足跡を残す
二人の背中の向こうで、小さなアファルの葉が風に揺れていた。
まだ腰ほどの高さしかない細い苗木の根元では、赤と青の光が互いに絡み合いながら地面を巡り、これから結ばれる幾つもの理を待つように、淡い輪を重ねている。昨日まで山だった場所には遮るものがほとんどなく、吹き抜ける風に細い幹が頼りなくしなっていた。
ノワールとブランは、その小さな木を挟むように並んでしゃがんでいる。少し離れたところでは、ヴァルガスが腕を組み、まだ続くのかと言いたげな顔でこちらを見ていた。
「では、もう一度だけ確認します」
ブランがそう切り出すと、案の定ヴァルガスは露骨に顔をしかめた。
「またかよ」
「昨日のことを考えれば、必要でしょう」
考えるより先に動くからだ、と冷静に指摘され、なぜかノワールまで当然のように頷いたものだから、ヴァルガスはしばらく二人を見比べたあと、低い声でぼそりと言った。
「山を吹き飛ばした奴にだけは言われたくねぇ」
ノワールの手が止まった。
「……その話、まだするの?」
「昨日の話だぞ」
答えに詰まったノワールが何事もなかったようにアファルへ向き直るのを見て、ブランは小さく咳払いをし、その場の空気ごと仕切り直す。
「話を戻します」
今度ばかりはヴァルガスも口を挟まなかった。
立ち上がったブランの視線の先には、昨日の襲撃で傷を負った龍たちがいる。大きな身体にはまだ生々しい傷が残り、治療の跡も消えていない。その足元では孵って間もない幼龍が親の翼に寄り添い、見慣れない二人の魔女を不安そうに見上げていた。
さらに少し離れた場所には、龍とは異なる姿をした者たちも集まっている。額に角を持つ者、獣の耳を残した者、腕や頬の一部を鱗に覆われた者。かつてはヒトとして生まれながら、魔物の力をその身に宿したことで、ヒトの社会から居場所を失った魔人たちだった。
「龍を護ることについては、あなたに説明するまでもないでしょう」
ブランの言葉を受け、ヴァルガスの目が仲間たちへ向く。
護るべきなのは、空を飛び、牙を剥き、自分の身を自分で守れる龍だけではない。傷ついた者も、幼い者も、まだ殻の中にいる卵も、そのすべてを含めてだと告げられると、ヴァルガスは昨日助けられなかった小さな龍の亡骸があった場所へ、一度だけ目を落とした。
「……分かってる」
短い返事だったが、その声にはもう昨日までの軽さがなかった。
それ以上念を押すことなく、ブランは今度は魔人たちへ視線を移す。彼らにとってヴァルガスは、まだ仲間ではない。巨大な龍王を前にすれば身構えるのも無理はなく、誰も口こそ開かないものの、肩や指先には隠しきれない緊張が残っていた。
「この方たちもです。ここへ来たいと望むのであれば、龍でなくても受け入れてください」
ヴァルガスは魔人たちを一人ずつ眺めながら、鼻から長く息を吐いた。
自分たちだって、狩られる側だった。
角を奪われ、鱗を剥がされ、血を求められ、卵さえ持ち去られる。姿が違うというだけで追われる苦しさなら、嫌というほど知っている。
「あぁ。似たような目に遭ってる連中を追い返すほど、落ちぶれちゃいねぇよ」
その一言で、魔人たちの間に張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩んだ。
それを見届けたノワールは、アファルから手を離して立ち上がり、今度はヴァルガスの正面まで歩いていく。
「じゃあ、最後ね」
龍も、魔人も、それ以外の種族も。ここで生きたいと願った者が、種族だけを理由に居場所を奪われない土地にする。
そんな場所にしてほしいのだと告げるノワールの言葉を、ヴァルガスは黙って聞いていた。
けれど最後に、
「ヒトもね」
と付け加えた瞬間、その表情からわずかな柔らかさが消えた。
昨日、森の向こうへ逃げていった者たちの姿が脳裏に蘇る。龍の角を欲しがり、鱗を剥ぎ、血を求め、卵まで奪おうとしたヒト族。その手にかかった仲間の傷も、助けられなかった命も、まだあまりに近い。
「……あいつらまで受け入れろっていうのか」
低い声に、ノワールは迷うことなく頷いた。
「うん」
当然のような返事に、ヴァルガスの眉間へ深い皺が寄る。仲間を殺した者たちを忘れろと言われても、できるはずがない。
それでもノワールは、だからこそだと言った。
「追い出されたからって、今度は自分たちが追い出す側になったら、何も変わらないでしょ」
二人の間を風が抜け、小さなアファルの葉がかすかに鳴る。
「嫌いでもいいの。全員と仲良くなんて無理だもの。私だって嫌いな相手くらいいるわ」
「多そうですね」
横から漏れたブランの声に、ノワールがじろりと振り返った。
「何か言った?」
「いいえ」
ほんの一瞬だけ空気が緩んだものの、ノワールはすぐにヴァルガスへ向き直る。
「でも、生きる場所くらいはあっていいでしょ」
それ以上、誰も答えを急かさなかった。
ヴァルガスはまず傷ついた龍たちを見て、次に魔人たちへ視線を移し、そのまま彼らの向こうに広がる土地を見渡した。
昨日まで山に塞がれていた場所には、もう何もない。
