ気が済まなかった。 

 

「お父さんに暴力はいけないって言われてるでしょ。それにお姉ちゃんの力は強いんだからさ、痛いじゃ済まないかもしれないんだよ?

 傷が治らなくなるかもしれないし、死んじゃうかもしれない」


「でも、クーちゃんは暴力を振るわれた」


「そうだね。でも、僕に悪いところがあってさ、それで暴力が振るわれたんだと思うんだ。それさえ直せば、きっと暴力は無くなるよ」


「でも、でも……ッ!」


 クレヴの言い分に、クリュテは納得がいかなかった。

 やられたならば、やり返せば良い。我慢しても、やられっぱなしになるだけだ、と彼女は理解していたのだ。

 攻撃する意思がある限り、決して矛を収めようとはしない。蟻を大量虐殺する子供のように、飽きるまでその手を止める事は無いのである。

 

「それにさ、こっちから嫌いになってたら、いつまで経っても仲良くなれないって。友達になれれば、きっと此処に来るのも楽しくなると思うし」


 しかし、クレヴは微塵もそんな事は考えていなかった。この世に悪意が無いと信じ切っていた。今は嫌われていたとしても、いつかはきっと仲良く出来る。

 好意を示せば、必ず好意は返ってくると。根っからの悪人などいないと。自分から嫌悪しなければ、分かりあえると本気で信じていた。

――クレヴも人として、どこか壊れていたのだ。







 それからもクリュテはクレヴが酷く苛められる姿を何度も見る事になるのだが、全てに目を瞑った。

 カッと頭に血が上り、思わず手が出そうになったが、苛められる本人であるクレヴに抑えるように言われ、クリュテは我慢する他に無かった。

 両親の前では決して嫌な目にあっていないかのような素振りを見せるクレヴの努力も無駄にしたくも無かったのだ。

 

 養成所に通い始めて数カ月が経ち、クリュテの耳にクレヴが何故苛められていたのか知る事となった。

 その情報源は偶然彼女の傍を通りかかった少年達の会話。その内容はクリュテに対しての醜い(ねた)みや(そね)み。人形のように不気味だ、というのもあった。

 表情の変化が乏しいクリュテにぶつけても、つまらない。だったら、その弟のクレヴにぶつけてやろう

、というものだった。

 彼らにとって、クレヴは絶好の的であったことだろう。

 剣の腕もクリュテと違って、度が過ぎる程に下手であるので見下す事が出来、痛めつけた際に見えるクレヴの苦痛な表情が彼らの嗜虐(しぎゃく)心を満たした。

 また、彼らが木剣を全力で振りかぶっても、クレヴの身体に目立った外傷が出来なかったのも大きかっただろう。

 出血したり、骨が変な方向に曲がったりなどすれば、罪悪感や気味の悪さに手を止める事があるのだが。

 クレヴの場合はシルヴァに鍛えられ、普通よりも頑丈だったのが仇になったのである。


――そして養成所で開かれた剣術の大会日。クレヴは自室から出て来なかった。

 身体が丈夫になってから一度も病気を患った事は無い為、珍しいことだった。

 前日に緊張して眠れなかったのかな、と考えたクリュテはクレヴの部屋の合鍵を使い、そっと中へ入る。

 あわよくば、クレヴと添い寝を狙ったクリュテであったが――クレヴの尋常でない様子に、硬直してしまう。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい――」


 ベッドの上で丸くなりながら、ぶつぶつと呟き続けるクレヴ。クリュテは彼に近付き、声をかけるが反応が無い。

 

