恐怖の残響
「あぁ~、これ最高!」綾音は頬に手を当てながら、肉まんを味わいながらうっとりとした声を上げた。クラスのみんなも同じように嬉しそうな表情で、葵が持ってきてくれたお菓子を楽しそうに食べていた。
「すごく美味しい!」光が叫んだ。
「全部葵のおかげだよ」誰かが笑顔で付け加えた。「みんなにちゃんと配ってくれたんだ」
みんなの視線は葵へと向けられた。机に寄りかかり、頬に手を当て、目を伏せて遠くを見つめている。
「あいつ、心ここにあらずみたいだ」和樹は冷や汗をかきながら呟いた。
ライトは一口飲み込み、葵の方を向いた。「おい、桜庭」
返事はない。
「葵?」綾音は目の前で指を2回鳴らした。
「え?」葵は瞬きをして、指を鳴らし返した。
「よかった、やっと戻ってきたね」芽衣が軽くからかった。
葵の目がピクッと動いた。「何?」
「電話したんだよ」陸也が優しく言った。「大丈夫?ぼーっとしてるみたいだけど」
葵はゆっくりと息を吐き出した。ルーカスの顔が脳裏をよぎる。彼の痣、口を固く閉ざして彼を避ける様子。たとえ話したとしても…何も解決しない。私自身も何も知らないのに。
彼女は姿勢を正し、微笑んだ。「大丈夫。ただ…過去のことを考えていただけ」
綾音たちはさりげなく視線を交わした。彼女の言いたいことは分かっていたので、それ以上は追及しなかった。
「そう」綾音は小さく頷いた。
「…でも正直言うと」静香が囁いた。「男の子のことを考えてるのかと思った」
「そうでしょ?!」さやかがニヤリと身を乗り出した。「誰なの、葵?」
「えっ?違うわよ!もう、イライラする!」葵は睨みつけた。
美鶴は笑い、陸也は安堵のため息をついた。
「少なくとも今は普通に振る舞ってるわね」と芽衣がくすくす笑い、綾音もそれにつられて笑った。
葵は窓の外を見つめ、表情を曇らせた。それでも…彼には何か違和感がある。何を隠しているのだろう?
ライトは横目で葵をちらりと見て、彼女が考え込む様子を静かに鼻歌で呟いた。
.......................
その日の夕方、葵は夜のジョギングに出かけた。パーカーに黒いパンツ、スニーカー姿で、イヤホンをつけ、髪を下ろし、涼しい空気の中を規則正しい呼吸で走っていた。しかし、彼女の心は走っているわけではなかった。
ルーカス…彼のことをほとんど知らないのに、どうしてこんなに不安なんだろう?今日の彼の声は、震えていて、打ちひしがれていた。いつもの彼とは違う。
静かな通りを曲がり、誰もいないストリートバスケのコートを通り過ぎた時、彼女は小声で「くそ…」と呟いた。そして、速度を落とした。
「ん?」
コートには二つの人影が立っていた。
彼女はそっと近づき、木の陰に隠れた。「…ルーカス?」と囁き、赤い髪をすぐに認識した。
しかし、彼は一人ではなかった。もう一人の少年はもっと若く見えた。中学生くらいだろうか。色白の肌に、眉毛にかかるほど乱れた濃い茶色の髪。彼は彼女に背を向けていたので、表情は見えなかった。ルーカスの声ががらんとしたコートに響き渡った。「お前は行かない。以上だ。」
少年、直人はハッと顔を上げた。「行けないってどういうこと?姉ちゃんが危ないんだ!助けなきゃ!」
「お前にはどうすることもできない」ルーカスは静かに言った。「俺に任せろ。」
「嫌だ!」直人は拳を握りしめた。「お前を見てみろ!さっきひどい目に遭ったじゃないか。もっと長引いてたら、顔がめちゃくちゃになっていただろう!もう怪我してるんだぞ、最悪だ!」
ルーカスは顔をしかめ、視線を落とした。「すまない…約束したのに、今日は姉ちゃんを助けられなかった。奴らの隠れ場所は見つけたけど…助けられなかった。」
葵は眉をひそめた。助ける?一体どういうこと?
