老臣の胸中
馬超、張繍、徐晃らが退出した後も、広間では百官たちのざわめきが続いていた。
士孫瑞は書吏に宿営と官倉を確かめさせ、鍾繇と董昭は諸将へ送る文書を検めている。
三公はその場を任せ治府の奥にある小部屋へ移った。
従者が湯を置いて下がると、張喜が息を吐いた。
「父の返書もないのにひと月で六千を連れてくると言い切った。随分と気の早い息子だ」
「父の意を伝えたのではなく、父をそう動かすつもりなのでしょうな」
趙温の返答に、楊彪は短く言った。
「大言ではある」
「大言だけならばよい。困るのは我らがそれを当てにせねばならぬことだ」
張喜は袖を引き直した。
「兵は来る、糧は要るとして支度をする。後になって父の返事は違いましたでは済まぬ」
「返書がないことは我らも聞いている。承知して引き受けさせたのであろう」
趙温に返され張喜はむっつりとうなずいた。
息子が父をどこまで動かせるか三人にも分からない。
それでも軍が着くまで何もせず待つことはできなかった。
「ただ、私が案じているのは来援だけではない。むしろ勝った後だ」
張喜は声を落とした。
「まだ持っておらぬ権力を、握らぬと約するのは難しくない。李傕・郭汜を討ち馬氏の兵が関中に満ちた後にも、あの若者は同じことを言えるか」
兵を出せば糧も金も費える。
将兵は褒美を求め、朝廷の回答が望みに及ばなければ不満を抱く。
家を栄えさせたい馬超自身もその外にはいられない。
「父を諫めると言ったが、父だけを諫めれば済む話でもない。配下の将兵が騒いだ時、奴その言い分をもっともと思うかもしれぬ」
「だからこそ、今の言葉は忘れさせぬ方がよい」
「忘れさせぬことと、守らせることは別だ」
趙温はその指摘を否定せず、しばらく考えてから答えた。
「されど、降った者に働く道を与えるという考えまで若者の大言として退ける気にはなれぬ」
「巴郡でのことか」
「うむ。私が板楯の者たちに向き合った時も、従わぬなら兵を出せという声はあった」
趙温はかつて太守として、恩信によって板楯と呼ばれる蛮夷を服属させた。
三公となった今も、その折のことはよく覚えていた。
「一人の長がこちらの申し出を聞いて、次の太守も同じことを言うのかと尋ねたことがある」
趙温は少し間を置いた。
「私が何を約してもそれだけでは足りなかった。官が代われば取り立ても変わる。郡で決めたことが、そのまま郷里で守られるとも限らぬ。そう思っていたのだろう」
「それに何と答えた」
「私のいる間は守らせる。それ以上のことは言えなかった」
初めから官を信じて訪ねてきた者ではない。
言葉を尽くすだけで疑いが消えることもなかった。
それでも約したことを行ううち、兵を収めて従う者が出た。
「恩信で人が従うというのは書の中だけの話ではない」
「だが、板楯はその後もまた叛いた」
趙温は器へ伸ばしかけた手を止めた。
後年、巴郡の板楯が再び兵を挙げたことは知っている。
それを全て後任のせいにして自分の治績だけを誇るつもりもなかった。
「一度約せば、二度と乱れぬ土地にできたとは申さぬ。それでも兵で追い続けるより他に道がなかったわけではない」
趙温は張喜を見た。
「続かなかったことと、できなかったことは同じではあるまい」
「続けさせる者まで揃えねばならぬ、という話だ」
「その通りだ。だから吏を選ぶと答えたところも聞いていた」
巴郡と涼州では土地も人も違う。
自分の経験をそのまま当てはめることはできない。
だが、従った者をいつまでも賊と呼んでいては従う利もなくなる。
「あの若者は羌だから信じるとも、漢人なら信じるとも申さなかった。相手が何を求め、何をすれば離れるかを見ようとしている。そこは買う」
張喜はそれ以上、趙温の経験を否定しなかった。ただ、馬超が自分一人で守れぬ約束まで重ねたことへの懸念は残していた。
「言葉を選ぶことは、まだ覚えねばなるまい」
