↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
44/46

少年の問い

 翌朝、城外の馬超(ばちょう)の陣に朝廷の使者が訪れた。

 楊彪(ようひょう)からはもう少し話を聞きたいと伝えられていた。

 馬超はその招きかと思ったが、使者が告げたのは天子自身の召命であった。


「正式な謁見は、安狄将軍(馬騰)がお着きになってから整えられます。本日はその前に、内々に馬県令と話をしたいとの仰せです」

 馬超は承知した旨を答え身なりを整えた。

 昨夜詰めた城外の陣立ては龐徳と馬岱に任せればよかった。


(昨日、三公の前で随分と好きなことを言ったからな。父上より先に陛下へ呼ばれるとは思わなかったが)


 さらに使者からは対面の後に楊彪が話をしたいので別室で待つようにと言い添えられた。



 案内されたのは、昨日の大広間ではなかった。

 治府の奥の一室に、楊彪、趙温(ちょうおん)張喜(ちょうき)の三公が控えている。

 その上座に、まだ少年の面影を残した天子が座していた。

 馬超は進み出て膝をつき、深く平伏した。

 取り次いだ従者が足音を忍ばせて下がり、室内には五人だけが残される。


()県令、臣馬超。お召しにより参上いたしました」

「面を上げよ」


 澄んだ、だがどこか頼りなげな声に従って姿勢を正すと今上の天子、すなわち劉協(りゅうきょう)の顔が見えた。

 衣冠こそ整えられていたが、頬はこけ目元には疲労が濃く沈んでいる。

 じっとこちらを見据える眼差しは硬く、馬超と視線が合うとわずかに唇を結び直した。


(……普通の少年だな。俺より五つほど下か)


 失望したわけではない。

 天子だからといって、生まれつき超然とした威厳が備わっているなど端から思っていなかった。

 ただ、昨日まで自分が「天子の御旗」などと(うそぶ)き、天下を動かすための駒として計算していた相手がこうして血肉の通った生身の姿で目の前にいる。

 その事実が、奇妙な重みとなって胸に落ちてきた。


 董卓(とうたく)によって幼くして帝位に押し上げられ、その後も李傕(りかく)郭汜(かくし)の私闘に巻き込まれて長安からさらに西の(ろう)まで逃げてきたのだ。

 どこへ向かい誰を頼るかさえ、自らの意志で選べたことなど一度もなかったのだろう。


 馬超には前世の知識があり、父の兵力も配下もある。

 数奇な人生ではあっても自らの足で立つ道を選べていた。

 その点では天下の主であるはずのこの少年より自分の方が遥かに自由であった。


(俺が十五、六の頃など国の命運どころか明日のことすら考えていなかったぞ)


 不憫だとは思った。

 だがそれを表情には出さず、馬超は背筋を伸ばして次の言葉を待った。


「陛下。昨日奏上いたしました通り、この馬超が二千五百騎を率いて先行しております」


 楊彪が口を開くと、劉協はうなずいた。


「聞いている。安狄(あんてき)将軍は、ひと月ほどのうちに来るとのことであったな」

「第一陣を迎える支度を進めております。出立の報せが届き次第、改めて奏上いたします」


 張喜が答え、趙温が兵糧と宿営の手配について補った。

 関中の諸将にも使者を送り、馬騰が到着した後、正式な謁見と討伐軍の編成を整える。


 馬超も、張繍(ちょうしゅう)との取り決めを短く報告した。


「城外の街道と糧道は、臣の兵で警戒いたします。城内との連絡も、張将軍と定めております」

「そうか。皆、支度を進めてくれ」


 劉協は説明を聞き、一つずつ応じた。

 多くの話を整えているのは三公である。

 しかし、三人とも一方的に決めているわけではなかった。

 時折言葉を止め、劉協が理解したか、問いがないかを確かめている。


 今の朝廷に必要なことを、経験のある臣が先に整理しているのだろう。

 やがて劉協が馬超へ目を向けた。


「馬超。そなたと、そなたの父の安狄将軍を頼みにしている」

「臣、力を尽くして陛下にお仕えいたします」


 馬超は頭を下げた。

 昨日、公卿へ約束したことを今度は天子本人にも言上した。

 それ以上の意味をその一言へ無理に持たせるつもりはなかった。


 今日の対面はこれで恙なく終わるものだと思っていた。

 楊彪が引き取りの礼を執ろうとした、その時である。


「そなたは、漢を立て直すと言ったそうだな」


 劉協が、ぽつりと呟いた。

 その言葉に応じるように馬超が顔を上げる。

 劉協は少し言葉を探すように言いよどんだ後、真っ直ぐに馬超を見据えて言った。


「これから漢は、どうなる」


 劉協は少し間を置いた。


「朕は……どうすればよい」


 静かな室内に、少年の吐露が落ちた。

 三公の表情が変わった。

 楊彪の眼差しが一段と鋭くなった。

 張喜も表情を引き締め、趙温は痛ましげに劉協へ顔を向けた。


 だが、黙したまま口を挟まない。

 天子自身が発した問いである。

 それを代わって答えてしまえば、問うた意味まで奪うことになる。

 同時に、昨日あれほど大胆な言葉を吐いた若者がこの問いに何を返すのか、それを見極めようとしていた。


(これは困ったな。二賊を討てるかなら大見得も切れるが、漢がこれからどうなるか、か)


