文姫
夜の長安は、炎の匂いと犬の吠え声に満ちていた。
賈詡の邸宅を辞した馬超と龐徳は、荒廃した通りを抜けて、簡素な宿に戻る。瓦は半ば崩れ、壁は煤けていたが、屋根と扉があるだけでありがたい。
灯火をともすと、龐徳はようやく腰を下ろし、疲れを吐き出すように息をついた。
「若……。あの賈将軍という御仁、何を考えておるのか……掴みどころがございませんな」
馬超は机に向かい、墨を磨りながら答えた。
「敢えて掴ませぬようにしているのだろう。だが、こちらを試しているのも確かだ」
龐徳は腕を組み、険しい目をした。
「宋建を羌自身に殺させよ、とは……恐ろしい策ですな」
「恐ろしいが、理に適う。羌が自ら血を流せば、後は我らの旗下に収まるしかなくなる。非情を避けては、この世は治まらぬ」
馬超は筆を取り、絹帛を前にした。
「まずは書だ。李傕と郭汜へ、それぞれ同じ文を送る」
龐徳が目を細めた。
「争っておる二人に、同じ文を……ですか」
「そうだ。『涼州の門戸を守るは朝廷のため』と書き、我らが争いに乗じる気はないと示す。
双方に『お前を支持する』とは言わぬ。ただ『天子のために西の関を守る』とだけ告げるのだ」
筆が走る。墨の香が狭い室内に広がった。
『安狄将軍馬騰の子、軍司馬馬超謹んで上言す。
涼州は辺境の要衝にして、羌胡の群起絶えず。
我らは関中の西門を守り、賊乱を防ぐを以て職とす。
此の旨、ただ国家の安んずるを願うのみ。』
「……これでよい」
龐徳は文を覗き込み、感心したようにうなずいた。
「巧みなものですな。誰を選ぶとも言わず、しかし朝廷を掲げる。受け取った者は自らに都合よく解釈するでしょう」
「それでいい。互いに我らを味方と思えば、軽々しく敵に回すまい」
◇
翌朝、まだ霧が薄く立ちこめるうちに、馬超は宿の下男を呼びつけた。
「これを二通、大司馬と後将軍の陣営に届けよ。返事は要らぬ。ただ渡したと告げよ」
銅銭を握らせると、下男は慌てて頭を下げ、駆け去った。
龐徳は馬具を整えながら問う。
「若、本当に返事を求めずに?」
「返事を求めれば、いずれかに肩入れしたと疑われる。余計な火種は不要だ。今はただ、“涼州は己らの敵ではない”と印象づければよい」
馬超は愛馬の鬣を撫で、鐙の革を確かめた。
「賈文和が言った通り、まずは器を作ることだ。冀に戻り、将兵や官吏と話を重ねる」
「承知」
龐徳は背筋を伸ばした。
「長安は、もう後にすべき地ですな」
「そうだ。長居は毒になる」
二人は馬に跨り、東門から出立した。
背後に見える長安の城郭は、朝日に照らされながらも、なお煙に霞んでいた。
◇
長安から涼州へ通ずる大道は、風に砂を巻き上げていた。春の終わり、田畔の薄青い穂がさわさわと揺れる。
遠目に、土煙が一本、風に裂かれて走るのが見えた。
「……若、あれを」
龐徳が手を翳す。
砂塵の芯に、十騎ほどの鹿毛の馬群。
そのうちの一騎の鞍の後ろに布を被せられた女が縛り付けられている。
先行する男は狐毛の冠、短弓を背に、草色の外套を翻す。
頬骨の張った面、吊り上がった眸――見るに、匈奴の騎兵か。
馬超は手綱を軽く引き、愛馬の歩度を一段上げた。
深く沈む鞍、堅固な鞍角。
鐙に踏みを入れると、下腹から上身へと芯が通る。
「令明。脇へ回れ。俺が射をかけて手を緩ませる。女を傷つけるな」
「承知」
二騎は、風の裏表へ散るように走った。
賊達が振り返る。
女の肩に回してあった荒縄が、鞍角の根で食い込んでいる。
馬超は一息吸うと、鐙を踏みしめ、半身を起こして弓を引いた。
放つ刹那、馬の背が沈む。
沈みの頂で弦が鳴り、矢は流れる風に乗った。
ぱし、と乾いた音。賊の右の手綱が切れて、馬がぐらりと首を振る。
男が舌打ちして左手一本で押さえる。
そこへ横合い、龐徳が短戟を低く構え、馬腹を深く入れて迫った。
短戟の鉤が閃き、賊の右手首を払う。
骨に当たる鈍い音、飛び散る血飛沫。
男は呻き、身を捩って短刀を抜いた。
馬超は二の矢を番えると、今度は賊の背の上、外套の肩布と皮帯の結び目を狙った。
矢は結び目を裂き、外套がはらりと後へ翻る。
賊の視界が一瞬曇る。
その隙に龐徳の短戟が再び伸び、鉤で鞍後ろの縄を引き裂いた。
女の身体が前にずれ、鞍角に抱き止められて止まる。
そこにもう一矢、首に突き立てられた賊は馬から転げ落ちた。
他の賊が矢を放つが、龐徳は短戟で打ち払いそのまま突進して膂力に任せて二人ほど薙ぎ倒す。
残った賊たちは舌打ちして馬に鞭を入れて逃げ去っていった。
馬超らは追わず、鐙を抜いて馬体を止めた。
龐徳が打ち倒した賊どもを縛り上げている間、馬超が女を引き寄せ縄の残りを短刀で断ち切る。
解放された女は、恐怖からか震える手で顔を覆っていた。
やがて布を取ると、乱れた髪の間から白い頬がのぞく。
蒼ざめてはいたが、その面差しは凛として美しく気品があった。
胸に抱いた小箱の蓋が少しずれ、そこから琴の角が覗いている。
