涼州の謀士
長安の大路を外れて細い路地へと入ると、喧噪が次第に遠ざかり、代わって瓦礫と静けさが支配した。
両脇の建物は屋根を失い、壁だけが骨のように残る。
所々に焚き火の跡があり、浮浪者が影のように潜んでいる。
龐徳は低声で囁いた。
「若、本当にこのような都に、まだそれほど士が残っているのでしょうか」
「いるとも」
馬超は迷いなく答える。
「賈文和――彼ほどの智謀の士ならば、この混乱をも己の糧とする。……だが、味方に付けるのは容易ではないだろうな」
賈詡は字を文和といい、もともと凉州出身。
董卓の死後、李傕らの配下に加わり、尚書として政務を執った。
その才は「毒士」とも呼ばれ、乱世の梟雄すら手玉に取ると伝わる。
馬超は前世の記憶から、その名を深く刻んでいた。
やがて一軒の邸宅の前に辿り着く。
瓦こそ落ちていたが、門は手入れがされ、周囲よりも異様に整っている。
門前に佇む二人の従者も、他の荒くれとは違って身なりを正していた。
龐徳が小声で呟く。
「……ここだけ別の世のようですな」
馬超は頷き、門前へと進む。
「すまぬ、ここは賈将軍のお屋敷か」
従者の一人が目を細め、怪訝そうに二人を見やった。
「あなた方は?」
「安狄将軍馬寿成の子、馬孟起と申す。賈将軍にお目通りを願いたい」
従者は一瞬眉をひそめたが、すぐにもう一人と視線を交わし、奥へと走った。
龐徳が低声で尋ねる。
「若、本当に賈将軍は会ってくださるでしょうか」
「会ってくれることを祈るしかない。だが俺の狙いを聞けば、動いてくれるだろう」
やがて従者が戻り、無言で門を開けた。
中からは、外の荒廃とは打って変わって整えられた庭の景色が覗く。
竹が揺れ、香が漂い、まるで乱世の真ん中に切り取られた静寂の島のようだった。
馬超は深く息を吸い、龐徳とともに邸内へ足を踏み入れた。
これから対するは、智謀にかけて天下にその名を知られる男であった。
◇
邸の奥の一室に通されると、香の煙が薄く漂い、中央に碁盤が据えられていた。
賈詡はすでに座しており、細い目に笑みを浮かべていた。
「遠路ご苦労。だが、話の前に一局どうか。碁は人の心を映す。君がどのような眼を持つか、石の置き方を見ればわかる」
そう言って盤を指で叩く。
現代の碁とは路の数も細則も定石も違う。
馬超は一瞬ためらったが、やがて膝を折った。
「よろしいでしょう。父からは武を学びましたが、学問や技も己の好むところでございます」
賈詡はにやりと笑み、黒石を差し出した。
「では先手を打て。若き武人の心がどこに向かうか、拝見しよう」
盤上に石が並び始める。
馬超は現代で培った定石を用い、星や小目に正確に布石を打っていく。
まだ単純な隅の取り合いに終始するのが当たり前の時代に、馬超の布石は複雑に全体を制御していた。
賈詡の眉がわずかに動く。
「……ふむ。奇妙な打ち方をするな。辺を軽く捨て、大局を意識している。まるで未来の戦を見ているかのようだ」
馬超は淡く笑みを返す。
「戦もまた同じです。局地に囚われれば、全体を失う。いかに小さく勝とうとも、大勢を見誤れば滅びましょう」
賈詡は石を置きつつ、目を細めた。
「ほう……口ではなく石で語るか。これは、ただの武辺の若造ではないな」
碁は進み、やがて賈詡が笑って石を置いた。
「参った。馬孟起、面白い男だ。――では本題といこう」
