若き龍ヴァルガス
低い咆哮が山肌を震わせた。
直後、頭上を巨大な影が覆う。木々が激しく揺れ、翼に煽られた土埃が岩場を駆け抜けた。白銀の鱗を持つ巨龍が地面へ降り立つと、そこにいた龍たちが一斉に顔を上げる。
「ヴァルガス様が来たぞ!」
上がった声には安堵が滲んでいたが、それ以上に焦りがあった。
岩場には数頭の龍が横たわっている。身体には矢が刺さり、鱗には刃物で切りつけられた跡が残っていた。少し離れた場所には折れた槍や弓が散らばり、ヒト族が逃げ込んだ森の方角へ点々と血の跡が続いている。
その負傷した龍たちに治療を施していたのが、二人の魔女だった。
一頭はすでに峠を越え、もう一頭も浅いながら呼吸を取り戻している。ただ、一番奥に横たわる小さな龍だけは、もう動かなかった。
ヴァルガスの視線が、その亡骸で止まった。
次に、傍らにいる二人の魔女へ向く。
「……てめぇら」
「ヴァルガス様、違います!」
傷ついた龍が慌てて声を上げたが、怒りに染まったヴァルガスの耳には入らなかったらしい。鼻先から白い煙を漏らしながら、低く唸る。
「俺の仲間に、何しやがった」
治療の手を止めたノワールが振り返った。
「助けたんだけど」
「黙れ!」
山を揺らす咆哮に、周囲の龍たちが慌ててヴァルガスの前へ出る。
「違うんです! この方たちは――」
「どけ!」
「ですが――」
「どけっつってんだ!」
ヴァルガスが大きく翼を広げた。風圧に砂利が跳ね、負傷した龍たちが身を伏せる。
その様子を見ていたブランは治療の手を止め、ゆっくり立ち上がった。
「話を聞く気は?」
「ねぇ!」
「そうですか」
短く答えると、ブランは隣のノワールを見る。
「どうします?」
「仕方ないわね。一発殴れば落ち着くでしょ」
ノワールも立ち上がり、ローブの内側へ手を入れた。取り出したのは、漆黒の布地に紅い焔が刺繍された眼帯。それを慣れた手つきで右目につける。
ブランは見慣れた光景に、呆れたような視線を向けた。
「またそれですか」
「当然でしょ」
「必要ですか?」
「必要よ」
「何に?」
ノワールは眼帯の位置を指先で整えると、得意げに顎を上げた。
「決まるから」
「……そうですか」
そのやり取りを待つほどヴァルガスは気長ではなかった。
巨体が地面を蹴った瞬間、岩場が砕ける。身体の大きさからは想像もつかない速度で、一気にノワールとの距離を詰めてきた。
「速い」
ノワールは少しだけ目を見開いたものの、避けようとはしなかった。黒いローブの裾を翻し、迫る巨龍へ片手を向ける。
「紅蓮を封ぜし我が右眼よ。いま一時、その鎖を世界へと繋げ――」
「眼帯、つけたままですけどね」
「そこは雰囲気よ!」
横から入ったブランの指摘に一瞬だけ頬を赤くしながらも、ノワールは詠唱を止めない。
「天を仰ぐ驕れる者よ。星の重みをその身で知れ――」
『星崩せし獄重力!』
次の瞬間、ノワールを押し潰そうとしていたヴァルガスの巨体が、不自然なほど軽々と宙へ浮いた。
「な――」
驚きの声を上げた直後、その身体が今度は凄まじい勢いで岩場へ叩きつけられる。
山全体に鈍い音が響き、足元が大きく揺れた。周囲の龍たちは言葉を失い、土煙の向こうに沈んだヴァルガスを見つめている。
「ヴァ……ヴァルガス様……?」
返事の代わりに、土煙の中で山のような巨体が動いた。
「……っ、まだだ!」
鼻先から血を流しながらも、ヴァルガスは身体を起こす。その瞳から戦意は少しも消えていなかった。
「丈夫ね」
感心したように頷くノワールに、ブランは冷静な視線を送る。
「褒めている場合ですか」
再びヴァルガスが構えるのを見て、ノワールも片手をゆっくりと天へ掲げた。
その動きを見たブランが、嫌なものを察したように眉を寄せる。
「ノワール。それ、一発の範囲を超えていませんか?」
「大丈夫。ちょっと強いだけよ」
「あなたの『ちょっと』は信用していません」
聞き流したノワールが目を閉じると、それまで山を抜けていた風がぴたりと止まった。
