1人の調剤室と、あたたかな光
陣内もギャル実習生あげはもいない、白鳥駅前店での氷室涼香の「誰も見ていないところでの静かな奮闘」と、それに気づいた陣内との二人きりの心温まる(そしてちょっと甘い)エピソード
その日、俺は白鳥駅前店ではなく、近隣の『白鳥中央店』へ応援出張に出ていた。
中央店は脳神経外科をメインで受けている店舗で、普段の駅前店とは患者層も処方内容もまるで違う。実習カリキュラムの都合上、ギャル実習生のあげはも今日は別店舗の見学だったため、白鳥駅前店は氷室さんたちに任せきりになっていた。
同じ頃、夕暮れ時の白鳥駅前店。
ラストの患者を見送り、すべての調剤業務が終了した調剤室で、薬局長の氷室涼香はすっきりと片付いたカウンターを見渡していた。
「みんな、今日の業務はこれで終了。お疲れ様、上がっていいわよ」
「はーい! お疲れ様でした〜っ! 薬局長も早く帰ってくださいね!」
「お疲れ様です、薬局長! カギ閉めよろしくお願いします!」
まひろやほのかたちが元気に退勤していき、静まり返る店舗。
涼香はタイムレコーダーの前に立ち、無駄に残業時間を超過させないよう、自分の勤怠打刻ボタンをピッ、と押した。
無給のサービス残業をしたいわけではない。だが、誰にも邪魔されないこの時間だからこそ、やりたい仕事があった。
「ふぅ……やりますか」
涼香は白衣の袖を少しだけ捲り上げ、調剤室のパソコンに向かった。
最近の相次ぐ薬価改定、特に循環器系薬剤の薬価引き下げは、店舗の利益率にもジワジワと響いている。そのため、本部の指示もあり、これまで患者に無料で配っていた『血圧手帳』の配布をストップせざるを得なくなっていた。
製薬メーカーもコスト削減のため、手帳のデータを「PDF形式」でWeb配布する時代だ。
(だけど……長年うちに通ってくださる高齢の患者さんたちは、いくらでも手帳が無料でもらえた時代を覚えているわ……。スマホもプリンターもお持ちでないお年寄りに『雑貨店で買ってください』なんて突き放すのは、あまりにも忍びないわね……)
涼香はメーカーのサイトからダウンロードした血圧手帳のPDFを開くと、店舗の裏にあるコピー機で丁寧に両面印刷を開始した。
印刷された用紙を一枚一枚半分に折り、ホッチキスで留め、角で手を切らないようにマスキングテープで端を綺麗に補強していく。
「……ふぅ。これくらい作っておけば、今月分は十分かしら」
出来上がったのは、手作りのあたたかみがこもった、見やすく使いやすい自家製の血圧手帳。
「それから……そろそろコンプライアンス低下気味の田中さんがみえる頃だし、明日は人気の小児科の先生が来る日だわ。小児用のシロップや散剤の予製(あらかじめ計算して準備しておく作業)も、少し作っておきましょう」
涼香は静かな調剤室で、明日の患者たちの笑顔と、店舗のスムーズな業務のために、黙々と細やかな準備を進めていくのだった。
一方、その頃。
白鳥中央店での応援業務を終えた俺は、本部からの急な書類提出依頼に対応するため、急遽、自分のデスクがある白鳥駅前店へと戻ってきていた。
(ヤベェ……本部の締切、今日の夜までだったか。急いで書類をまとめて送信しないと……)
すっかり暗くなった駅前の道を急ぎ足で歩き、店舗へと近づく。
消灯しているはずの店舗の奥――調剤室の窓から、うっすらとあたたかい光が漏れているのに気づいた。
(ん? 光……? いや、鍵は開いているな……)
息を殺して自動ドアを抜け、バックヤードから調剤室を覗き込んだ俺は、思わず息を呑んだ。
そこには、調剤台に向かい、手際よく、そして愛おしそうに手作りの血圧手帳を製本し、小分けにした予製パックを綺麗に整頓している氷室涼香の姿があった。
「ふんふん…ふ〜」仕事も乗ってきて鼻歌まで出てしまっている
「……薬局長?」
「ひゃぁ…じっ…陣内さん!?」