こうして、涼州の若き将と、乱世随一の謀士との対話が始まった。
◇
碁盤の余熱がまだ空気に残っていた。
賈詡は細い眼をさらに細め、指で白石を弄びながら、どこを見るともなく庭の竹の影を眺めた。
「……面白い布石であったな、孟起。隅に拘らず、はや中腹を押さえに来るとは。兵は拠る所を欲すが、志は広きを欲す、というやつか」
馬超は軽く拱手し、盤上を見やった。
星に添えた黒石の列が、弧を描いて全体を包むように伸びている。
「盤面が小さく見えておりますれば、つい先を急ぎたくなります。ですが急げば急ぐほど、置き遅れた一手が後に響きましょう。戦も同じにございましょう」
「急がず、しかして遅れず、か。言うは易し、行うは難しだ」
賈詡は白石を茶碗へ転がし、手を止めた。
「さて――ここまで出向いた用件を、そろそろ聞こうか」
馬超は姿勢を正す。
「涼州はなお騒がしく、父と韓遂の争いは止みませぬ。この間に長安は李傕・郭汜が相攻め、天子は東へ御動座をお望みとか。西の門戸がかく乱れては、いずれ中原の大勢に飲まれましょう。ゆえに私は、中央の実情をこの目で量り、才ある士と語らって、涼州の道を定めたく存じます」
「ふむ」
賈詡は微笑を崩さず、声だけ少し冷ややかにした。
「才ある士、とは私のことか?お前の父や韓遂が、私を好むとは思えぬが」
「父や韓遂の好悪は措きます。涼州の安んずる道に、文和殿のお智恵が要るのです」
賈詡はあっさりと話題を転じた。
「孟起。涼州を安んずるとは具体に何を指す。『韓遂を討つ』は答えにならぬぞ。狼を打てば、別の狼が巣を奪うだけだ」
馬超は一拍置いて、低く答える。
「まず、民を飢えさせぬこと。次に、馬を疲れさせぬこと。三に、兵を散らさぬこと。飢えず、馬が健やかならば、兵は動き続けられます。戦はその先にございます」
賈詡の指が盤縁を軽く叩いた。小さな音が、湧き水の気配に紛れて消える。
「言葉は美しい。だが、飢えぬ策、馬を疲れさせぬ策を、涼州でどう拵える?」
馬超は懐から、泥で黒ずんだ帙を取り出した。
市で手に入れた断簡に、道すがら付した自筆の小片が挟まっている。
「長安の市に、蔡伯喈旧蔵とやらの断簡が流れておりました。その中に、『稼穡を分年にて替え、地を傷めず養う』といった古の説が散見されます。私は別に、太昊・炎帝・軒轅に伝うる古説の佚文も少しく見知っております。……豆を交えて地を養い、乾きに強い作を広め、水を高きから低きへ運ばせる工を起こす。これらを合わせれば、涼州の畑でも収める道はありましょう」
賈詡は帙に手を伸ばさない。ただ視線だけが、ひたりと馬超の顔を探る。
「豆で地を養う、ね。聞いたことのない言である。水を運ぶ工は、堰だけでは足りぬと?」
「川の力を借りて車を回し、水を持ち上げさせます。人手を倹し、旱を和らげる策です。麦を広め、小麦粉を乾かして備えに致せば、兵糧の融通も利きましょう」
龐徳が背後でわずかに目を見張った。
賈詡は、ふと笑って杯を口に運ぶ。
「奇抜ではある。だが、奇抜だけを好む者なら、我は相手にせぬ。孟起、兵を鍛えずして民は守れぬぞ」
「承知しております」
馬超は静かに頷く。
「わが軍では馬具を改め、乗り手の身を安定させる法を用いております。深く腰を納め、足を掛ける金具を革帯にて吊るすのです。突撃のたび腰が浮いては矛も弓も定まりませぬ。まずは自ら試み、戦場で示して兵に広めております」
