22.大切なのは1
真っ暗な闇の中に森のさざめきを見つける。
視界が閉ざされているからこそ、より草の青臭さが鼻に沁み、緑の息づきを生々しく肌で感じた。
美しくも恐ろしい。相反する感情を抱かせる情景が脳裏にありありと描かれる。
その光景の中に埋没する。森に佇む1本の木になったようにおどろおどろしい空気に浸っていた。
やがて停滞した夢想の世界にも変化が現れる。一筋の光が差し込む幻影が見えた。
アルマスが目を開けると、そこは自身の工房の中庭だった。
アルマスはベンチに腰掛けたまま、背後から近付いてきた来訪者を気安く出迎える。
「おはよう。そんで、いらっしゃい」
「おはよ。お邪魔するわね」
リーリヤだった。亜麻色の髪を草色のリボンで2つに結ぶ、ここ最近の定番になりつつある姿で現れた。
その腕には大きなバスケットを抱えている。
驚きはしない。来るだろうと思っていたからだ。
「座りなよ」
アルマスは自身の腰掛けるベンチの隣を勧める。
「ありがと」
リーリヤは素直にアルマスの横に座る。いつぞやのように2人は並んでベンチに腰掛ける。
「昨日はよく眠れたかい?」
「まぁ、ぼちぼちかしらね。結構、夜更かししてたもの」
それにしてはリーリヤの顔はすっきりしていた。
「そうか」
アルマスは口元を緩ませ、ベンチの背もたれに寄りかかる。
リーリヤも脚を投げ出して、瞳を閉じていた。
2人は思い思いの姿勢をとる。
なんだかさっきよりも深く息が吸える気がした。
朝の空気を味わうだけの無言の時間。
されどそれは心地良い。
摩耗して欠けた心に何かが染み入り、充足を得る。表現するならば、そんな感じだろうか。
横を見れば、リーリヤと目が合う。互いに何かが通じ合った気がした。
しかし、リーリヤは恥ずかしがって正面に向き直る。それがまた面白くてアルマスは含み笑いをした。
声なき笑いは不思議なことにすぐバレた。頬を赤くしたリーリヤに横目で睨まれる。
アルマスは戯けたようにリーリヤの膝に置かれたバスケットを指で示す。
「あいにく今朝は時間が取れなくてね。もうそろそろ出ないといけない。残念ながら君の手料理を味わうことはできなさそうだ」
バスケットから覗くのは小麦粉の入った袋にバター。そして、ステーン家自慢の苺ジャム。
いったい何を作ろうとしているかは大体わかる。
「別に。あんたのために作るんじゃないわよ」
「そう?まさか1人で食べるの?とんでもない材料の量だけど。店でも開くのかって感じさ」
「こ、これは・・・。も、もうっ、うるさいわねっ。いいでしょ。理由があるのよ、理由が」
誤魔化そうとするリーリヤに、今度はアルマスは声を出して笑う。
あまりからかって機嫌を悪くしても仕方がない。
アルマスはリーリヤの求める情報を与える。
「じゃあ、ちょうどいいことにあそこの屋敷に寝泊まりしている子がいてね。ぜひ、彼女にご馳走してあげてほしい。朝食どころか、昨日からまともな食事すらしてないようだからさ」
「・・・・・・やっぱり、ここだったのね」
そう言うリーリヤの言葉に驚きはなかった。きっと確信があったのだと思う。
同時にリーリヤからは淀みのない澄んだ覚悟が伝わってきた。
アルマスは立ち上がる。
「おっと。聞くのを忘れてた。今日は何しに?」
リーリヤを振り返れば、宵闇色の瞳がアルマスを見上げている。
「モニカちゃんと友達になりに」
アルマスは目を瞑る。そして、さして悩むこともなくリーリヤを信じることにした。
「ほら」
アルマスはリーリヤに鍵を投げ渡す。屋敷の鍵だ。
頑張れとは言わない。それは無粋というものだ。
リーリヤがアルマスの背中に声を掛ける。
「今度、あんたにも振る舞ってあげるわよ」
「それは楽しみだ」
リーリヤがそうであるように、アルマスもまた自らの望みのために逆境に立ち向かわなければならない。
しかし、昨日まで立ちはだかっていたはずの大きな壁も、今ばかりはとても小さく感じた。
「あたしの前によく顔を出せるよね。自分が何したか忘れちゃったの?」
辛辣な言葉を鼻っ面にぶつけられる。
アルマスから受け取った鍵で屋敷に入った直後だった。
廊下の先にある客間から顔を覗かせたのはモニカだ。
リーリヤは言葉に詰まる。
言い返す立場ではないと自覚していたのもある。しかし、単純に声が出なかった。