女はそれを慌てて抱き直した。
「……私は、罪人の娘にございます。このまま置き去りにしてくださればよろしいのです」
掠れた声ながらも、言葉遣いは丁寧で、どこか育ちの良さを感じさせる。馬超は首を振った。
「俺たちは官の追手ではない。名を聞かせてくれ」
女はしばし迷い、唇を結んでいたが、やがて小さく答えた。
「……蔡、昭姫と申します」
蔡――昭姫。その名を聞いた瞬間、馬超の脳裏に過去の知識が閃いた。
大儒蔡邕の娘にして胡地へ攫われ、長き流浪の人生を「胡笳十八拍」に謡われた才女、蔡琰。
今がまさに匈奴に攫われる最中だったのだろう。
「ふむ………蔡伯喈殿の御息女か?」
蔡琰ははっとして目を上げたが、すぐに視線を伏せ、力なく首を振った。
「父は……すでに公に誅されました。わたくしは早くに夫を亡くし、実家に戻りましたが、その家も滅び……。今また匈奴の賊に襲われて縁戚は皆殺され、わたくし一人が捕らわれたのです。行く先々で人を不幸にしてばかり……。このまま朽ち果てるのが、わたくしにはふさわしいのでしょう」
その声音には諦めと深い哀しみが混じっていた。
龐徳が憤りに息を呑んだが、馬超は静かに口を開いた。
「貴女は呪いなど、本気で信じるか」
蔡琰は驚いたように目を瞬き、それから小さく首を振った。
「……信じたくは、ありません。けれど、事実がそう思わせるのです」
「ならば、ここで改めればいい。字を変えるのだ」
「字を……?」
蔡琰は小首を傾げた。
馬超は頷き、真剣な眼差しで言葉を重ねる。
「昭姫――明るく美しい字だ。だが、今はその光が強すぎる。乱れた世では光が災いを呼ぶこともある。ならば、文を衣としろ。父君が文で名を成したように。――今日からは、文姫と」
蔡琰は、琴の箱を胸に抱きしめたまま固く目を閉じた。
しばし沈黙があり、やがてその唇から、かすかな声がこぼれた。
「……文姫……」
そっと繰り返し、次に瞳を開いた時には、ほんのわずかだが力の戻った光が宿っていた。
「……では、これからは文姫と。……けれど、わたくしは蔡伯喈の娘。世の人々は罪人の子と申しましょう」
「俺は親の罪は子に及ばぬと考えている。父君のことも、都の乱れに呑まれた因果にすぎん。そも父君を罪に問うた司徒も滅び、今朝廷を牛耳っているのはそれを滅ぼした大司馬だ。俺は馬孟起、安狄将軍・行漢陽太守馬寿成の子で冀の県令を拝命している。が、官の名ではなく、人として言う。――貴女はここから生き直せ」
蔡琰はじっと馬超を見つめ、やがて深く頭を垂れた。
「……かたじけなく存じます。お二方のご恩は、必ずや琴に刻み、筆に記しましょう」
龐徳が軽く咳払いして笑う。
「若、また荷を背負われましたな」
「よい荷だ。世が荒れて書が散ったのならば、拾う者も必要だ」
顔を上げた蔡琰がかすかに笑んだ。
その笑みは儚げでありながら、どこか晴ればれとしていた。
蔡琰 字は昭姫だが後に文姫と書かれるようになりそちらの方が有名。一説に177年生まれ。陳留郡圉の人。後漢の大儒蔡邕の娘。はじめ河東の衛仲道に嫁いだが早くに亡くしたために実家に戻る。興平年間(194~195年)に董卓の残党によって三輔が乱れると匈奴の騎兵にさらわれ左賢王の元で12年を過ごした。その間に二人の子を産んだが、蔡邕の後継ぎがいないことを惜しんだ曹操によって買い戻される。その際に子供たちは残していかざるを得なかったため離別を嘆いた詩を書いた。後に同郷の董祀の元に嫁がされたが、董祀が罪を得て処刑されそうになると曹操に乞うて赦させた。博覧強記で琴の演奏に長じ、蔡邕の筆法を鍾繇に伝授して後世の書家に多大な影響を及ぼし、記憶していた父の蔵書数百篇を復元したと伝えられる。登場時点で数え十九で既に未亡人ですが一応ヒロインです。
胡笳十八拍 蔡琰の人生を題材にして作られた詩とそれを歌うための琴曲。詩は蔡琰本人による作とも擬作とも言われるが擬作説が有力。作中では阻止しちゃったので作られません。
字 「あざな」と読み習わす。古代中国の人名は姓(部族名)・氏(氏族名)・諱(公や家族内で用いる個人名)・字(私的に外で用いる個人名)で構成されるが、姓はほとんど使われないので漢代にはほぼ氏と同一とされるようになった。厳密にいえば馬氏の姓は祖先を遡ると趙奢から周の造父、舜から嬴姓を賜った伯益まで辿り着くので嬴姓ということになるはずだがそのように論じられることはまずなく馬姓と認識されている。氏は封じられたり移住したりした土地の名前を付けることが多く、馬氏は趙奢が馬服君に封じられたことに因む。諱は本来の意味での名前だが公文書以外で外に向かって用いられることはあまりなく、特に主君や目上の者の諱を呼ぶ事は大変失礼なこととされた(避諱)。そのため対外的には字が用いられるか、官吏であれば官位名で呼ぶなどされた。※馬騰から馬超を呼ぶときに字になっていたので諱に統一しました。




