足跡を辿る
アファルの頂で、光が灯った。
雲を突き抜けるほど成長した大樹の、遥か高みにある樹冠。その奥で瞬いた小さな光は、やがて赤と青の二色に分かれ、葉の隙間から地上へ向かって淡い輝きを零し始めた。
「あ、あそこだ」
街から見上げていたオトが指を差す。
千メートル近い高さとなれば、普通なら何があるのかなど見えるはずもない。それでも自分たちの魔法だからなのか、あの二色の光だけは不思議とはっきり分かった。
隣で目を細めていたナナも、やがて小さく頷く。
「見つかりましたね」
「ずいぶん高いところまで行ったものですな」
同じように見上げたヴァルガスの言葉に、オトは納得できないとばかりに首を傾げた。
「私、あんなところにつけた覚えないよ」
「私もありません。千年前は、手を伸ばせば届く高さでしたから」
誰かが足跡を移したわけではないのだろう。あの日、まだ腰ほどしかなかった苗木の幹へ残した魔法が、アファルの成長とともに千年かけて空へ運ばれていったと考えれば、遥か頭上にある二色の光は、この木自身が長い時間を抱えてきた証のようにも見えた。
「アファルが持っていったってこと?」
「そう考えるのが自然でしょうね」
その言葉を聞いた直後、遥か頭上で風が樹冠を抜け、数えきれない葉が一斉に鳴った。
「ほら。そうだって」
「今ので分かるんですか?」
「なんとなく」
得意げに答えるオトに、ナナは少し呆れた顔をしたものの、否定はしなかった。
足跡の場所が分かった以上、地上から眺めていても仕方がない。オトが箒へ跨がり、ナナが足元に青白い光を纏わせる横で、ヴァルガスも人の姿を解いた。
白銀の光が身体を包み、背丈ほどしかなかった輪郭が一気に膨れ上がる。長い角が天へ伸び、背中から巨大な翼が開いたころには、街路の一角を丸ごと影で覆うほどの巨龍へ戻っていた。
三人が地上を離れると、眼下の街はゆっくりと姿を変えていった。
通りを歩いていた人々は点になり、建物は模型のように小さくなっていく。その中心を貫いてそびえるアファルの周囲には、遠くからでも分かる十本の塔が、それぞれ異なる高さで並んでいた。
昇るにつれて、その不揃いさがむしろ規則正しいことにオトは気づいた。
「ねえ、あの塔って、わざと高さを変えてるの?」
問いかけると、少し後ろを飛んでいたヴァルガスが翼を一度大きく羽ばたかせた。
『最初の一本が建ったのは、アファルが百メートルほどになった頃です。それから百年経つたび、その時の高さに合わせて一本ずつ増えていきましてな』
誰かが千年分の計画を立てたわけではないらしい。最初の塔ができ、その次の世代が二本目を建て、さらに百年後の者たちが三本目を続けた。そうして一度始まった習慣が人から人へ受け継がれ、気づけば百メートル刻みの塔が十本、街の歴史そのもののようにアファルを囲んでいる。
「千年も続けたの?」
『ええ』
「まじめだねえ」
『私が建て続けたわけではありませんがな』
それでも千年間ずっと見てきたことには変わりないだろうと思いながら、オトは眼下へ視線を戻した。
一番低い塔はもう遥か下にある。二本目、三本目と高度を上げるたびに塔の頂が足元へ沈んでいき、そのたび百年という時間をひとつずつ越えているような感覚があった。
やがて九本目の塔も下へ遠ざかり、十本目の頂がほぼ同じ高さに並ぶころ、目の前にはアファルの巨大な樹冠が広がっていた。
千年目に建てられた塔と、千年をかけてそこまで育った大樹とが肩を並べるように空へ立っている。その間を抜けながらさらに枝葉の内側へ進むと、幹が幾重にも枝分かれする場所に、赤と青の光が静かに浮かんでいた。
近づいてみれば、それは二つ並んだ小さな肉球だった。
千年前、まだ両手で囲めそうなほど細かったアファルへ二人で残した、猫の足跡。
「ちゃんと残ってた」
嬉しそうに笑ったオトの隣で、ナナは「千年程度で消えるようには作っていませんよ」と返しながらも、どこか安心したようにその光を見つめていた。
「分かってるけど、千年だよ? ちょっとくらい心配するじゃん」
「それは、まあ……そうですね」
太い枝へ降り立ったナナが足跡へ手を重ねると、赤と青の光が樹皮の内側へ染み込み、そこから幹を伝って枝へ、葉へ、さらに遥か地上の根へ向かって一気に駆けていく。