「足を掛ける金具、か」
賈詡は珍しい玩具でも眺めるような目をした。
「乗り手が落ちにくくなるなら、士気は上がるな。……よい、では“民・馬・兵”の三つを繋ぐ策を言ってみよ」
馬超は指を折って述べた。
「一。漢陽・金城・隴西の境に、郷ごとの小倉を置き、豪族に鍵を持たせ、県が封を持つ。収めと放ちを見えるようにし、盗みを防ぎます。
二。羌・氐の豪を招き、馬政を共にさせる。良馬の賦を数でなく仔の齢で定め、幼駒の時は免ずる。これで彼らは増やし得る馬を差し出し、我らは若馬を潰さずに済む。
三。歩弩を郷の壮丁に教え、騎は精兵に限って鍛える。戦は歩で拘め、騎で決める形に固定します。
四。関隴の要、渡渉の要を絵図に起こし、遮断と追撃の道筋を定め、符と旗で合図を一にします」
言いながら、碁盤の上に指で線を引く。
黒白の石が、まるで郡県の配置や峠・橋の位置であるかのように見えてくる。
賈詡は肩をわずかに揺らした。
「……先ほどの布石の理を、そのまま地図に移したか。隅――つまり郷ごとの小倉と歩弩を固め、中腹――すなわち渡渉や峠の向きを我に従わせる。大勢が崩れた時だけ、騎で刺して勝ちを確かにする――と」
「はい。勝ちを追うのは危うい。退路を封じて、追い過ぎぬことを法にいたします。合図を定めて追撃を止め、所定の旗で集まり所を定める」
「規は嫌いではない。だが――」
賈詡は杯を置き、声を低くした。
「隴西には宋建がいる。枹罕に盤踞する羌の頭目だ。お前の策は、やつらをどう扱う?」
「討つと用いるを分けます」
馬超の声音は迷いがない。
「郷を荒らし、民を売る者は討つ。だが、地に居を固め耕牧で生きる者は用います。市を立て、塩や布を通し、羈縻を敷いて人質を交わす。彼らの若者から弓騎を選び、我が軍の左右翼に混ぜます。羌・氐を外に置けばいつまでも外だが、中に招けば、利が彼らの家に戻る」
賈詡は初めて、わずかに感情を見せた。
その笑みは嘲りにも悦びにも取れ、つかみどころがない。
「口では易い。だが羌胡を混ぜる軍は、しばしば裏切るぞ」
「裏切りは利と畏の計算でございます。利を絶やさず、畏を忘れさせず、礼を怠らなければ、人は裏切る理由を失います。……その秤を作るのが法であり、法を運ぶのが人であり、人を束ねるのが徳にございます」
一瞬、室の空気が澄んだ。
賈詡は盤上を見、黒白の境の“薄み”を指先でなぞる。
「孟起。お前は若いのに、薄味を恐れぬ。世の多くは、石を重ねて厚くしようとする。だが厚みは重みとなり、動けなくなる。――お前の策は、軽く走る。軽いゆえに折れやすいが、折れぬならば速い」
「速く走るには、走る路を作ることから始めます」
馬超は微かに笑む。
「太昊の工にて水を運び、炎帝の稼に従い、軒轅の保で病を防ぐ。古の学に仮託して、民に怪しまれぬように整えます」
賈詡の目が、初めて帙に落ちた。
取らずにいた帙へ伸びた指が、紙縁のささくれをひと撫でする。
「――古の学、ね」
囁くように言い、指を離した。
「孟起。お前は古を好むふりをして、新しきをする。そのやり口、我は嫌いではない」
龐徳が安堵の息を、胸の奥でそっと吐いた。
賈詡は姿勢を正し、いつもの笑みを戻す。
「では、我からも一手、献じよう。
一つ、韓遂と正面から打ち合うな。やつは兵の腰が強い。おびき出し、有利な場所で戦を開け。相手に主導権を握らせるな。