直人の声は震えていた。「みんなに助けを求めた方がいいんじゃないか?」
「えっ?まさか!」ルーカスは目を丸くして言い返した。「サヨナキの人には誰にも言えないよ。どうして僕を助けてくれるんだ?僕はただのよそ者だ。」
「それでも――」
「そういうことなんだ、直斗。」彼の声は弱々しくなった。「彼らは僕みたいな人間を気にかけるはずがない。」
直人は唇を噛み締めた。「…助けを求めないなら、せめて僕も一緒に行かせてくれ。」
ルーカスは身を硬くした。「だめだ。お前まで危険に巻き込むわけにはいかない。できない。」
直人はうなだれ、まつげに涙が溜まった。ルーカスは手を伸ばし、優しく彼の髪を撫でた。
「大丈夫だよ」と彼は優しく言った。「僕を信じて。必ず瑞希を取り戻す。」
直人はついに堪えきれず、涙を流した。「ルーカス、もう二度と怪我してほしくない…姉ちゃんを一緒に助けたいんだ。」
ルーカスは彼を強く抱きしめた。「僕も姉ちゃんを助けたい。約束するよ。必ず連れ戻す。だから、ここで安全に過ごしてくれ。」
葵は木に背中を押し付け、影で目を隠した。二人の声に込められた真剣さと、そして切羽詰まった様子に、彼女の胸は締め付けられた。
彼女は二人に気づかれないように、そっとその場を離れた。
ええ…何かが確実に起こっているわ。そして、私はそれが何なのか突き止めるつもりよ。彼女は歩き続け、家に向かって足早に歩き出した。
........................
翌日早朝、一年生を含む生徒たちは緊急ブリーフィングのために集まった。
「町をパトロールするんですか?」綾音は眉を上げて繰り返した。
「ええ」美空は集まった一年生たちを見渡しながら答えた。「警察から怪しい活動を取り締まるために協力を求められました。地下の密売組織が再び活動を再開したという情報です。」
麗奈は両手をポケットに突っ込んだ。「皆さん、張り込みに協力してください。何か見つけたり、気づいたりしたら――」
「…たとえ勘でも」涼が口を挟んだ。「すぐに報告してください。分かりましたか?」
「はい!」一年生たちは声を揃えた。
「上級生とペアを組んでもらいます」涼は続けた。「指導を受ける生徒もいれば、受けない生徒もいます。全校生徒の協力が必要なので、他に選択肢はありません。」
「分かりました!」一年生たちは再び声を揃えた。
「よし、動け!」リョウが号令をかけた。群衆は瞬時にグループに分かれた。
「地下組織の連中か」ミツルはニヤリと笑い、拳を突き上げた。「まるでアクション映画みたいだ!ぶっ飛ばしてやるぜ!」
「ただ戦いたいだけだろ」リクヤはため息をつき、眼鏡を押し上げた。
アオイは何も答えず、周囲を見回した。ルーカスはいない。
「行きましょう」彼女はそう言って、背を向けた。
ライトは眉を上げた。「うわ、誰がお前をリーダーにしたんだ?」
「別に異論はないわ」アヤネは肩をすくめた。
「え?」ライトは瞬きをした。
「私も」メイは微笑んだ。
「俺も」リクヤも付け加えた。
「俺も!」ミツルも声を揃えた。
ライトの頬が赤くなった。 「君の協力なんて頼んでないよ!冗談だよ!」
メイは瞬きをした。「変な…ライト?冗談?」
リクヤは鼻で笑った。「珍しいな。」
「黙れ!」
アオイは二人の声がほとんど聞こえなかった。昨日のルーカスの言葉と、ナオトの警告が頭の中で何度も繰り返されていた。
そして彼女は凍りついた。数ブロック先に、あの紛れもない赤い髪が見えた。
ルーカス。
黒っぽいグレーのジャケットにパーカー、ジーンズ、コンバットブーツを履いた彼は、背を向けてスマホを見つめていた。そして突然、顔が恐怖に染まり、近くの路地へと駆け込んだ。
「あそこにいる…」葵は囁いた。
彼女は素早く仲間の方を振り返った。「分かれて行動しよう。そうすればもっと広範囲をカバーできるわ。」
「そうね」綾音も同意した。「それぞれ違う情報を集められるわ。」
「よし。」葵は頷いた。「出発!」
皆はそれぞれ別の通りに散っていった。
ライトはためらい、葵が自分の道を進んでいくのを見送りながら振り返った。
静かにため息が漏れた。「俺も一緒に行くべきか…?」