モニカは酷くやつれた顔をしていた。美しかった赤毛の髪はボサボサ、肌は荒れ、目の下の隈は恐ろしく濃い。
あの明るくて華やかだったモニカの面影はない。
たった1日2日でこうも変わるのか。いや、そうじゃない。多分、取り繕うことをやめただけなのだ。
リーリヤはぐっと唇を噛みしめる。
モニカに会ったときの第一声は決めていたのに、頭の中からかき消えていた。例え覚えていたとしてもきっと言えなかったに違いない。ここまでモニカが追いつめられているとは思っていなかったのだ。
なんだかんだでモニカならば明るく笑い飛ばしているかもと淡い期待を抱いてしまっていた。
現実は残酷だった。
モニカは似合わない自嘲じみた冷笑を浮かべていたが、急にストリと感情が抜け落ちたかのように切り替わる。
「先生は?」
亡霊のような虚ろな雰囲気になったモニカから、投げやりな質問が飛んでくる。
その声色は震えているようにも聞こえた。
「先生は、どこに行っちゃったの?」
モニカの言う『先生』がアルマスなのだとやっと気付く。だが、気付いたところで答えられるわけではない。
リーリヤと入れ違いにどこかに出かけた。その行き先までは知らない。
だから、告げるのはこの場にはいないという事実だけになる。
リーリヤがそう答えるよりもモニカが察する方が早かった。
「そっか」
それきりモニカは部屋に引き返すとソファに座った。その視線は部屋の隅を見たきり動かない。もう目の前のリーリヤにも興味すらないようだった。
リーリヤは理解した。
モニカはもう怒ってすらいない。すべてを諦めているのだ。今のモニカにはどんな言葉も届かないだろう。
だったら、リーリヤのすることは―――。
「台所、借りるわよ」
モニカは力なくソファにもたれ掛かる。
もうどうでもよかった。
太陽の恵み亭も。花の乙女も。幼い頃の憧れも。
大事だと思っていたものは全部モニカの手からすり抜けた。
こうなった原因も、これからどうすれば良いかも、何も考えたくない。
ただ、気になるとすればだ。
「アルマス先生にも見捨てられちゃったのかな」
言葉にすると悲しくなる。
助けて欲しいと思った。優しく受け止めて、慰めて欲しいと。
アルマスはモニカを冷たくあしらいはしなかった。逆に優しくはあったのだろう。行く場所がないと言ったモニカに寝床を提供してくれた。
でも、それはいつもどおりの優しさだった。不自然なほどに日常の優しさだったのだ。
それはモニカの望んだものではなかった。
なんで、とも思う。だが、当たり前か。
自分が頼ること自体がアルマスを困らせているのはわかっている。
それくらい大きな騒ぎを起こしたのだ。
街の人々のようにモニカへの態度が豹変してなかっただけマシだったと思わなければ。
モニカはクッションに顔をうずめる。
目が覚めたら穏やかだった日常に戻っていないだろうか。慌ただしくも楽しかった日々が今は遠い。
ままならない世界を見ないふりして、せめて悲劇の乙女のように過去に耽りたい。
「・・・・・・うるさいなぁ」
しかし、それすらも許されない。
邪魔をされている。
壁1つ挟んだ向こう側のキッチンからひっきりなしに騒がしい音が鳴っている。
ガラガラ、ガシャン、とけたたましい音が容赦なく壁を突き破ってくる。
ここ数日でリーリヤの要領の悪さは身に染みている。何度、後始末をしただろうか。
リーリヤが調理場でドジを踏む姿が、目を瞑っていても瞼の裏に浮かぶ。
それがまたモニカを苛つかせた。
「〜〜〜っ!もうっ!」
モニカはソファから勢いよく起き上がる。
脱力し、気力が失われていたはずの身体には怒りが満ちていた。
いい加減、鬱陶しい。
今くらい1人にさせてくれ。悲嘆に暮れて静かに沈んでいたいのだ。
せめてアルマスに追い出されるなり、直接否定の言葉を投げつけられるまでは。
それくらい、いいじゃないか。
この煩わしさを振り払うべく、モニカはキッチンに向かう。
「あっ」
また水差しを倒した。
リーリヤは慌てて被害を確認する。
よかった。今度は材料に水はかかっていない。
テーブルの上の水気をリーリヤは布巾で手早く拭き取る。都合3回目ともなれば、片付けも手慣れたものだと胸を張ろうとして、その情けなさにやめる。