二人の話を聞いていた楊彪が口を開いた。
「先帝の政を論じ、孝の用い方が誤りだったと断ずる。理が通れば言い方まで許されるものではない」
「伏徳のことか」
「父を失い、なお皇后に従ってきた者の前だ。しかも外戚の権を退けた後に来るのは、馬氏の軍ではないか。伏徳が疑うのは当然であろう」
馬超が正しい言葉を使ったからといって、その言葉で誰が利を得るかまで見逃すわけにはいかなかった。
だが楊彪の胸にはそれとは別の思いも残っていた。
象の故事も、『孝経』の諫争も、経書を学ぶ者には馴染みのある話である。
親しい者への恩と朝廷の権を混同してはならぬという戒めも、馬超に教えられるまでもない。
楊彪の曾祖父の楊震は安帝の乳母王聖とその娘の専横を諫めた。
天子を養育した労は認めながら、恩に任せて政を乱すことを止めようとしたのである。
その奏上は王聖らにも漏れ、かえって恨みを買った。
さらに近臣の不正を追及した末、楊震は讒言によって太尉を免ぜられ帰郷を命じられた道中で毒を仰いだ。
楊彪にとってそれは書物の中だけの戒めではなかった。
諫めるべきことを知らなかったのではない。
諫め、身を失ってもなお止められなかったのである。
馬超はまだ正せると信じているようだった。
父を漢の功臣として立たせ、その父が道を誤れば自分が諫める。
楊彪にはその見通しが危うく聞こえた。
それでも、馬超は父の利益を隠して無欲を装わなかった。
父を売って自分だけ忠臣になる答えにも、ただ従うことを孝とする答えにも逃げなかった。
「句をよく覚えているだけならさほどのことではない。奴は、その言葉を己の家へ返されても答えた」
楊彪が言うと、張喜が顔を上げた。
「彼を買うことと、馬騰殿を信じることは別ぞ」
「それは分かっている」
今日、三公が見たのは息子である。
父がその約束を喜ぶのか、余計なことをしたと怒るのかはまだ分からない。
「馬騰殿が着いたときに、本人がどこまで引き受けるか聞けばよい」
趙温が言った。
「ただ、間にこちらの言葉を理解して返せる者がいる。その価値まで小さく見ることはあるまい」
「賈詡と董昭が、どこまで教えたものか」
「助言は受けていよう。それ自体を咎める気はない」
楊彪は答えた。
「父への諫言についても前もって話していたかもしれぬ。だが、伏徳から問い返された時も二人へ答えを求めはしなかった」
賈詡らがどれほど言葉を整えたかはこれから確かめればよい。
二人が黙っている間自らの名で約束したのは馬超である。
賈詡が馬氏を頼ることで、己の居場所も得ようとしていることは考えられる。
それでも、その進言が天子を隴へ導いた働きは消えない。
推薦されたから信じるのでも、推薦者を疑うから退けるのでもない。
楊彪は、今日見た若者を、その働きと答えによって用いるつもりであった。
◇
廊下から、士孫瑞へ取り次ぎを求める声が聞こえた。
張喜が立ち上がった。
「私は宿営の支度を見てくる」
「では、糧の方はこちらで確かめよう。兵が来てから、民に出せと迫るようではならぬ」
趙温も腰を上げた。
言葉を信用するかどうかだけを論じていても援軍は養えない。
二人は疑いも期待も残したままそれぞれの仕事へ戻ろうとしていた。
「明日の引見が済んだら、あの若者とはもう少し話しておきたい」
楊彪の言葉に、張喜が振り返った。
「随分と気に掛けておられる」
「あれだけのことを申したのだ。確かめることは多い」
二人が出た後、楊彪はしばらく席に残った。
父を漢の功臣として立たせたいと馬超は言った。
軍の数と期限まで先に決めてしまう性急さと、父の死後の名まで考えるところが同じ若者の中にある。
誰に学び、誰と語り、何を見てきたのか。
軍閥の息子としての答えだけでは、まだ分からぬことが多かった。
楊彪は家人を呼び、翌朝の引見後、馬超に立ち寄るよう伝えさせた。