俺の声に、涼香はハッと肩を跳ねさせ、手に持っていたホッチキスを落としそうになった。眼鏡の奥の瞳が、驚きで丸く見開かれる。
「ど、どうしてここに……? 今日は中央店の応援で、直帰される予定では……?」
「本部に急ぎで送る書類があってね。……それより氷室さん、タイムカードは?」
「あ……勤怠はもう切りました。これは……ただの私の趣味というか、個人的な作業ですので」
涼香は少し照れくさそうに視線を泳がせ、机の上の『手作りの血圧手帳』と『予製パック』を隠すように身体を滑らせた。
俺は静かに調剤台へ近づき、積まれた手帳を一冊、手にとった。
表紙には見やすい大きな文字で『血圧記録手帳』と書かれ、開きやすいように丁寧に折り目がつけられている。
「これ……製薬会社の手帳が廃止になったから、自分で印刷して作ってたのか?」
「……ええ。高齢の患者さんに『自分で買え』だなんて、冷たいこと言えませんしね。それに、明日来られる小児の患者さんのために予製を組んでおけば、明日まひろさんやほのかさん、実習生のあげはさんも余裕を持って患者さんと接することができるでしょう?」
涼香は少し困ったように眉を下げ、フッと柔らかく微笑んだ。
「私には……有栖川さんのような華やかな接客も、白石さんや涼宮さんのような愛嬌もありませんから。こうして陰で細やかな準備をしておくことくらいしか、薬局長としてみんなを支える方法が思いつかないし…」
「……」
俺は言葉を失った。
整然と磨き上げられた調剤台。
患者への思いやりが詰まった手作りの冊子。
明日の店舗の混乱を防ぐために、誰にも言わずに用意された予製。
(……この人は、いつもそうだ)
表で目立つような派手なアピールはしない。
ツンツンとした態度で誤魔化しながら、誰も見ていないところで、誰よりも店舗と患者と、そして俺たちスタッフのことを考えて、コツコツと細やかな仕事を積み重ねている。
胸の奥が、じんわりと熱く、強く締め付けられた。
「氷室さん」
「な、なんですの……? 急に真面目な顔をして……」
俺は手に持っていた血圧手帳を丁寧に置くと、まっすぐに涼香の目を見つめた。
「すごいよ、氷室さんは。本当にかっこいい薬局長だ」
「っ……!? な、なにを……急に……」
「華やかな接客や愛嬌だけが、医療人の魅力じゃないだろ。氷室さんのこの細やかな仕事と患者さんへの優しさが、この白鳥駅前店の『一番の土台』なんだよ。俺は……そんな氷室さんの仕事ぶりに、いつも救われてるし、心から誇りに思ってる」
言葉が、自然と熱を帯びて溢れ出ていた。
「じ、陣内さん……」
涼香の白い頬が、みるみるうちに綺麗な朱色に染まっていく。
動揺したようにメガネの位置を何度も直し、視線を彷徨わせる涼香。
「あ、あの……! そんな風にストレートに褒められたら……私、どう反応していいか……」
「本当のことだからさ。……よし! 勤怠は切ってあるみたいだけど、残りの作業、俺も手伝うよ! 一緒にやればすぐ終わるだろ?」
俺はスーツの上着を脱ぎ、袖を捲り上げて涼香の隣に並んだ。
「陣内さん……自分の書類仕事はよろしいのですか?」
「あ、ヤバい! 本部への書類忘れてた!!」
「ふふっ……もう、相変わらず抜けがありますわね、エリア長」
さっきまでの動揺が嘘のように、涼香はいつもの凛とした、けれどどこか愛おしさに満ちた笑みを浮かべた。
二人の影が並ぶ、静かな夜の調剤室。
手作りの手帳を折るカサカサという音と、キーボードを叩く音が心地よく響き渡る。
(……なんか、すごく胃に優しい時間だな……)
いつもヒロインたちの騒がしいアタックに揉まれ、胃薬を飲み干してばかりの俺だったが、今夜ばかりは胸の奥を満たすあたたかい光に、胃の痛みもすっかり消え去って今日は珍しくラベール胃腸薬プレミアムの出番はなくなった。
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