さっきは量を計る前の小麦粉にぶち撒けてしまって大変なことになったのだ。念のため何回も失敗していいように材料をたくさん持ってきておいてよかった。
因みに1回目は盛大に床を水浸しにした上に、水たまりを避けようとしてぶつかった調理器具が散乱するはめになった。
段々被害は小さくなっているので、少しは成長していると思いたい。
手先の器用さには割と自信があるのに、実際には何度も失敗ばかり重ねている。
自分の要領の悪さをこれでもかと叩き付けられていた。しかし、そんなことはわかりきったこと。
今更、悔やんだり、尻ごみはしない。
リーリヤは改めて気合を入れる。失敗してもまた一から挑めばいいのだ。
まずは材料から準備しなおす。机の上に小麦粉、水、卵、バター、牛乳を並べる。分量もしっかり計ったし、小麦粉もふるいにかけたから、これでダマにはならない。
「あと、これもだったわね」
リーリヤはバスケットの中から忘れかけていた物を取り出す。瓶詰めされた灰色の液体だ。
蓋を開けると緩い泡立ちと共にほのかに爽やかな甘みが香る。
ステーン家秘蔵のパンの種だ。パンを膨らませるのに必要な材料。
「これでふわっふわの美味しいロールパンを作るわよ」
そう。リーリヤはパンを作ろうとしていた。
普通の思考回路なら、どうしてそうなったと思うだろう。
謝りに来たんじゃないのかと。モニカに花の乙女を辞めないでほしいと伝えに来たのではないのかと。
もちろん、その気持ちは変わっていない。
けれども、モニカに会って確信した。
ひたすらに謝るだけじゃリーリヤの想いは届かない。
どんな言葉を並べてもモニカの心に響かなきゃ意味がない。それになにより、リーリヤ自身、自分が口下手なのはわかっている。このリーリヤの胸の中にある複雑な想いを適切な言葉で表現することは果てしなく難しい。
それでも、モニカに伝えたいことがある。
だからこそ、リーリヤはパンを作るのだ。相談したときにそれが良いと後押しをしてくれたヘレナやセルマには感謝している。
「よし。次は卵を割って・・・。おわっ」
卵を持ったところでリーリヤは気付く。
キッチンの入口にモニカが立っていた。それはもう堂々と、隠れる様子は微塵もない。
そして、無言だ。
何より視線が怖い。
モニカは酷い剣幕で黙りこくっている。
明らかにリーリヤの振る舞いを―――ひょっとするとリーリヤがこの場にいることさえ―――歓迎していないと伝わってくる。
だからといって縮こまって逃げ帰るわけにはいかない。
リーリヤは意識的に呼吸を整えて気持ちを落ち着ける。
ここはパン作りなんて突拍子もない行動でモニカの気を引けたことを喜ぼう。その点では作戦は順調と言えるのだ。
モニカをなるべく気にしないようにしつつ、リーリヤは作業に戻ろうとする。それが気に入らなかったのか、モニカからピリつく雰囲気が流れ出す。
「やばっ」
そのせいとは言わないが、リーリヤの手元が狂った。
小麦粉の入ったボウルに卵を割り入れようとして思いっきりぐしゃる。
ドロリと崩れた黄身に多量の殻が混じった。その殻を取り除こうとするが、中々取れない。スプーンを使って掬おうとするのに殻の欠片はスルリと逃げていく。結局、スプーンを放り投げて人差し指で四苦八苦したのち、やっとこさ欠片の1つを取る。
あと何個の欠片が混ざったのか。全部取らないとパンになったときにジャリジャリと酷い目にあう。
モニカの冷ややかな視線が突き刺さる中、リーリヤは時間を掛けてどうにか卵の殻を除去することに成功した。
この時点で疲労感が押し寄せてくる。しかし、作業はまだまだ序盤だ。これからの工程を考えると気が滅入る。
「ふんっ」
リーリヤは勢いに任せてボウルに手を突っ込んだ。
目の前のことに1つ1つぶつかっていく。大事なのは失敗を糧にして諦めない心だ。
すべての材料を混ぜ込んだ生地を手の平で押す。混ざるにつれて固さを増す生地にリーリヤは腕に力を込めてなんとか捏ねる。
そうしていると、非力なリーリヤの右手はあっという間に疲労でプルプルと震えてくる。いつもなら悲鳴をあげて投げ出すところだが、今日のリーリヤには秘策がある。
力の入らなくなった右手の代わりに左手を使うのだ。左手が疲れたら、また右手に戻す。交互にやれば、この苦難も乗り越えられる。