「天蓋よ裂けよ。大地よ哭け。数多の理を束ねし光よ、我が掌へ集いて終焉の福音となれ」
空が淡く光り始める。
ひとつ、またひとつと魔法陣が生まれ、やがて幾重にも重なってノワールの頭上を覆っていった。
「逃れ得ぬ者には慈悲を。抗う者には安らかなる滅びを。そして我が前に立つすべてへ――」
「ノワール」
「いま一番いいところなんだけど」
不満そうに振り向いたノワールへ、ブランが岩場の端を指した。
「龍の皆さんが何か言っています」
ヴァルガスが再び地面を蹴ろうとしていた。その前へ、傷ついた龍たちが痛む身体を押して割って入る。
「待ってください!」
「邪魔するな!」
「この方たちじゃありません! 我々を襲ったのはヒト族です!」
ヴァルガスの動きが止まった。
負傷した龍は息を切らしながらも必死に続ける。
「この方たちは、襲われた我々を助けてくださったんです。治療までしていただきました!」
別の龍も強く頷く。
そこでようやくヴァルガスは周囲を見た。散乱した槍や弓、森へ続く血の跡、治療を受けた仲間たち。そして、もう動くことのない小さな龍。
最後にノワールとブランへ視線を戻し、怒りの勢いを失った声で尋ねる。
「…………そうなのか?」
「最初からそう言ってるでしょ」
ノワールが呆れたように答えると、ヴァルガスはしばらく黙り込み、やがて大きな頭を気まずそうに下げた。
「……悪かった。勘違いした」
「分かればいいのよ」
あっさり許したノワールに対し、ブランは別のものを気にしていた。
頭上では、巨大な魔法陣がまだ消えていない。
「ノワール」
「なに?」
「魔法」
「うん」
「もう止めていいですよ」
ノワールは答えなかった。
ブランが視線を向けると、本人も頭上の魔法陣を見上げたまま黙っている。
「ノワール?」
「…………」
「止められますよね?」
幾重にも重なった魔法陣が、ゆっくりと回転を始めた。
ノワールは一度だけ目を泳がせたあと、わざとらしく姿勢を正す。
「一度顕現せし終焉の福音を、いまさら術者の都合で退けられると思うか。我が魔力を喰らいて生まれし天罰は、世界を白へ還すその瞬間まで――」
「普通に言ってください」
「もう無理。ごめん」
「でしょうね」
ヴァルガスが勢いよく顔を上げた。
「おい、何が――」
その瞬間、魔法陣がひときわ強く輝いた。
光が一点へ収束していくのを見て、ブランはため息をつきながら傷ついた龍たちの前へ出る。両手を広げると青白い光が円を描き、ノワールたちを含めた一帯を大きな膜のように包み込んだ。
「……発動した」
ノワールが小さく呟く。
『福音たる天崩地裂』
光が落ちた。
山が消えた。
轟音は、一瞬遅れてやってきた。
青白い障壁の向こうで岩盤が砕け、森が根こそぎ吹き飛んでいく。地面そのものが押し流されるように削れ、遥か向こうまで続いていた峰の一部が光の中へ呑み込まれた。
ブランの張った障壁が激しく軋む。傷ついた龍たちは身を低くし、ヴァルガスでさえ翼で顔を庇いながら、目の前で起きていることをただ見ているしかなかった。
やがて衝撃が収まり、巻き上がった土煙も少しずつ風に流されていく。
誰も、すぐには言葉を発しなかった。
さっきまでそこにあったはずの山が、ない。
大きく抉られた土地の向こうまで空が見えている。
ヴァルガスは口を開けたまま固まり、ブランも障壁を解きながら深いため息を吐いた。
ノワールは自分が作った景色をしばらく眺めてから、ようやく小さな声を漏らす。
「……あ」
それだけだった。
次の瞬間、助けられた龍たちが傷ついた身体を引きずるようにヴァルガスの前へ集まった。
「本当に申し訳ございません!! ヴァルガス様の早とちりです!」
巨大な身体を可能な限り低く伏せ、揃って頭を地面へ擦りつけた。
もし「面白い!」「続きが気になる!」と少しでも思っていただけたら、画面をもう少しだけ下にスクロールしたところにある……
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