広間の声
馬超らが辞し、続いて三公も奥の小部屋へ下がるとそれまで押し殺されていたざわめきが波のように広がり始めた。
先ほどまで一人の若者へ注がれていた視線が、それぞれの割り当てられた実務へと散っていった。
その机の合間を縫うようにしてひそひそとした囁きが漏れる。
「父君の返書も届かぬうちに、長安どころか洛陽まで陛下をお戻しすると言い切るとは……」
若い郎官の呟きだった。
感嘆とも呆れともつかぬ声音に、隣で木簡を束ねていた年長の官人が眉をひそめる。
「口にするのとやり遂げるのは別だ。あのような大言を触れ回り、万一果たせねば陛下のお言葉まで軽く見られる」
「されど、二千五百騎を率いて来た働きは大きいでしょう」
「来援の功と、分を弁えぬ言動は別だ」
別の卓では、先帝の政を論じたことへの不満が漏れていた。
「才はあろう。だが、あの若さであのように言い切られてはな」
「道理からは外れておらぬが」
「理が通れば、言い方まで許されるものでもあるまい」
董昭は筆を動かしながら聞いていた。
二千五百騎を届けた救援者を語る者と、先帝を批判した県令を語る者では同じ若者を見たとは思えない。
どの言葉が耳に残ったかで馬超の姿は既に変わり始めていた。
「公仁、文和」
士孫瑞が手元の文書を置き、顔を向けた。
董昭と賈詡が筆を止める。
「冀では、あの若者と随分と膝を突き合わせたようだな」
静かな声だったが、近くにいた官人たちの筆の音がわずかに止まった。
「……あの者に、どこまで知恵を授けたのだ」
穏やかな問いかけではあったが、単なる好奇心でないことは明らかだった。
馬超と同道してこの隴まで連れてきたのは賈詡と董昭である。
あれほど都合よく馬氏の協力を説き戦後の権力の境界線まで理路整然と語ったとなれば、二人が裏で入念に筋書きを吹き込んだのではないかと疑う者が出るのも当然であった。
だが、董昭は取り繕うことなく答えた。
「父君の功をどう立て、関中を取り戻したのち馬氏がどのような役目を求めるべきか。その相談はいたしました」
董昭は認めた。
「軍を率いる地位は必要です。されど朝廷の政まで抱え込めばかえって疑いを招く。そのような話です」
士孫瑞は賈詡へ視線を移した。
「二賊討伐の勝算については?」
「関中の諸将が、みな李傕と郭汜に心服しているわけではないと伝えました」
賈詡は何の気負いもなく、淡々と答えた。
「馬氏の兵だけで敵のすべてを相手取る必要はない、とも」
「では、今日の名分も二人の差し金か」
賈詡はわずかに首を振った。
「経書を引いて公卿と論じよとは、申しておりません」
董昭も苦笑を漏らした。
「あのように先帝の政道へまで踏み込むとは、私も思い至りませんでした。父君をどのような功臣として立たせるかも、随分と先回りして決めてしまったようですな」
士孫瑞は、その言葉に笑わなかった。
「一月で六千という数も、前もって決めていたのか」
「いいえ」
董昭は即座に否定した。
「馬騰殿からの返事を待つ時間もございませんでした」
「では、あれは本当に本人の見立てなのか」
「さて、我らも馬氏の懐事情までは探りかねますゆえ」
董昭は言葉を切り、それから付け足した。
「もっとも、本人があそこまで大見得を切った以上、父君にも腹を括って引き受けていただかねばなりませんが」
士孫瑞は、馬超たちが去っていった扉の向こうへ視線を遣った。
賈詡や董昭の知恵を借りたのは確かだろう。
だが、二人の敷いた筋書きをただ鸚鵡返しにしたわけでもない。
何より、あの場で請け負った兵数と期限は馬超自身が己の首を懸けて引き受けたものであった。
「馬騰殿が功を立てられれば、賈侍中のご推挙も大きな働きとなりましょうな」
離れた席から声がした。
丁寧な口調だが、含むところは明らかだった。
馬氏が勝てば頼るよう勧めた者の発言力も増す。
賈詡は朝廷を助けるとともに、己の将来も整えようとしているのではないか。
「役に立ったと認めていただけるなら、ありがたいことです」
賈詡は表情を変えず答えた。
「馬氏が敗れれば、私も責を問われましょうが」
無欲を装いもせず、それ以上の望みも語らない。
声をかけた官人は、曖昧にうなずいた。
言い訳もせず、自らの野心を語ることもない。
推挙した以上、成否の責任はすべて己に跳ね返る――そう平然と言ってのけただけだった。
士孫瑞もそれ以上、賈詡の腹の内を探らせるのを止めた。
「ならば、その分も働いてもらおう」
「承知しております」
「関中の諸将への使いを急がせてくれ。馬氏の兵だけが来て、他は動かぬでは困る」