慣れない左手の作業でボウルごとひっくり返しそうになりながらも、一頻り捏ねたところで疑問がわく。
「あれぇ・・・?」
パン生地がベタベタする割に伸ばそうとするとボロボロと崩れる。リーリヤの思い描くパン生地とはどこか違う。とはいえ、材料に問題はないし、しかるほど影響はないものと見た。
それよりも大切なのは隠し味だろう。
「シロカエデのシロップをたっぷりと」
最近のリーリヤのお気に入りは、薄い固焼きのパンにシロカエデのシロップをどっぷりとかけること。ライ麦の香ばしさとザクザクした食感に、シロップの優しい甘さがたまらないのだ。
基本的にリーリヤはシロップは入れれば入れるほど良いと考えている。
入れすぎたかなと思わなくもない量を投入し、よりべたつきが増した生地を更にこねる。
やっぱり伸びず、丸まらない生地に苦労しながらリーリヤは何とか形を整える。
「さっ!あとは焼くだけね!」
リーリヤは額に浮かんだ汗を拭う。想像以上に体力を消耗している。
ちらりとキッチンの入り口を見れば、モニカは微動だにせず立っていた。相変わらず虚ろな瞳はリーリヤに向いたままだ。
ここまで来てもモニカはリーリヤに特別な反応を見せない。
もしかしたらモニカの心に響いていないのではないか。
冷静な思考がリーリヤにささやきかけてくる。
よくよく考え直せば、こんな行動でいったい何が伝わるのか。ただの意味不明な頭のおかしいことをしているだけなのでは。
1度噴き出すと疑念は止まらない。
迷うな。
リーリヤは自分に言い聞かせた。冷静さなんてかなぐり捨てる。
リーリヤは備え付けてある火熾しの魔具『かまどの種』を引っ掴むと心の迷いを断ち切るようにオーブンに放り込んだ。
「リーリヤちゃん、何がしたいの?あたしを煽っているの?」
言葉にすれば、それに尽きる。
口にしないのは優しさなどではなく、声を出す気力もないだけだ。
無気力とイライラで胸がグチャグチャするモニカの前でリーリヤはまた無様にあたふたしている。
大量に投入された『かまどの種』によって熾された火は勢いあまって弾けて、あわやリーリヤの前髪を焦がしそうになっている。
危なっかしい。
また胃の底からムカムカが上がってくる。
いつになったら学ぶのか。
いつになったらできるのか。
いつになったら落ち着くのか。
いつになったら諦めるのか。
「なんで・・・?なんで、諦めないのかな・・・」
モニカは声にもならない吐息がこぼれる。
何度も失敗してはもがくリーリヤの姿を見ていたくないのに、視線を外せない。
リーリヤは薪に火のついたオーブンに、丸めて成型したパン生地を入れている。クルクルと丸めた形を見るにロールパンを作ろうとしている。
けれど、モニカにはわかる。あれは失敗する。奮闘しているリーリヤの行動は徒労に終わる。だが、モニカはそれを教えてあげるつもりはない。
モニカはリーリヤが嫌いだ。
理由はたくさんある。
無知すぎて面倒なほどいろいろなことを説明しないといけないから。
忙しいのに急に迷惑を掛けられてドジの後始末をして回らないといけないから。
モニカが密かに恋心を抱いていた人の隣にいつの間にか無神経にも居座っていたから。
そして、幼い頃の惨めな自分を思い出すから。
モニカは皮が剥けてボロボロになった唇を噛み締める。
リーリヤが過去の自分と重なった。
だから、リーリヤが嫌いだった。
本当はそれだけなのかもしれない。
1人じゃ何にもできない娘。威勢だけは一丁前のくせに、いろんな人の手を煩わせて、すぐにピーピーと泣き言を漏らす、そんなみっともない子供だった。甘えていたのだ。そして、自惚れてもいた。
故に必然だったのだと思う。
モニカが10歳かそこらの年齢だったときだ。両親が失踪した。
丁度、精霊様の祝福のおかげでパン屋が繁盛して、今の広場に移転した頃だった。売り上げが急激に伸び、評判は周辺の街にも広まっていた。街の外から来たというお客さんもしょっちゅうだった。
一見すればいいこと尽くめに思える。なのにどうしてそんなことになったのか。
太陽の恵み亭に祝福を与えてくれた精霊様は幸運なことに―――いや、悲運なことにかもしれない―――とても強い力を持っていた。
兄から聞くにはモニカが生まれて少し経った頃、移転前の小さなパン屋だったとき、そこの古井戸に顕現されたらしい。そして、強い力を持つ精霊様には、同じく高い実力を持つ花の乙女が必要だったのだ。