大きく抉られた大地の先まで空が続き、吹き抜ける風だけが、まだ何もない土地を横切っていく。ここに誰が来るのか、どんな場所になるのか、今はまだ誰にも分からない。
長い沈黙の末、ヴァルガスは深く息を吐いた。
「分かった。龍は俺が護る。ここへ来る奴も、俺たちを害さねぇ限り拒まん」
最後の一言だけは少し苦そうに、それでも逃げずに言い切る。
「ヒトも含めてな」
ノワールは満足そうに笑い、アファルのもとへ戻った。
「じゃあ、私たちも約束する」
小さな苗木へ手を添えると、指先から赤い光が地中へと沈み、根を包み込むように広がっていく。
この木は、これから千年かけて国とともに育つ。
土地に溜まる魔素を整え、ここで暮らす者たちを護りながら、その変化を見届ける。その役目は永遠ではなく、千年後に終わる。そこから先は何かを背負わせることなく、ただ一本のアファルとしてこの地に残ればいい。
細い幹を見下ろしながら、ヴァルガスが呟いた。
「千年も育つのか」
「そうよ。この国で一番大きな木にするんだから」
ノワールが葉を一枚、指先でそっと撫でる。その動きに呼応するように、根元を巡っていた赤い光の輪がゆっくりと閉じた。
続いてブランが杖を掲げると、今度は青い光がヴァルガスの巨体を包み、翼や角、鱗に覆われた身体の輪郭を静かになぞっていく。その内側に浮かび上がったのは、龍とはまるで異なる、一人の人間の姿だった。
龍であることを捨てる魔法ではない。
必要なときだけヒトの姿を借り、望めばいつでも本来の姿へ戻れるようにするための理だった。
説明を聞きながら自分の前脚を眺めていたヴァルガスは、しばらくして感心したように鼻を鳴らした。
「そいつは便利だな。この身体じゃ、家に入るたび壊しそうだ」
「すでに山を壊した方はいらっしゃいますけど」
何気なく返したブランの一言に、ノワールが勢いよく振り向く。
「だから私の話はもういいの!」
その抗議をよそに、二つ目の青い輪も静かに閉じていった。
残ったのは、最後のひとつだった。
ノワールが差し出した指先から広がった赤い光は、それまでの二つとは比べものにならないほど大きく、アファルを中心に何もない土地を遠くまで這っていく。
「最後は――悉虚龍アヴァロン」
名前を聞いただけで、ヴァルガスの顔が曇った。
「……嫌な予感しかしねぇ」
珍しく、その予感は正しかった。
これから長い年月の中で、アヴァロンは幾度かこの地へ現れ、街を脅かし、人々に恐れられる巨大な龍としてその姿を晒す。そしてそのたびに、ヴァルガスが立ちはだかる。
龍は恐ろしい存在だという認識を、言葉だけで変えることは難しい。ならば、龍が誰かを護る姿を実際に見せればいい。
脅威から街を護る龍を、人々が目にする。
それが一度ではなく、世代を越えて繰り返されれば、いつか龍を見る目そのものが変わっていく。
「つまり俺は、そのアヴァロンとかいう奴と何度も戦わされるわけか」
ようやく全容を理解したヴァルガスが、露骨に疲れた顔をした。
「そういうこと」
「いつまでだよ」
その問いには、ノワールも少しだけ考えた。
「必要なくなるまで」
龍が誰かを護ることを、誰も特別だと思わなくなるまで。英雄という言葉さえ要らなくなるほど、それが当たり前のことになったなら、その時点でアヴァロンの役目も終わる。
「……面倒くせぇ魔法だな」
「大丈夫よ。あなた、英雄っぽいし」
「そういう話じゃねぇ」
盛大なため息をつくヴァルガスの前で、三つ目の輪もゆっくりと閉じた。
赤と青の光がアファルの周囲を巡り、それぞれ別々だった約束を一つの大きな円へ束ねていく。
龍を護ること。
居場所を失った者を受け入れること。
種族だけを理由に、誰かをこの土地から追い出さないこと。
そして、その約束が続いていくために、二人の魔女が残す魔法。
輪が完成しかけたところで、ブランはその外側へもう一本、細い光の線を描いた。
「最後に、これらの縁へ区切りを設けます」
その期間は、千年。
千年後、二人はこの土地へ戻る。そのとき、この国がどうなっているのか。今日ここで交わした約束がどんな形で残り、自分たちが残した魔法が、その時代にもまだ必要とされているのか。
それを確かめるための区切りだった。
青い光はアファルの根へ沈み、そこから龍へ、魔人へ、さらに今はまだこの地に存在しない未来の住人たちへと、枝分かれするように伸びていく。
やがて巡り巡った光が、ノワールとブランのもとへ戻ってきた。
ノワールは差し出した両手で、その光を受け止める。
「だったら、道標も必要ね」
手のひらの中で赤と青が絡み合い、小さな光の足跡へ姿を変えた。
ここで誰と出会ったのか。
何を願ったのか。
何を約束したのか。
そして、何を残したのか。
もし記憶から失われても、その縁を辿れば、もう一度この場所へ帰ってこられるように。
ノワールとブランは並んで小さなアファルの幹へ手を添え、地を巡っていたすべての光を、ゆっくりとその根元へ集めていく。
「千年をもって、この縁を足跡となす」
赤と青の光が二人の手の下で重なった。
『猫の足跡』