彼は息を吐いた。
「いや、彼女なら大丈夫だ。きっとうまくいく。」彼は背を向け、そのまま歩き続けた。
………………
ルーカスは路地の奥深くに身を隠し、震える声で電話に向かって懇願した。
「お願いだ、お願いだ、頼むから」と、彼は震える息で囁いた。
返事は冷たく、退屈そうだった。「ガキ、お前はここの事情を全く分かっていないな。俺たちの仕事に首を突っ込むな。金さえ手に入れれば、女は逃げるかもしれないぞ」
ルーカスの膝は崩れ落ちそうになった。「俺を連れて行ってくれ…彼女には触らないでくれ。頼む」
スピーカーから下品な笑い声が響いた。「可愛いもんだな。だが、誰が傷つこうが構わない。俺たちが欲しいのは金だ。彼女の両親に金を吐かせろ」
「でも、奴らはもういない…町を出て行ったし、俺は…」
通知が彼の言葉を遮った。彼は画面を開き、凍りついた。
ラベンダーがかった黒髪の長い少女が、黒いパーカーを着た覆面男たちに囲まれて座っていた。男たちは少女を押さえつけ、腕には痣がいくつも残っていた。覆面を外した数人の顔がカメラに向かって嘲笑っていた。
ルーカスは息を呑んだ。「いや…いや、いや、いや…」
再び電話がかかってきた。
「時間は刻々と過ぎている」と声が嘲るように言った。「警察が既に嗅ぎ回っている。だから黙って、要求に応じろ」
電話は切れた。ルーカスは震えながら拳を握りしめた。
「くそっ…」彼の声は震え、かすかに響いた。
背後から静かな声が聞こえた。「大丈夫そうじゃないわね」
彼はハッと振り返ると、壁にもたれかかり、腕を組んでいた葵の姿が見えた。 「あ、葵…」彼は顔を背け、涙を隠そうと彼女の横を通り過ぎようとした。
しかし、彼女は彼の腕を優しく掴んだ。
「ルーカス」彼女の声は毅然としていながらも優しかった。「逃げても何も解決しないわ。」
彼は袖で目を拭った。「大丈夫だって言っただろ」
「もう一度そう言ったら、嘘をつくのをやめるまで街中を引きずり回すからね」と葵は警告した。
彼は弱々しく睨みつけた。「君とは関係ない」
彼女の表情が和らいだ。「本当に?」
彼女の声に宿る穏やかな誠実さに彼は驚いた。肩を落とした。
彼女は両手をポケットに突っ込み、「昨日、あなたとあの男の子が話していたことの断片を耳にしたの」と続けた。「全部じゃないけど、何かおかしいってわかるくらいには」
彼は力なくうつむいた。
「何があったのか教えてくれないと、私にはどうすることもできないわ」と葵は言った。「昨日からずっと様子がおかしい。誰だって心配するわ」
「…でも、どうして?」彼は囁いた。
彼女は少し近づいた。 「だって、あなたは私の友達だから。友達は背を向けたりしない。あなたは私たちの一員。ナイチンゲールの一員よ。」
彼は視線を落とし、唇を震わせた。胸は激しく上下し、平静を保とうと必死だった。葵は一歩近づき、声を潜めた。
「ルーカス…私を見て。」
彼はためらい、ごくりと唾を飲み込んだ。そして、ようやく顔を上げた。その目は潤んでいて、怯えと疲労に満ちていた。
「あなたは怖いのね」と葵は優しく言った。「一人で抱え込もうとしている。でも、そんな必要はないのよ。」
彼の唇が震えた。「葵…奴らが…奴らが彼女を連れ去ったんだ。俺のせいで。」
葵は眉をひそめた。「誰?」
「俺の彼女…瑞希だ。」彼の声は震えた。
「彼女?」葵は瞬きをした。「ちょっと待って…昨日言ってた女の子。直人の妹…彼女があなたの彼女なの?」
ルーカスは頷いた。「ああ。中学3年生の頃から付き合ってるんだ。」
「でも、最近総京志に引っ越してきたって言ってたじゃない。」
「そうだよ」と彼は言った。「2年生の時に転校してきたんだ。ほとんどの子は…俺を歓迎してくれなかった。でも瑞希は違った。」彼の口元に小さな笑みが浮かんだ。「彼女は俺が外国人だってことや、見た目なんて気にしなかった。彼女の家族も俺のことを気に入ってくれた。外国の文化が好きなんだ。」
葵は腕を組んだ。「そう。でも、さっきの電話は何だったの?どうして彼女は誘拐されたの?」
ルーカスの表情が曇った。「4日前の夜だった…」