太陽の恵み亭にいた精霊の正しい適正とされる花彩輪数は『情熱の赤花三輪』。つまり、3輪の赤い花飾りを咲かせることができる花の乙女が必要だった。『三輪一彩』と呼ばれる一流の領域だ。
赤、青、黄、緑。どの色であれ1輪さえ咲かすことができれば上出来と持て囃される庶民派の花の乙女の中で、そんな実力者は限られていた。上街ならばいざ知らず、とてもではないが庶民の手が届く実力ではない。かといって、上街の花の乙女が一介のパン屋風情に力を貸すはずもない。
故に表面上の盛況ぶりとは裏腹に、精霊様の様子はどんどんと悪くなっていった。最後にはパン屋を休業しないといけなくなったほどに。
ちょっと景気が良くなって調子に乗ったパン屋の娘が無垢で無謀な憧れを胸に抱えて上街かぶれの花の乙女に手を出したところで意味などなかった。幼いモニカが一人前以上の実力を身に着けるなんて土台無理だったのだ。
それでも、もし、万が一、その力がモニカにあれば、頭を抱えて暗い顔で相談し合う両親を笑顔にできたかもしれないのに。
朝起きたときに両親がいなくなっていた、あの絶望を味わうこともなかっただろうに。
両親と仲違いしていた兄が家に戻ってきて、太陽の恵み亭を再建させようとしたときにも、もっと力になれたのに。
だから、モニカは無力だった幼い頃のモニカが嫌いなのだ。
もし、あの頃のモニカに今の実力があれば違ったのだろうか。いや、その答えは証明された。
今のモニカは『三輪一彩』の一流に手が届いた。去年の話だ。しかし、それはフルクートにおいてあまり重要視されない『黄花』だけ。『赤花』はまだ二輪でしかない。
「ここ数年は適正未満とはいえ、どうにか誤魔化し誤魔化しやってこれたのに。この前までは精霊様にも異変はなかったはず」
しかし、モニカは失敗した。結局はあの頃と大して変わっていないのだと突き付けられた。
「時間さえあれば、あと少し余裕があれば、3輪目を咲かせられたのに」
モニカの赤花の花飾りには二輪の花が咲いている。だが、正確には花の蕾は3つあるのだ。3つのうち、2つが花を咲かせている。
けれど、どうしても3輪目を咲かせることができなかった。
だから、精霊様は眠りについたのだ。
誰かの陰謀や横槍があったのだとしても、モニカ自身が自らの力不足を痛感している。それでも何とかなると思っていた浅慮が、太陽の恵み亭の評判を貶めることに繋がってしまった。
暗い考えに耽っていたモニカの耳にリーリヤの悲痛な声が届く。
オーブンの前にいるリーリヤを見て、随分と時間が経っていることに気付く。
「嘘っ、なんでっ・・・!」
リーリヤが開けたオーブンの中には、固そうな黒い塊が入っていた。
案の定、リーリヤのパン作りは失敗していた。
パン生地は膨らまず、それどころか真っ黒に焦げ付いている。薪に火をつけた最初こそ火勢は強かったが、その後の火加減は問題なかった。焼く時間もそれほど長過ぎてはいない。なのに、リーリヤが作ったロールパンになるべきだった物はただの黒い塊となっていた。
パン作りを多少したことがある者ならわかる。初心者故の経験不足の失敗だ。
しかし、その初心者から見れば原因のわからない理不尽にあったように感じるだろう。
リーリヤは焦げたパンの前で俯いている。
『そら、見たことか』
モニカは意地悪く心の中で呟く。そうしてみても、まったくすっきりした気分にはならない。なるはずがなかった。
リーリヤに何を期待していたのだろう。自分の予想を裏切って、成功してほしかったのか。
また、幼い頃の自分を幻視する。
「よしっ」
ぱんっとリーリヤが頬を叩いた。
顔を上げたリーリヤは諦めていない。
「なにが悪かったのかしら。まっ、とにかくやればわかるわよ」
もう1度、最初から挑戦しようとする。
モニカの胸がざわつく。
そんな間にもリーリヤはまた新たなドジをしている。小麦粉をふるいに掛けようとして手を滑らせ、少量の小麦粉が白い煙となって宙を舞う。
モニカはむしゃくしゃした感情が苦しくて、不愉快で、胸を掻きむしりたくなる。
なんで諦めないの。
なんで―――。
モニカはリーリヤの瞳の中に強い輝きを見た。それはどこか見覚えのある光だった。




