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 神代紡(かみしろつむぐ)が桜ヶ丘水上学園に入学を決意したのは、進路に決めあぐねていた九月末日のことだった。



「な~紡、あたしは高校もう決めたんだけど、紡はどーした?」



 中学帰り、河原でサッカーボールを蹴り上げた親友の向山夏菜(むこうやまなつな)が無邪気な表情でそう質問した。


 興奮しているのか、頬を赤らめ額に小さな汗の粒を浮かべている。対して冷静な表情でそれを蹴り返した紡は、鉄面皮の仮面をそのままにぽつりと呟いた。



「あー……未だ」



 その感情の乏しさはいつものことなので、自分事なのにいつも通り冷静だな、と軽く笑いながら夏菜が茶化す。



「まだ決めてないのか? ん~じゃぁ、あたしと同じとこ行く? なんちゃって……」


「それもいいな。ずっと一緒にいられる」


「……ふぇ⁉」



 自分で提案したことながら紡の即答に狼狽えた夏菜が一気に顔を赤らめるが、紡は「一緒に登校する人が変わらない方が楽だから」という飄々具合だ。



 しかしその気を知らず、率直な言葉に動揺した夏菜のパスが狂い、ボールが紡の斜め後方に跳ぶ。



「ごめっ」


「いーよ、別に」



 謝る夏菜の声を聴きながら、ボールのほうへ駆けた紡がしゃがんだタイミングで、急に頭に声が降ってきた。




「神代紡君だね?」




「————へ?」



 目の前に急に現れた人影に驚いた紡が面食らって顔を上げると、灰色のスーツに身を包んだ男性が紡のことを覗き込んでいた。



「‼」



 ずさっと間髪入れずに後方に飛びしざった紡に対し、その男性は「さすがの反射神経だね」と紡のことをさも知っているかのように口にする。


 親友の異変に後方から夏菜が駆け寄り紡の横に並んだ。




「……紡、この人知り合いか?」


「まったく」


「じゃぁなんで名前知られてるんだ⁉」


「知らない」



 こそこそと話していると二人の警戒を読んだのか男性はにこやかな笑みを浮かべ、流れるような所作で名刺を取り出し紡に差し出した。



「失礼、急に話しかけてすまない。私は『CHERRYQUITESEA』を設立した桜社長の秘書で武井という」


「紡、『CHERRYQUITESEA』って、いろんなところで活躍してる大会社だよ? なんで声かけれられてるんだ?」



「知らない———……で、大会社さんが俺にどのようなご用件でしょうか」




 困惑した表情でそれを受け取った紡は、夏菜と顔を見合わせ、疑問を口にする。不信感を隠そうとしない紡の態度にいやな表情一つ浮かべず、武井は続けた。




「社長からの言伝で君を連れてきてもらうように言われたんだ。少しついてきてくれないか? あそこに車を用意している」


「え」



 武井が指さした方向には黒いリムジンが止められており、ドアのそばに運転手が立っていることからも準備が万端なことがうかがえた。



「ちょっと、何言ってるんすか、誘拐ですか⁉」


「俺、誘拐される?」


「んなわけないだろ、っていうかあたしがさせない!」



 思わず驚愕した紡の隣で夏菜が焦ったように一歩前に出る。武井は「そう取られても仕方ない」と肯定しながら軽く両手を上げ、敵意がないことを示した。



「すまない、突然で驚いただろう。しかし、桜社長は今多忙で君の方へ直接伺う余裕がないんだ。だけどこちらとしても面会を諦めるわけにはいかない。すまないがここは従ってくれないだろうか」


「…………」



 ぎゅむ、と紡が眉根に皺を寄せる。


 「あ、熟考の顔」どうしようかと思案する紡のなじみの顔に夏菜が呟くと、武井が少し笑った。



「君たちは本当に仲良しなんだね。……誘拐を疑うのも仕方ない、良ければ君も一緒についてきてくれるか?」


「え、あたしも?」



 驚いて自分を指さす夏菜に武井が頷く。



「それで君が安心してくれるのなら。まぁ、中学生二人をかどわかしている悪い大人が言うことなんて信じられないかもだけど————」


「行きます」



 少しの間のあと返答した紡が武井のほうへ一歩出た。



「本当かい? ありがたい」


 ぱっと表情を明るくした武井が紡を促すように車のほうを指し示すと、夏菜が不安な表情で紡に話しかける。



「紡、いいの?」


「うん。夏菜は別に来なくてもいいよ。怖かったら」


「いや、行く!」


「そっか」



 調子を戻した紡が冷淡に述べ叢の上に投げ出ていたリュックを肩に掛けると、置いていかないでよ、と焦った夏菜もあとに続く。武井はいそいそと紡と夏菜の荷物を引き受け、二人をリムジンの後ろに招いた。



「どうぞ」


「ありがとうございます」


「ありがとう、ございます」



 二人が座席に腰を落としたのを確認すると直にリムジンが滑る。




「……なぁ紡、リムジンてすごいんだな、全然音がしないぞ」


「そうだな」




「全然揺れもしないぞ! さっき信号で止まったのに気が付かなかった!」


「そうだな」



「はは、えっと……神代君のお友達の……」


「あ。向山夏菜です」


「そうかすまない、向山さんはリムジンに乗るのは初めてかい?」


 しばらく走り、見慣れた通学路がはるか後方へ流れた所で、夏菜が感心したように口にする。それを拾った武井が笑顔を浮かべると、夏菜も警戒を解いたのか、穏やかな口調で答えた。



「はい。こんな機会なかったので。座席もふかふかでびっくりです」


「これは社長送迎用のだからね。うちの会社でも特に指折りのやつなんだ。……神代君は慣れているんじゃないのか?」


「いえ別に」



 前座席にいる武井がバックミラー越しに、即答した紡の冷徹な表情を覗く。



「紡、乗ったことあるのか?」


「……いや」


「まぁ、紡もお坊ちゃまじゃないもんな~」


「ああ」


「……やはり桜社長の見立ては正しかったな」


「……何か言いましたか、武井さん?」




 「いいや。気にしないでくれ。独り言だよ」一瞬相貌を細めた武井に夏菜が声をかけるも、すぐに笑みを浮かべなおした武井が話題を変える。



「向山さんはもう高校は決めたのかい?」


「はい、東都都立高校に行こうかと思っていて」


「——あぁ、あそこは確か女子サッカー部が有名だね」


「そうなんです、今は紡と同じサッカー部に入ってるんですが、高校はもっとちゃんと学びたいと思っていて」


「じゃぁ将来はなでしこジャパンだね」


「いや、そんなことは……」


「期待しているよ————と、言ってる間についた」



 すっと流れるようにリムジンが停止し、扉が開く。素早く右手方向に降りた紡が、ゆっくり降りようとしている夏菜のほうへ回り手を差し伸べると、武井が感心したような表情を浮かべた。



「神代君は、やはり慣れているね」


「……そんなことないですよ」


「? 紡?」


「何でもない。……武井さん、案内お願いします」


「あぁ」



 一瞬紡の顔がこわばったことに夏菜が疑問符を浮かべるが、かぶりを振った紡が武井のほうを見やる。うなずいた武井は晴天にそびえたつガラス張りのビルの、赤カーペットの敷かれたエントランスのほうへ二人を案内した。




「ようこそ、『CHERRYQUITESEA』本社へ」



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