「返事を待つだけでなく、こちらからも次の手を打ちましょう」
賈詡は、使者を待たせていた方へ戻った。
疑いが解けたわけではない。
だが、薦めた者にも結果を負わせ働かせる。
その点について、士孫瑞は話を済ませたのであった。
◇
「伏僕射」
文書を抱えた郎官に呼び止められ、伏徳が振り向いた。
「何だ」
「いえ…馬氏の来援には、なおお反対でしょうか」
伏徳の眉根が寄った。
「誰がそのようなことを申した」
声は低かったが、近辺にいた官人たちが思わず手を止めて振り返った。
「私が問うたのは、兵が来た後に朝廷の権まで渡すのか、ということだ。二賊を討つ兵が要らぬとは申しておらぬ」
「も、申し訳ございません」
馬氏の権を警戒したことが、来援そのものへの反対として伝わっている。
さらに進めば、討伐を妨げる外戚にされかねなかった。
父を失い、それでも帝后に従ってきた末に、そのような名を背負うつもりはない。
「それに」
伏徳は冷ややかに言葉を継いだ。
「馬超とて、外戚というだけで功ある者を退けよとは申しておらぬ。言ってもおらぬことを勝手に憶測するな」
郎官が意外そうに顔を上げた。
伏徳は、馬超を信用したわけではない。
だからこそ、何を約束したかを正確に覚えていた。馬氏の兵が来た後に、その言葉が守られるかを見届けるつもりである。
二人のやり取りを見ていた士孫瑞が間に入るように言った。
「援軍を迎えることと、朝廷の誰かを退けることは別の話だ。まだ何も定まってはおらぬ」
「重々承知しております」
伏徳は一礼し、それ以上言い添えることなく広間の端へ戻った。
自らの懸念が単なる面倒な異論として片づけられるのか、それとも馬氏が誓約通りに動くのか。
最後まで自分の目で見届ける覚悟であった。
◇
「士孫令君、奏上には馬超本人の働きも記すべきでしょう」
鍾繇が、書きかけの報告を示した。
「二千五百騎を率いて先行したのは、既に果たした働きです。父の兵が来ると申しただけの使者として扱うべきではありません」
「先陣の申し出もあったな」
「それは今後のこととして。父君が着くまで行在を支え自らも討伐で働くと申し出たことは、陛下にお伝えすべきかと」
「そうだな。書き添えておこう」
士孫瑞は書吏に筆を執らせた。
その傍らで、衛尉の周忠が口を挟んだ。
「張将軍らの相談が済んだら、こちらへも報告させよ。宮門の兵にも城外とどう連絡するか知らせねばならぬ」
「後続の馬の数も要りますな」
韓融が兵数の記録へ指を置いた。
「六千のうち騎兵がどれほどか。荷を運ぶ馬もある。人の糧だけ備えて、飼葉も水も足りぬでは話にならぬ」
大きな数字はここでは馬を繋ぐ場所や刈り集める草の量へと変わる。
董昭は担当者へ渡す文書にその問いを書き加えた。
「令君、その書は私が届けましょう」
先ほど伏徳の前で頭を下げた郎官が進み出た。
「城外の様子も確かめてまいります」
「では、張将軍と馬超に渡してくれ。相談が済み次第返答を持ち帰るように」
郎官は文書を丁重に受け取ると、足早に広間を出ていった。
董昭はその背中を静かに見送っていた。
職務に忠実なのは嘘ではないだろう。
だが、先刻まで「一介の県令」に過ぎなかった若者が、近く朝廷で重く用いられるかもしれない――ならば早いうちに顔を繋いでおこうと打算が働くのも、官界の習いであった。
馬超の官職はまだ何一つ変わっていない。
それでも、周囲の視線と空気は確実に変わり始めていた。
◇
文書を受け取った吏人たちが次々と広間を出ていった。
廊下で待つ者へ伝わるのは長い問答の全てではない。
馬騰が六千を率いて来ること、二賊を討つこと、長安を取り戻し、いずれは洛陽へ還ることだった。
「では、長安へ戻れるのでしょうか」
従者の問いに、戻った吏人が足を止めた。
家族や家を残してきた者にとって、還御は朝廷だけの話ではない。
「まず安狄将軍の兵を迎えねばならぬ。話は、それからだ」
そう答えながらも、吏人は従者に残してきた家のことを尋ねた。
董昭はそのやり取りを聞き、書を巻いた。
馬超の約束に皆が別々の望みを重ね始めている。
帰る場所、家の安全、失った役目。
本人が一つずつ請け合ったわけではないが必ず勝つと聞けばその先を思わずにはいられない。
董昭は肩を落とし小さく息を吐いた。
「……馬騰殿には一日も早く来ていただかねば困るな」
金城からの返書はまだ届いていない。
だが、広間を出た言葉の中では馬氏は既に関中を救う軍として語られ始めていた。




