黒歴史には触れないで
巨大な身体を可能な限り低く伏せ、ヴァルガスは広場の中央で深々と頭を下げていた。
「本当に申し訳ございません。こちらの躾が足りませんでした」
白銀の英雄龍がそう謝る両脇では、数頭の龍も揃って首を伏せている。少し離れた石畳には、つい先ほどオトに叩き落とされた若い龍が大の字になったまま動かず、さっきまで「龍王だ」「守護龍ヴァルガス様だ」と沸き立っていた民衆も、今ばかりは声を潜めて遠巻きに成り行きを見守っていた。
オトはそんな謝罪の列を端から端まで眺め、なんとなく首を傾げる。
「……これ、前にも見たことある気がする」
「ありますよ。ほとんど同じことが」
間髪入れず返したナナに、本当なのかと問い返すと、当然のように頷かれた。オトは「へえ」とだけ漏らし、改めて目の前の巨大な龍を見上げる。
「あなたも大変ね」
その言葉だけは予想外だったらしい。ヴァルガスはゆっくり顔を上げ、何か言いたそうにオトを見つめたが、怪訝そうに眉を寄せられると「何でもありません」とだけ答えた。
やがて、その巨体が淡い光に包まれる。大きな翼が身体へ吸い込まれるように縮み、白銀の鱗が光の粒となってほどけていった。広場を覆っていた巨影はみるみる小さくなり、光が消えたとき、そこには一人の男が立っていた。
白い髪に、龍の名残である長い角。濃い色のスーツを隙なく着こなし、真っ直ぐに背筋を伸ばした姿には、先ほどまで空を覆っていた龍とはまた別種の威圧感がある。
ヴァルガスは二人の前まで歩み寄ると、静かに片膝をついた。
「お久しゅうございます、ノワ――」
そこでぴたりと言葉を止めたため、オトが怪訝そうに見下ろす。
「なに?」
「いえ。……ああ、今はこうお呼びすべきですかな」
小さく咳払いをして姿勢を正し、改めて恭しく頭を垂れる。
「偉大なる原初の魔女、マギア・エルテナ様。そして始まりの魔女、マギア・ノワリア様」
その呼び名を聞いた瞬間、オトの眉がぴくりと動いた。
「その名前で呼ぶのやめて」
「これは失礼しました。では、ノワール様、ブラン様」
「なんで戻るのよ!」
オトの声が広場いっぱいに響き、周囲の龍人たちが一斉にこちらを見る。ヴァルガスはその視線にも構わず、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「昔はそうお呼びしておりましたので」
「昔は昔でしょ。今はオト!」
しばらく睨み合った末、ヴァルガスの方が折れた。
「承知しました。オト殿」
あまりにもあっさり引き下がったので、オトは逆に疑わしそうな顔をしたが、ヴァルガスはもう何食わぬ表情に戻っている。
「ナナもナナでいいから」
「承知しております。ナナ殿」
「私は何も言っていませんけどね」
ナナは呆れたように息を吐いたものの、その表情はどこか柔らかかった。
「お久しぶりです、ヴァルガス」
「ええ。本当に、お久しゅうございます」
ようやく交わされたまともな挨拶に、ヴァルガスの声も少しだけ穏やかになる。二人をゆっくり見比べていた視線が、やがてオトの顔で止まった。
「眼帯は、もうされていないのですな」
唐突な言葉に、オトは自分の右目の辺りへ手をやった。
「しないわよ」
「それは何よりです」
妙に安心したような返事だった。意味を問い詰めても、ヴァルガスは「少々、安心しただけです」としか言わない。その横でナナが口元を押さえているのに気づき、オトはじろりと横を見た。
「ナナ、笑ってる?」
「いいえ」
「絶対笑ってるでしょ」
「気のせいです」
どう見ても気のせいではない。オトは不満そうに頬を膨らませたものの、すぐに興味を別のところへ移したらしく、今度はヴァルガスを上から下まで眺めた。
「でも、あなた全然変わってないわね」
「オト殿に言われたくはありませんな」
「私は魔女だもの」
「私も龍種ですので」
それを聞くと、オトは「あ、そっか」とあっさり納得し、そのまま視線を上へ向ける。
街の中心にそびえるアファルは、見上げても頂上が霞むほど巨大になっていた。遥か頭上では枝葉が風を受け、重い音を立てて揺れている。
「この子は、ずいぶん大きくなったわね」
「ええ。あなたは、あのとき言ったでしょう。アファルが大きくなった頃、また見に来る、と」
その言葉に、オトはしばらく黙った。眉間に皺を寄せ、記憶の底を探るように目を細めた末、ようやく小さく「あ」と声を漏らす。
「思い出しましたか?」
「……ちょっとだけ」
隣でナナが小さく息を吐く。その音に気づいたオトがすぐに「ごめんって」と口を尖らせると、ヴァルガスはそんな二人を見て、今度こそはっきりと笑った。
「まあ、約束を破ったわけではありません。ただ――ずいぶん待たされましたがね」
「どのくらい?」
「千年です」
何でもないことのように返された数字に、オトは瞬きをする。
「……そんなに?」
「そんなに、です」
オトはもう一度アファルを見上げた。記憶の中では両腕で囲めそうなほど小さな苗木だったはずなのに、今では街そのものを見下ろすほどの大樹になっている。隣ではナナも、その幹を静かに見つめていた。
「では、探しましょうか」
「なにを?」
「私たちが、ここに残した足跡です」
その言葉で、オトの視線も再び大樹へ戻る。
「……ちゃんと残ってる?」
「千年程度で消えるようには作っていません。ただ、見つかるかどうかは別ですが」
「そこは頑張ってよ」
ナナは答えず、そのまま巨大なアファルへ向かって歩き出した。オトも慌てて後を追い、ヴァルガスはその場に残って、千年前とほとんど変わらない二人の背中をしばらく黙って見送っていた。