二つ、李傕・郭汜には書をやれ。いずれにも与すると見せよ。ただし会うな。『涼州の門戸を守るは、朝廷のため』と書けばよい。
三つ、宋建を慰撫しても、いずれ裏切る。欲深く、猜しやすい。その部下―羌・氐の小頭目たちも同じよ。だからこそ、利を得られるなら主を選び直すことを厭わぬ。策を用い、内から崩せ。大きな頭を潰してしまえばあとは烏合の衆。彼らに対しては利と恐を示し続けよ。
四つ、兵の中に耳を仕込め。郷ごとに二人で足りる。敵ではない、味方の中の耳だ。人を選べ。お前の策は軽やかゆえ、乱れやすい。耳があれば、早めに綻びを繕える」
馬超は膝を折り、深く頭を垂れた。
「かたじけない。文和殿の四策、胸に刻みます」
賈詡は軽く手を振った。
「まだ貸しは作らぬ。お前が本当に走れるか、少し見たいだけだ。……最後にもう一つ。孟起、お前は自身の怒りをどう制す?」
問われて、馬超は短く息を呑んだ。
脳裏に、韓遂の旗、閻行の矛、焼ける土と血の臭いが過ぎる。
「怒りは火にて、器に盛れば湯となり、人を温む。盛らねば野火となり、己を焼き尽くす――私は、器を先に作ります」
賈詡は声を立てずに笑い、碁盤の端に置き石を一つ、ことりと落とした。
「器、ね。ならば材料をやろう。漢陽に戻れば、まず地図を描け。郡県・市・橋・浅瀬・峠――お前の碁の布石のように。それを前に、部下と語れ。お前が言う器は、結局は人のことだ」
「承知いたしました」
賈詡は立ち上がり、簾の外の闇を一瞥した。
遠くで犬が吠え、何かが崩れる鈍い音がする。長安の夜は、まだ尽きない。
「孟起。冀へ帰れ。長安に長く留まるな。ここは呑み込む街だ」
言いながら、ふと振り返る。
「ああ、そうだ。碁は、次は白をやる。お前が黒でも白でも、勝つ筋を示してみせよ」
「次は、白でもお相手いたしましょう」
馬超が拱手すると、賈詡は袖を払って笑みを隠した。
つかみどころのない笑み――だが、その奥に、わずかな愉悦が灯っているのを馬超は見た。
邸を辞して庭を抜けると、竹の葉が夜風に鳴った。
外の路地は闇に沈み、遠くに火の赤が揺らめく。龐徳が小声で問う。
「若、賈将軍は……?」
「掴みきれぬが、こちらを見ている。見られているうちは、背を伸ばして歩けばよい」
馬超は帙を胸に抱え、闇の中で微かに笑った。
(太昊の工、炎帝の稼、軒轅の保――形は後から作ればよい。まずは地図だ。人だ。器だ。賈文和が言った通りに)
長安の夜気は冷たく、呼気が白む。
だが馬超の胸には、碁盤の黒石のように、確かな手順が並び始めていた。
賈詡 字は文和。147年生まれ。武威郡姑臧の人。同じ涼州出身の董卓に仕え、董卓の死後は李傕らに策を授けて王允・呂布を破り長安を奪わせた。母の喪に服している隙に李傕らが仲間割れを起こしたので宣義将軍として復帰し献帝の東帰に尽力、その後李傕を見限り段煨・張繡と渡り歩き、張繡が曹操に叛逆すると計略を用いて曹操軍を大いに打ち破り曹昂・典韋らを戦死させた。袁紹と曹操の対立が深まり袁紹が張繡を誘った際は、今こそ曹操に高く売り込むべきと主張して共に帰順し、以後は曹操配下として辣腕を振るい魏が建国されると太尉まで昇った。その経歴から割と嫌っている人も多く、正史に注を付けた裴松之からは程昱・郭嘉の同類だから荀彧・荀攸のような清廉の士と伝を並べるな!とか言われて程昱と郭嘉も流れ弾を喰らっている。