 知っている歴史は、すでに変わっている。

 曹操が迎えるはずだった天子は隴におり、自分は馬氏の兵で関中を取り戻そうとしている。


 しかも劉協が尋ねているのは、天下の勢力図だけではない。

 自分は天子として、何をすればよいのか。

 目の前の少年は、その答えを求めていた。

 馬超は少し考えてから答えた。


「漢は、まだ立て直せます。臣はそのために参りました」


 劉協は黙って聞いていた。


「ただ、李傕と郭汜を除けば天下がすぐ元へ戻るとは申しません。関中を取り戻した後にも、田を治め、人を戻し、朝廷の政を立て直す仕事が残ります」

「それは、そなたたちがしてくれるのだろう」


 劉協は迷うように言った。


「朕には、何ができる」


 馬超は、できるだけ平易な言葉を選んだ。


「陛下には、臣らの申し上げることをお聞きになり、分からぬことや、違うと思われることを、お問いただきたいのです。今のように」


「問うだけでよいのか」

「はい。問い、よくお考えになって、お決めください。誰か一人の言うことだけで、何もかもお決めになる必要はございません」


 そして、馬超ははっきりと言った。


「それは我が父に対しても、この私に対しても、です。大軍を持っているからといって、その言いなりにならねばならぬ道理はございません」


 劉協は返答を失ったように口を噤んだ。

 その唇が微かに震え、やがて絞り出すような低い声が漏れた。


「……それでも、言うことを聞かぬ者はいる」


 馬超は深く頷いた。

 董卓がそうであり、李傕や郭汜がそうであった。

 問い質したところで、彼らは抜身の刃を突きつけて天子の言葉を押し潰してきたのだ。


 問いただすだけで済むのなら、この少年が着の身着のままで隴まで逃げてくるはずもない。

 天子なのだから堂々と意見を言えと求めるだけでは、これまで彼がどれほどの恐怖に晒されてきたかを無視した無責任な物言いにしかならない。


「そのお言葉を兵で封じる者を除くのは臣らの務めです」


 馬超は続けた。


「まずは陛下が、御身の危険を案じずに政をお考えになれるところまで、道を開きます」


 劉協は膝の上で握りしめていた拳を、ゆっくりと緩めた。


「では……これから何が起きているのか、朕にも知らせてほしい」


 楊彪がわずかに身じろぎしたが、やはり口は挟まなかった。


「奏上は聞いている。だが、分からぬうちに話が先へ進むこともある。戦がどうなっているのか、これからどこへ向かうのか。朕も知っておきたい」

「臣が見聞きしたことは陛下にもお伝えいたします。戦のことも道中で見たことも、奏上いたしましょう」


 最初に口にした「力を尽くす」という言葉とは、少し違った。

 今度は漢の天子へではなく、目の前の劉協が口にした望みに答えていた。

 劉協の強張っていた顔が、わずかに和らいだ。

 抱えていた怯えが消え去ったわけではない。

 それでも、先ほどよりもしっかりとした声音で言った。


「頼む。そなたも、よく励んでくれ」

「謹んでお受けいたします」


 馬超が拱手して礼を取ると、楊彪が静かに劉協へ向き直り他に下問はないかを確かめた。

 劉協は少し考え、もう十分だと首を振った。



 部屋を辞した馬超は楊彪を待つため別室へ通された。

 (しょう)に腰を下ろしても、先ほどの劉協の表情が瞼の裏から離れなかった。


 昨日は、天子の御旗があれば関中の諸将を動かせると語った。

 その権威を使って父を大きくし、自分も功を立てる。

 その考えを捨てたわけではない。


 だが、その御旗の向こうにいる人間をもう知らなかったことにはできない。

 自分もまた、天子の名を利用しようとしている側である。


 だからこそ、李傕や郭汜と同じことだけはしてはならない。

 自分が何のためにどこへ運ばれていくのかも知らされないまま、都合のよい神輿として担ぎ回される。   

 それをあの少年がどれほど嫌悪し、怯えていたのかは痛いほど分かった。


(漢を輔ける、か。ずいぶん大きなことを言ったが……まずは、あの少年が自分の言葉で話せるようにせねばな)


 ほどなく、廊下の向こうから人の足音が近づいてきた。

 楊彪との話はまだ残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。