千メートルもの大樹全体を巡る光は次第に淡く広がり、やがてアファルそのものが内側から静かに発光しているように見え始めた。
ナナは目を閉じ、その流れに意識を澄ませる。
千年前にこの木へ託した役目は、途中で途切れた形跡も、壊れた痕跡もなかった。土地を護り、乱れる魔素を整え、ここで生きる者たちを見守る――二人が与えたその役目を、アファルは定められた千年の終わりまで、きちんと果たし続けていた。
やがて目を開いたナナの表情には、安堵に近いものが浮かんでいた。
「大丈夫です。壊れたのではありません。きちんと最後までやり遂げています」
その言葉を聞いたオトは、自分も足跡の隣へ手を置き、掌に触れる分厚い樹皮をゆっくり撫でた。記憶の中では頼りない苗木だったものが、今は自分たちを乗せてもびくともしないほど巨大になっている。
「じゃあ、もう頑張らなくていいんだ」
少し離れた枝に降りていたヴァルガスは、その言葉を聞いて樹冠の外へ視線を向けた。
『ということは、十一本目の塔は建てずに済みますな』
声がわずかに軽く聞こえたため、オトがじっと見つめると、巨大な龍は何事もなかったように顔を逸らした。
「ちょっと嬉しそう」
『千年続けましたからな』
「やっぱり嬉しいんじゃん」
『……少しだけです』
オトは声を上げて笑ったが、それ以上からかうことはせず、再び掌の下にあるアファルへ意識を戻した。
ちょうどそのとき、樹冠を抜ける風が少し強くなった。
すぐそばの葉が擦れ合う音から始まったざわめきは、枝から枝へ伝わりながら次第に大きくなり、遠く離れた場所まで連なっていく。まるで巨大な木そのものが身じろぎしたかのようなその音を聞きながら、オトはしばらく何も言わなかった。
自分にとって千年は、記憶さえ曖昧になるほど長く、気づけば過ぎ去っていた時間だった。
けれどアファルにとっては、そのすべてがここで過ごした時間だったのだろう。雨に打たれた日も、嵐に枝を揺らした夜も、まだ何もなかった土地に最初の家が建ったときも、その家々がやがて街になり、十本の塔が空へ伸びていくまでの間も、この木だけはずっと同じ場所に立っていた。
オトは幹をゆっくり撫でながら、その千年を想像した。
「お疲れさま、アファル」
もう土地を護り続けなくてもいいし、魔素を整えることも、そこで生きる誰かを見守り続けることも、自分たちの約束だからという理由だけで背負わなくていい。
「いっぱい頑張ったね。これからは、好きにしていいよ」
返事など期待していたわけではなかった。
それでも言葉が終わるのを待っていたように、もう一度風が樹冠を抜けた。枝葉が大きく揺れ、そのざわめきが頭上から遥か地上へ向かって駆け下りていく。
オトはぱっと顔を上げた。
「ほら。返事した」
「本当にそうでしょうか」
「したの」
言い切る様子がおかしかったのか、ナナは小さく笑いながら「では、そういうことにしておきましょう」と受け流し、まだ淡く輝いている猫の足跡へ視線を戻した。
いつもなら、自分たちが残した足跡を辿り、そこに結ばれた縁や約束を読み取る。
けれど今回、この場所にはもう一つの記録があった。
二人のいなかった千年間を、アファル自身がずっとここから見続けてきたのだ。
「今回は、私たちの足跡だけを辿るのではなく、この子が見てきたものを見せてもらいましょう」
そう言いながらナナが幹へ手のひらを重ねると、オトもすぐ隣へ手を添えた。
千年前に二人が去ったあと、この地へどんな者たちがやってきて、龍や魔人とどのように暮らしたのか。ヴァルガスへ託した約束はどんな形で受け継がれ、自分たちが残した魔法によってこの国が何を得て、何を失ったのか。
知りたいことはいくつもあったが、最初に確かめたいことだけは、オトの中ですぐに決まった。
目の前の幹を軽く、ぽんと叩く。
「ねえ、アファル。みんな、ちゃんとここで暮らせた?」
その問いに応えるように、赤と青の猫の足跡がゆっくりと脈打った。
光は樹皮の奥へ沈み、年輪のさらに深いところへ潜っていくように消えたかと思うと、今度は無数の枝へ向かって静かに広がり始める。
千年を見続けてきた大樹が、その景色を開き始めた。




