正論パンチの向こう側
論文や客観的データを正論としてぶつけ、正論パンチで対立構造しか作れなかったかつての涼香が、陣内の温かな対応に触れて救われ、心奪われていった過去を描くエピソード
夜の調剤室で、一人静かに手作りの血圧手帳を製本していた涼香。
その細やかな仕事ぶりと、誰にも見せない優しさに気づいてまっすぐに感謝を伝えてくれた陣内の姿に、涼香の胸の奥は甘く、あたたかい熱で満たされていた。
(……昔の私がこの光景を見たら、きっと『無駄な作業』だとか効率が悪いとか…自分で買え!って切り捨てていたでしょうね)
涼香はふと、陣内と出会う前の自分――『冷徹なロジックモンスター』と呼ばれていた頃の過去を思い出していた。
当時の涼香は、東京理科学大学薬学部で培った圧倒的な知識量を武器に、客観的データや最新論文のエビデンスだけを信じる完璧主義者だった。
高校偏差値も60は軽く超えていた
余裕で大学も受かった
大学でも常にトップクラスだった
研究室ではそりが合わなかった
間違いだとわかる方法を繰り返し行う教授や先輩の大学院生はアホだと思った
研究室では自分の意見だけで行動できない
人から指摘されるのは嫌だった
私は薬剤師をやろうと決めた、ドラッグストアになんとなく入った、ただ薬剤師がやれたら良かった
ドラッグストアに入ったら
ほとんど同じレベルの大学出身者はいなかった
私立中堅がほとんどだ
私は最強になったような気がした
患者さんは理論破綻している人もいた
私は信じられなかった
服薬指導でも、患者の生活背景や感情を一切考慮せず、論文やガイドライン通りの『正論パンチ』で論破する日々が続いた。
データ的に100%正しいがために、彼女の指導を修正・批判することが誰もできていなかった、当時の薬局長は手あまししていた
正論でぶった切られた患者たちとの間には、常に冷たい対立構造と溝が生まれていたのだった。
(なによ…バカみたい…)
そんな彼女の頑ななプライドが粉々に砕け散ったのが、アルツハイマー型認知症が進行し、脱抑制(感情や欲求のコントロールが効かなくなる症状)が強く出ていた常連客――田中井さんとの出来事だった。
『お姉さん、いい身体してるねぇ! ちょっと触らせてよ!』
ある日、投薬カウンターで田中井さんに突然手首を力任せに掴まれ、身体を寄寄せられた涼香は、恐怖のあまり「キャッ……! やめてください!」と叫び声を上げて手を振り払ってしまったのだ。
その結果、同行していた介護施設の担当者から本部へ激しいクレームが入った。
『認知症の症状でやっていることなのに、バイキンや変態扱いされた! 医療従事者としての配慮が足りない!』と。
自尊心を傷つけられ、孤独と挫折に打ちひしがれる涼香の前に現れたのが、当時エリアマネージャーになりたての陣内が事態の収拾に駆けつけた。
(陣内エリア長って…だいぶ私の大学より下の大学じゃないかしら…話聴きたくないわ…)
陣内は落ち込む涼香を責めることなく、静かに温かい缶コーヒーを差し出しながら、病態の本質を語りかけてくれた。
『氷室さん、認知症によるBPSD(行動・心理症状)で前頭葉機能が低下すると、正常な判断ができなくなってあんな風に脱抑制が出ちゃうんだ。……死亡率の上昇リスクを考慮してでも抗精神病薬や抑肝散の調整が必要になるくらい、ご本人も脳の病気で苦しんでるんだよ、もともとこんな感じではなかった人だ、俺が入りたての時は気さくな爺さんでね、いい人なんだ…覚えてられないんだ…抑制も効かないからね
氷室さんは美人さんだからさ、俺もさぁー病気で同じになったら、そうなっちゃうかもな!ってハハッ…キモいか…ゴメンごめん…』
知識としては知っていたはずの病態。だが、陣内はそれを単なるデータではなく、『苦しんでいる一人の人間』として捉えていた。
その後の陣内の対応は、涼香にとって衝撃の連続だった。
理不尽な文句を言われても、理不尽に罵倒されても、陣内は一切文句や嫌な顔を見せず、穏やかな笑顔で「田中井さん、今日もお元気ですね」と懐にスッと飛び込んでいったのだ。
正義と論理で相手を攻撃することしか知らなかった涼香の目の前で、頑なだったクレーマーや患者たちが、いつの間にか陣内に心を開き、嬉しそうに懐いていく。私は正しい情報で伝えてたんじゃなくて…攻撃してたんだ…
(ああ……こんな風に人に寄り添う『温かいアプローチ』があるんだ……)
どんなに泥臭くても、相手の病気と心に正面から向き合い続ける陣内。
その決してブレない優しさと包容力に触れた瞬間、涼香の心は完全に彼に奪われていたのだった。
(素敵…素敵な人…)
翌日の白鳥駅前店。
「ちょっとぉ〜! 田中井さまぁ〜! どこ触ってるんですかぁ〜!? めっちゃおっぱい目当てじゃないですかぁ〜♡」
「きゃっ……! た、田中井さん! 急に手を出したら危ないですよ……っ!」
調剤室の前に、賑やかな声が響き渡っていた。
定期処方箋を持ってやってきた田中井さんが、圧倒的な胸囲を誇るギャル実習生のあげはを見るなり「おっぱい! でっかいおっぱいだぁ!ヒャー」と大騒ぎし、隣にいたほのかの手を握りしめていたのだ。
焦るほのかと、爆笑しながら「ダメですよ〜♡」となだめるあげは。
涼香は二人の元へ歩み寄ると、『かかりつけ医のためのBPSD対応ガイドライン』を提示しながら、過去の自分を懐かしむように穏やかに指示を出した。
「涼宮さん、白石さん。脱抑制の症状に対して強く反応してはダメよ。患者さんの訴えを否定せず、優しく視線を別の話題――例えば今日のお天気やお薬のお茶のお話へ誘導して差し上げなさい」
「は〜い、薬局長! 了解でーす♡」
「はい、薬局長! やってみます!」
二人が見事な手際で田中井さんの気を逸らし、和やかに服薬指導を進めていく姿を見つめながら、涼香はふっと優しく目を細めた。
「フフッ……大目に見てあげなさいよ……」
ぽつりと呟いた涼香の視線の先には、カウンターの陰で「田中井さん、今日も服薬バッチリですね!最高ー!」
とニコニコ顔で寄り添っている陣内の姿があった。
「おうおう!ニーちゃんカッケェな今日もよ!
俺はよくモノ覚えてらんねーけどよー!ニーちゃんの事は忘れたことねぇぜ!」
「ありがとう、田中井さん!お大事に」
かつて冷徹だった自分の心を溶かし、この温かな場所を作り出してくれた愛しいエリア長。
涼香は眼鏡の位置を少しだけ直すと、誰にも気づかれないように、愛おしさに満ちた微笑みを彼に向けるのだった。
「フフッ…やっぱり素敵な人ね…拓海さん…」
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