Episode : 9 (Fluorine) / ペニシリン
少し前、診療所では、次々と運び込まれる患者を、エリンとユズキは休む間もなく診ていた。
(エリン)「次の人をお願い」
(ユズキ)「分かった...」
ユズキは患者の胸に耳を当てる。
呼吸音を聞き、脈を取り、体温を確認する。
発熱が強ければ、サリシンを。脱水の者には補水液を。
だが、ペニシリンはない。補助的な治療しかできない。
重症者を奥へ。
知識ならある。科学なら知っている。
感染症についても、肺炎についても、医学書で読んだ知識はある。
だが、実際に患者を診た経験はない。
目の前で苦しんでいる人間を前にして、「知っている」だけでは足りない。
ユズキは必死だった。一人を診る。記録する。
その時――
ほんの小さな思いつきだった。
(ユズキ)「そういえば、布マスクなら作れるんじゃないか...?」
ユズキは、ふと思い出した。布マスクでも、この異世界では強い感染対策になるし、簡単につくれる。
患者の診察をある程度終えると、ユズキはまた診察所の裏に戻った。
布を切り、針を刺し、糸を通す。
(ユズキ)「まあ、飛沫感染なら、ないよりましだな」
ユズキは、エリンの分も布マスクをつくり手渡す。
(エリン)「...?これは何?」
(ユズキ)「マスクというものだ、これで、感染性の飛沫を避けることはできる」
(ユズキ)「完全には無理だ。でも――」
医者が感染しないようにすることは、重要だ。医者が倒れれば、誰も助けられない。
(ユズキ)「感染対策....窓を開けて、酒で手を消毒する」
(ユズキ)「アルコールがあるなら使える。少なくとも、何もしないよりいい」
化学屋だからこそ。
科学を知っているからこそ。
目の前の一人を救うためにできることを、全部やる。
感染を防ぐ。これも新たな治療方法の一つだ。
今度は――
化学屋にしかできない仕事をする時だ。
(ユズキ)「よし、そろそろ培養できた頃か」
(ユズキ)「エリン、落ち着いてきたからここはまかせる」
どうせ、馬之助は醸造所にいると考えていた。というか、患者から噂が回っていた。
ユズキは診療所を離れ、町の外れにある醸造所へ向かっていた。
(ユズキ)「馬之助、できたか?」
(馬之助)「おう、ユズキか!」
馬之助の声が響く。その声は、希望に満ちあふれていた。
(ユズキ)「その様子だと、できたらしいな」
(馬之助)「ああ、これだよ」
(馬之助)「顕微鏡で見ても、あのときのやつと同じだ」
(ユズキ)「よくやった」
ユズキは羊皮紙を広げた。
(ユズキ)「抽出作業は、ここに書いてある通りだが...」
(ユズキ)「試薬は...?」
器具は揃っていた。ガラスに、濾過用の布、たくさんの瓶。
だが、化学には " 反応させる原料 " と " 反応させる試薬 " が必要だ。
(馬之助)「試薬って何の薬?」
(ユズキ)「さすがに無理だったか...木灰と酢と硫酸が必要だ」
馬之助は、一瞬きょとんとした。
そして――
(馬之助)「ああ、それならあるぞ」
(ユズキ)「うそだろ、本当に集めるとは...」
馬之助は作業台の隅に置かれた袋を指差した。
(馬之助)「木灰」
別の瓶を指す。
(馬之助)「酢」
そして最後に。
奥から、小さな陶器の壺を持ってくる。
(馬之助)「……これが硫酸だ」
ユズキは絶句した。
馬之助は少し誇らしげに笑った。
(馬之助)「錬金術師なら、持ってると思ってな」
(ユズキ)「さえてるな」
ヒューストンは後ろで関心していた
(ヒューストン)「硫酸?なんじゃそりゃ、おいしいのか?」
(一同)「あほか」
硫酸、それはかつて錬金術師なども利用した、化学者が重宝する基本試薬。
少なくとも地球人類は、早くから鉛室法などを生み出し、硫酸を製造できていた。
硫酸は、脱水、酸化といった化学反応を起こす万能な薬品だ。
(ユズキ)「硫酸があれば、話は早い」
(ユズキ)「ここからは、化学屋の仕事だ」
ユズキは、すぐに準備をし、実験をはじめる。
まずは、酢から " 酢酸 " を取り出す。
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<解説>
食用の酢には、ほんの少しだけ、水に混じって酢酸という物質が含まれている。水も酢酸も液体だが、水は100度で沸騰するが、酢酸は118度で沸騰するため、 "蒸留" によって水を取り出し、酢酸だけを残す。水は化学において邪魔者になることもあるからだ。
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ユズキは蒸留装置を組み立てる。蒸留自体はビール造りでもおなじみの作業だ。
(ユズキ)「よし、蒸留はここで止めて...」
馬之助は首をかしげる、やつは何をやってるんだ?という顔だった。
馬之助が理解に苦しむ間も、ユズキは次々と作業をこなす。
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<解説>
アオカビからのペニシリン抽出の作業は以下の通りである。
① "酢酸"を加えて、汚いアオカビの溶液を強い酸性にすると、ペニシリンが酸と反応した物質になる
※これは、高校化学でいう "弱酸の遊離" という現象の応用で、ペニシリン塩を遊離させる
② このペニシリン溶液に、"酢酸エチル"を加えると、ペニシリンは酢酸エチルの方だけによく溶ける
※酢酸エチルは酢酸とお酒のエタノールに硫酸を加えて得る透明な液体だ。
反応は"フィッシャーエステル化"という。硫酸は触媒で、この平衡反応を優位に進める。
③酢酸エチル溶液に水、木灰を加えると、アルカリ性になり、またペニシリン塩に戻り、水に溶ける
※②-③であちこち溶かしていくなかで、不純物はどんどん溶けずに残っていき、ペニシリンだけが残る
④酢酸エチルは水に混ざらないので、綺麗に分離し、ペニシリン水溶液が残り、完成となる。
分からないのであれば酢酸エチルでなく、油としてイメージしてほしい、油は水とは混ざらないというように、互いに混ざりにくい。それに、油には溶けるが水には溶けない物質も多くあるだろう。こうして、ペニシリンを取り出すのだ。
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酢酸、蒸留したエタノール、硫酸を加えて、加熱、酢酸エチルを得る。
それから、たくさんの時間を要した。働きつめた人々は、眠ってしまった。だがユズキは実験を続ける。
多くの工程があり、馬之助やヒューストンの理解は追いついていない。だが、完成はわかった。
(ユズキ)「酢酸エチルを分離して...」
(ユズキ)「やっと、ついにだ。この水溶液は、ただの水じゃあない」
(馬之助)「うそだろ、本当に、本当にやったのか?」
1928年、英国のアレクサンダー・フレミングが存在を発見し、多くの化学者・生物学者・医学者がタッグを組み作り上げた "ペニシリン" という一つの薬は、人類の感染症との戦いを、根本的に変えてしったのだ。
その薬は、この異世界でも、産声を上げたのだった。
・参考文献
https://ch.nicovideo.jp/kotaku/blomaga/ar325182
https://youtu.be/YOrRQtA8BsY
https://bona-filtration.com/ja/penicillin-extraction/
https://sekatsu-kagaku.sub.jp/penicillin-science.htm
・錬金術師が用いた硫酸の製造方法について
https://omizu-water.hatenablog.com/entry/2023/09/27/180000