彼の脳裏に当時の光景が蘇る。瑞希と直人と一緒に家路につき、笑い合い、涼しい夜風を感じていた。そして――
影。足音。場違いな笑い声。
「抵抗しようとしたんだ」ルーカスは囁いた。「でも、あっという間に圧倒されてしまった」
葵は彼の震える手を黙って見つめていた。
「僕が地面に倒れている間に、奴らは瑞希を捕まえたんだ」彼は続けた。「瑞希の叫び声…直人が僕を揺さぶり、起きろと懇願する声…僕は…動けなかった」
葵は歯を食いしばり、再び写真を見た。目に怒りが宿る。
「あの人たち、知らないの?」彼女は尋ねた。
「見たこともない。アジトまで突き止めたんだけど…殴られて、かろうじて逃げ出したんだ」
「だから昨日、あんなに様子がおかしかったのね…」葵は呟いた。「彼女のご両親はどうなの?」
ルーカスは首を横に振った。「両親は町を離れている。娘を失ったなんて、電話するわけにはいかない。彼女は僕に託されていたのに…僕はそれを果たせなかった。」
彼は手に持った電話を強く握りしめた。「もし彼女に何かあったら、一生自分を許せない。」
葵はゆっくりと息を吐き、彼の肩にそっと手を置いた。「じゃあ、私たちが彼女を取り戻すわ。」
「私たち?」その言葉は、弱々しく、信じられないといった様子で彼の口から漏れた。
葵は一度頷いた。「あなたを一人でこの厄介な状況に巻き込むつもりはない。それに、あのクズどもにこれ以上誰かを傷つけさせるわけにはいかない。」
ルーカスは激しく首を横に振り、後ずさりした。 「いや、君は分かってない。こいつらはただのチンピラじゃない。本気なんだ。警察に追われていることも分かってる。もし君が僕のせいで来たってことがバレたら…」
葵は彼の言葉を遮り、揺るぎない視線を向けた。「ルーカス…あなた自身が言ったでしょ。私たちはナイチンゲール。この町を守るのが私たちの使命なの。それに…」
彼女の口調が和らいだ。「あなたは私たちにとって大切な存在なの。好き嫌いに関わらず。ナイチンゲールは仲間を守り合う。地元の人だろうと…よそ者だろうと。あなたがこの町にいる限り、私たちはあなたを守るしかないのよ。」
その言葉に彼は打ちのめされた。両手で顔を覆い、膝が震え、肩が激しく揺れた。
「本当に…そんなに難しくなかったわ」彼女は半ば閉じかけた目で呟いた。
「だって…私たちはよく似ているもの」彼女はそう呟き、かつて自分も彼と同じような人間だったことを思い出した。クラスメートに自分の過去を話す前のことだ。
彼女は腕を組んだ。「わかったわ。もう十分よ。彼らが何を望んでいたって、もう一度言ってたっけ?」
ルーカスは鼻をすすり、顔を拭った。「奴らは金が欲しいんだ…かなりの額を。あの写真を送ってきて、誰かに話したら彼女を傷つけるって言った。だから、話さなかった…できなかったんだ…」
葵は首を傾げた。「でも、奴らはうっかりミスをしたわ。あなたに連絡してきた。つまり、必死なのよ。追い詰められた人間はミスをするもの。」
彼は顔を上げた。「…どういう意味?」
「奴らは油断する。その時こそ、私たちが攻撃する時よ。」
葵はスマホを取り出し、親指で素早くメッセージを打った。
ルーカスは瞬きをした。「な、何をしているんだ?」
「綾音に後で合流すると伝えているの」と彼女は返信し、すでにスマホのロックをかけていた。
彼の息が詰まった。「奴らに話したのか?!葵、だめだ…もし奴らが質問し始めたら…」
「何も説明していないわ」と彼女は冷静に言い放った。「ただ、重要な用事があると言っただけ。」
ルーカスは迷っているようだった。「でも…変に思われないかな?」
葵は肩をすくめた。「私が自分のやり方で物事を進めるのは慣れてるから。」
彼は驚きと感心が入り混じった表情で彼女を見つめた。「ずいぶん自信満々だな。」
彼女の口元が少し上がった。「みんな私を信頼してくれてるの」と静かに答えた。「それに今は、あなたの彼女は説明よりも私たちを必要としているわ。」
ルーカスは唾を飲み込み、それから頷いた。彼の目に浮かんでいた焦りは、決意へと変わっていた。「そうだな…」
葵は一歩前に出て、指の関節を鳴らした。「さあ、ミズキを迎えに行きましょう。」




