英雄龍ヴァルガス
「これだけ大きくなると、あの子につけた足跡、まだ見つかるでしょうか」
ナナが大樹を見上げながら呟くと、隣のオトが不思議そうに首を傾げた。
「足跡? この子に?」
「ええ」
「……何か約束したかしら?」
ナナの顔から、すっと表情が消えた。
「……またですか?」
「でも、覚えてることもあるわ!」
慌てて取り繕うオトに、では何を覚えているのかと問えば、しばらく考え込んだ末、アファルの枝葉の間を飛び交う龍たちへ視線を向ける。
「ここには確か……ボケカス? だったかなぁ。そんな名前の龍がいたよねぇ?」
ナナは答えなかった。
その沈黙を否定と受け取ったらしく、オトが横目で窺う。
「違った?」
「かなり違います。ヴァルガスです。ボケカスではありません」
「でも似てるでしょ」
「一文字も合っていません」
ぴしゃりと言い切られても、オトは納得していないらしい。
「最後のスは合ってるじゃない」
ナナが何か言い返すより先に、背後から唸るような声が飛んできた。
「おいっ」
二人が振り返ると、角を生やした若い男が立っていた。背は高く肩幅も広い。首元や腕には龍の鱗が残り、険しい顔でこちらを睨んでいる。どうやら今の会話を聞かれていたらしい。
「今、ヴァルガス様をなんて言った?」
「ヴァルガス様?」
ナナが首を傾げる横で、オトはようやく名前を思い出したように手を打った。
「あ、それよ! ヴァルガス!」
「ボケカスって言っただろうが!」
「間違えただけよ」
「そんな間違い方する奴はいねーよ!」
若い龍人の声が大通りに響き、周囲を歩いていた者たちも何事かと足を止め始める。
ナナが小声で謝っておいた方がいいと促すと、オトは意外にも素直に「ごめんなさい」と頭を下げた。ところが、それで収まるほど相手は冷静ではなかった。
「俺たちの英雄を侮辱して、謝って終わりか?」
オトは顔を上げ、少し困ったように眉を寄せる。
「じゃあ、どうすればいいの?」
「その態度が気に入らねぇって言ってんだよ!」
「困ったわね」
助けを求めるようにナナを見ると、返ってきたのは「最近の若者は血気盛んですね」という他人事のような感想だった。
「あなたが言います?」
そのやり取りが、完全に火へ油を注いだ。
「舐めてんじゃねぇ!」
怒声と同時に、若い龍人の身体が膨れ上がった。服の下から鱗が広がり、腕は太い前脚へ、背中からは巨大な翼が押し出される。人の姿は瞬く間に失われ、大通りを塞ぐほどの龍が二人の前に立ちはだかった。
通行人たちは悲鳴を上げて距離を取り、店先にいた者まで慌てて建物の陰へ逃げ込んでいく。
そんな騒ぎの真ん中で、オトだけが変わらず龍を見上げていた。
「街の中でやるの?」
『黙れ!』
巨大な前脚が振り下ろされる。
ナナは巻き込まれないよう一歩だけ距離を取ったが、オトは避けようともしなかった。ただ、面倒そうに片手を軽く振る。
次の瞬間、振り下ろされるはずだった龍の巨体がふわりと宙へ浮いた。
何が起きたのか理解する暇もなく、そのまま石畳へ叩きつけられる。
轟音とともに街が揺れた。建物の窓が一斉に鳴り、頭上の空中交通路を飛んでいた者たちまで、何事かとこちらを振り返る。
若い龍は大の字になったまま、動かなくなった。
「オト」
ナナが静かに名前を呼ぶ。
「手加減したよ?」
先に言い訳したオトをしばらく見つめたあと、ナナは「そうですか」とだけ返した。
「ほんとよ。詠唱も呪文も、杖さえ使ってないもの」
それが手加減の証明になるのかは怪しいところだったが、周囲の者たちにはそんなことを考える余裕もない。圧倒的な力を目の前にして、ざわめきだけが広場を伝っていった。
だが、そのざわめきは間もなく別の声に塗り替えられる。
「見ろ!」
誰かが空を指差した。
アファルの巨大な樹冠から、一つの影がゆっくりと離れていく。
遠目にも分かるほど巨大だった。翼を広げるだけで、その下に並ぶ建物が丸ごと影に呑まれていく。陽光を弾く白銀の鱗と、長く伸びた角。その姿を認めた瞬間、街の空気が一変した。
「ヴァルガス様だ!」
「龍王さま!」
「英雄龍ヴァルガス様!」
さっきまで騒ぎから逃げていた者たちまで足を止め、歓声を上げながら空を見上げる。子どもたちは夢中で手を振り、龍人たちは胸へ拳を当てて頭を下げた。
白銀の龍は人々の歓声を浴びながら、ゆっくりと高度を落としてくる。
その眼下には、石畳に大の字で伸びた若い龍と、その傍らに何事もなかったように立つ二人の魔女。
巨大な瞳が広場の騒ぎを一度見渡し、最後にオトとナナへ向けられた。
「……なんの騒ぎだ?」




