産婦人科と脳神経外科、そして理科大先輩の恋バナ指導
東京理科学大学経済学部出身の先輩・二階堂文華の投薬フォローと、カフェでの甘甘な恋バナ指導、そして覚悟を決める氷室涼香
「ふぅ……涼香ちゃん、お願い」
白鳥駅前店のカウンターに処方箋を出したのは、涼香の2個上の東京理科大学経済学部の先輩であり、彼女をかかりつけ薬剤師に登録している二階堂文華(30)だった。
手渡された処方箋に躍るのは、抗凝固薬『エリキュース(アピキサバン)』の文字。
「あっ……文華先輩」
文華はかつて、かなり重い月経困難症でドロエチフレックス(LEP/低用量ピル)を服用していた際、静脈血栓症から脳梗塞を発症してしまった過去があった。ピルの血栓症リスクという意外な副作用に直面し、当時は「出血のリスクを恐れず、最初からジエノゲストにしておけば……」と激しく後悔したものだった。
「でもね、苦労したけど夫の誠司さんと子宝にも恵まれたから……涼香ちゃんの言った通りにしておくべきだったなーとは思うけどね。最近は調子もいいのよ? 義理のお母さんも子どもを見てくれるしっ。そうだ! なんか最近、涼香ちゃんキラキラしてるわよね。カフェでも行こうよ!」
「出血傾向はなさそうですか?」
「ないよー」
「腎機能のデータも見せていただけますか?」
「はい、どうぞ。涼香が言ってたクレアチニンクリアランスも、70を超えてるって主治医が言ってたわ」
「了解いたしました。……カフェ、付き合いますよ」
数時間後。駅前の落ち着いたカフェの前で、文華を待っていた涼香の私服姿は、普段の白衣姿とは一線を画す圧倒的な可憐さを放っていた。
ベージュのテーラードジャケットに、透け感のある上品なアイボリーのリブニット。ハイウエストのチャコールグレーのミニスカートからはスラリと美しい脚が伸び、足元は黒のポインテッドトゥ・アンクルストラップパンプス。かっちりとした黒のハンドバッグを手に、繊細なシルバーアクセサリーを揺らしている。ゆるくまとめた低めのシニヨンが、知的な雰囲気を柔らかく引き立てていた。
あの鈴は先輩には見せない
店内に入り、温かいコーヒーが運ばれてくると、文華は楽しそうにカップを置いた。
「そういえばさ。……涼香はあの上司(エリア長)のこと、好きでしょ?」
「――っ!?」
危うく飲みかけのコーヒーを吹き出すところだった。
「な、何をおっしゃっているんですか、文華先輩!」
「え? 違うの?」
「違います。そもそも、職場における上司への好意と、個人的な恋愛感情は明確に区別すべきであって――」
「へえ。じゃあ、どうして今、耳まで赤いの?」
「これは……店内の空調の問題です」
「今日、ちょっと寒いけど?」
「……っ」
文華は楽しそうに頬杖をついた。
「でもさ、涼香はあの上司の話をするときだけ、雰囲気が違うんだよね」
「具体的に、どのような点がでしょうか?」
「今みたいに、急に早口になるところ」
「……気のせいです」
「あと、上司がほかの女の子と話してると、ちょっと機嫌悪くなるよね〜」
「業務上のコミュニケーションに偏りがある場合、職場環境の公平性という観点から問題が――」
「はいはい。嫉妬ね」
「違いますっ!」
思わず声が大きくなった。近くの席の客がちらりとこちらを見る。
涼香は慌てて小さく咳払いをして、姿勢を正した。
「……っ〜!」
「はいはい。で、どこが好きなの?」
「ですから、好きでは……」
そこまで言って、涼香の言葉がピタリと止まった。
(……誤魔化せない。私、明らかにあの人のことが好きだ……考えるだけでも自分じゃなくなるみたいに頭がフワフワしちゃう…)
先輩の前で口にするのはあまりにも恥ずかしかったが、脳裏に浮かぶのは、どれだけ忙しい時でも誰に対しても穏やかな声で接する彼の姿だった。
部下のミスや社内の問題が起きても決して責めるのではなく、まず一番に話を聞いてくれたあの人。
『氷室薬局長、少しは人に頼っていいんだから……』
あのときの優しくて温かい声を思い出してしまっただけで、胸の奥が熱くキュンと締め付けられる。
「……優しい、ところです」
「ん?」
「え?」
「今、『優しいところ』って言った?」
「言っていません〜っ!」
「いや、言ったよね?」
「……聞き間違いです」
文華はとうとう楽しそうに笑い出した。
「涼香、仕事や勉強なら誰よりも堂々としてるのに、恋愛になると本当にダメダメね〜でも涼香が人を好きになるなんて、こんな変わるのね〜、そんな顔みたことないよ」
「恋愛など、業務遂行能力とは無関係です」
「じゃあ、彼に彼女ができたら?」
「……っ」
「できたら?」
「……それは」
彼女は俯き、カップの表面に視線を落とした。
「……困ります」
「少し?」
「……かなり…困ります」
文華の笑顔が、少しだけ優しく柔らかくなった。
「そっか。じゃあさ、実習生の歓迎会
なんかいろいろでやれてないんじゃなかった?隣の席に行きなよ?」
「あっ……有栖川さんが、いつもすぐ隣にきますし……」
「ふうん?」
文華はスマートフォンを手に取った。
「じゃあ、その有栖川ちゃんの独壇場ってわけ?」
「それは――」
彼女は身を乗り出しかけて、ぴたりと動きを止めた。
「……それは、何?」
「……っ」
文華は満足そうににっこりと笑った。
「ほんっと、かわいいねえ、涼香は」
「……先輩。今日のお会計、割り勘にさせていただきます」
「えー! ちょっとー恋バナの授業料くらい払ってよ!」
「そのような授業を受講した覚えはありません!」
そう言いながらも、涼香の頬はずっと朱に染まったままだった。
(……いつも有栖川さんに先を越されてばかりだったけれど……)
カップを握りしめながら、彼女は静かに心の中で誓うのだった。
(次は……絶対に、横の席を譲らないんだから……!)
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