「クレヴ……?」


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい――」


 虚ろな瞳で虚空を見つめながら、クレヴはひたすら謝罪の言葉を続ける。明らかに異常な状態だと今になってようやく飲み下せたクリュテがクレヴの肩を掴む。

 が、短く悲鳴を上げたクレヴにその手を払い除けられ、


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい――」


 涙を流しながらクリュテに頭を下げ続けた。


「(一体、何が……)」


 クリュテは考える素振りをするが――クレヴがこうなってしまった原因は既に分かっていた。

――心の許容量が超えてしまったのだ。


 ずっと1人で悪意に耐え続け、その悪意もいつかは変わると信じ続けたが――悪意は悪意のまま、彼の精神をガリガリと削り切った。

 彼の信じ続けていた優しい世界は踏み(にじ)られ、暗い闇に叩き落とされた。


 何故、クレヴが謝り続けるのか。それはクリュテにも、両親であるシルヴァやクレアンヌにも分からない。

 被害者は話が出来ない状態に陥り、加害者と事情を知るであろう関係者は大会から1週間以内に憎しみに駆られる通り魔に全員命を落とした。

 ただ分かるのは、元々壊れていた彼が、更に壊れてしまった事だけだった。







「本当に行くの?」


「うん」


 クリュテは長旅が出来るような荷物を背負うと玄関で心配そうな顔をするクレアンヌに頷きを返す。


「私がいると、クーちゃんが苦しめちゃうから」


 クレヴが『ごめんなさい』という言葉を発し続けること5日。彼の甲高い声は枯れ、体力を使い果たしたのか、死んだように眠ること3日。

 再び目を覚ました時のクレヴは――魂が抜けてしまったかのようになっていた。瞳は濁り、口はだらしなく開きっ放しで呼吸を繰り返すだけ。

 植物人間状態に陥ったまま、もう二度と元に戻らないのでは、と誰の目に思われたのだが。

 クリュテの姿が目に入った途端に、クレヴが口から血を吐いてもあの時と同じくずっと謝罪を続けるようになっていたのだ。

 

 何をしても反応が返ってこなかったクレヴが、苦痛なものとはいえ、反応を見せてくれる。

 荒療治とも言えぬ目茶苦茶な事ではあるが、それでクレヴの意識が戻るのでは、とクレアンヌは考えたのだが。

 クリュテはそれに反対し、自分はクレヴの許から離れ、気長にクレヴの意識が戻って来るのを待つ事を選んだ。

 

「(ホント、私に似たのかクーちゃんは不器用なんだから……)」


 他人の戯言など、流してしまえば良いのにクレヴはそれをまともに受け止めたのだろう。他人から傷付けられているのに、『自分が悪い』と更に自分を傷付ける。

 それは今も尚、続いている。

 クリュテは外側に表すのが不器用で、クレヴは内側で処理するのが不器用だった。

 どこか似ているのに、まるで正反対な性質を持っている。不思議だな、とクリュテは胸の内で少し笑う。


「それに、旅する目的はちゃんとあるから」


 いつだったか、誰が書いたかも分からないボロボロの書物を読むクレヴが発した独り言を盗み聞きしたクリュテが一方的に決めた、約束。

 その葉で作られた薬はどんな傷でも癒し、その根で作られた薬はどんな病でさえ治してしまう、幻の大樹――セフィロトの樹。

 その大樹を見つけ、村に種を持ち帰る事。それが、クレヴの夢であり、彼女の目的であった。

 まるで夢物語に出てくるような存在だが、こうして書物に残っているのだ。それは存在しない、とは言い切れないだろう。


「それじゃ、行ってきます」











「ぐ、(ぐる)しい……」


 蛙の鳴き声のような声が耳に入り、クリュテは(まぶた)をゆっくりと開ける。

 辺りの闇は深いものの、しっかりと分かる間近にあるクレヴの顔。どうやら彼女は結構な力でクレヴを抱き締めて眠っていたらしい。

 腕に込めた力を緩めると、クレヴの眉間から皺が無くなり、再び安らかな寝息を立て始める。


「(強く、なったんだろうね)」


 少なくとも、クリュテの顔を見ても心が押し潰されないくらいに。明確な悪意に立ち向かえるように。


「(出発前にお母さんが、クーちゃんの心を強くするって言ってた成果なのかな?)」


 確かに、辛い記憶を頭の奥底に封じ込め、真実を歪めてしまった事もあるかもしれない。

 だが、それでも構わないとクリュテは思う。

 まだまだクレヴとは20にも満たない子供だ。未熟なところがあって当然なのである。

 

「(数年越しに、わっと驚くような成長を見るのは良いけど。今度はゆっくり成長する姿を見ていたいなぁ)」


 クリュテはそっとクレヴの頭を撫でながら、ゆっくりと瞳を閉じた。

 

セフィロトの木は元ネタとは全くの別物となっております。


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