Episode : 7 (Nitrogen) / アオカビ
帰り道、ユズキはチーズの製造所に立ち寄り、「ホエイ」を少し分けてもらった。
小ぶりな酒樽にホエイを詰め、満足気に歩き、診療所へ向かう
(ユズキ)「ホエイなら、カビの液体培養に適している...」
ホエイは、チーズを最初のステップで、牛乳を加熱しながら酢を加えて、脂肪分を沈殿させたとき、得られる残りの水溶液で、ここには牛乳内の水溶性の栄養が多く残っている。アオカビの培養には、酸性環境が適しているので、ホエイなら酢も一部残っているため、まさに最適である
また、液体培地、それはまさに "ペニシリンの工業製法" だ。多くの人がイメージする、円形の培地に寒天を詰める方法では、”2D ” に培養することしかできない。一方で、液体で培養すれば ”3D ” に培養でき、培養量が圧倒的に増えるのである。
だが、この世界では、何度も何度も、試行錯誤を繰り返さなければ、大勢を救う「ペニシリン」はつくれない。アオカビの中でも、多くペニシリンをつくる種は限られ、それを見つけ出さなければならない。
診療所へ戻ると、ユズキはすぐに作業台へ向かった。
(ユズキ)「馬之助、ここからが正念場だ、しばらくは失敗し続けるだろう」
(ユズキ)「ペニシリンをつくるアオカビは、すぐには現れない、試しまくるしかない」
馬之助は少し黙った。
(馬之助)「……つまり、これ全部ハズレかもしれないってこと?」
(ユズキ)「そういうことだ」
(馬之助)「うそだろ...」
馬之助は絶望したような顔だった。だが、周りには咳をこみ、熱をだし、苦しんでいる患者が大勢いる。
咳き込む老人。熱にうなされる子供。息をするだけでも苦しそうな患者。
その数は、昨日より明らかに増えていた。
(馬之助)「……分かった、やってやれないことはない!」
馬之助は拳を握る。
(ユズキ)「……ああ」
それだけだった。
器具を洗い、ホエイとともに煮沸し、他の細菌やカビを取り除く。
できるだけ無菌の状態にしてからそっと瓶に試料を入れ、目的のカビのみを育てる。
ユズキは羊皮紙に実験記録をメモする。
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”ホエイを用いた液体培地によるペニシリン産生菌の培養”
本実験において、ホエイを用いた液体培地により、あらゆる試料からアオカビを採取、培養し、ペニシリン産生菌からペニシリンを抽出、実用レベルで人々へ抗生物質を提供することを目的とする。
ただし、オートクレーブといった消毒設備はないため、加熱による殺菌を主に利用し、また1からペニシリン産生菌を見つけなければならない。
・実験 No.1
試料 : 腐敗したパンの切れ端から採取したもの
結果 :
........
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夜が明けても、まだ煮沸を続けていた。
エリンは診察を終え、休憩しに来た
(エリン)「まだやってるの?」
(ユズキ)「医者には及ばない。僕らは医者じゃない、こうすることしかできない」
エリンは何も言わなかった。
やがて、静かに頷く。
(エリン)「なら、私は患者を診るわ」
(エリン)「あなたたちは、あなたたちにしかできないことをして」
そして――
日々が過ぎていった。
培養した瓶から、アオカビを取り出して、それを殺菌していない培養皿へ移し、アオカビ以外の菌が成長できるかを調べる。もし、アオカビの周りにだけ他の細菌が成長していないとわかれば、そのアオカビは、ペニシリンを産生しているとわかる。
だが、どのアオカビも、他の細菌の培養を止めることはなかった。だが、敗北ではない。
No.004――失敗。
No.005――汚染。
No.006――不明。
No.007――失敗。
ある朝。
(ユズキ)「ホエイが足りない」
馬之助は黙って樽を見た。
ほとんど空だった。
(馬之助)「……俺、行ってくる」
息抜きのつもりだったのだろうか。だが、その気持ちは打ち砕かれるだろう。
街へ出る。
いつものように。
ホエイをもらうだけのつもりだった。
だが――
街の様子は、数日前とはまるで違っていた。
(馬之助)「……なんだよ、これ」
咳をこみながら、必死に道を歩く老人。
動かなくなった人間を運ぶ荷車。
(馬之助)「……早くしないと」
ホエイの入った樽を抱え、診療所へ走り出す。
一方でユズキは、エリンの診察を見に行っていた。
エリンは、患者の一人に柳の煎液を飲ませていた。
(ユズキ)「うそだろ...薬の量も人員も全く足りていない」
ユズキは、絶望しながらも、柳の葉を煮詰め、サリシンをできるだけ多く抽出していた。
そして、脈を計り、呼吸を見る。ユズキも専門家でないにせよ、この異世界では即戦力だ。
(エリン)「このままでは、重症肺炎患者で埋め尽くされ、数日でこの診療所は機能しなくなるわ」
肺炎、それは現代の人類が克服しつつある病だ。だが、この異世界では、致命的だ。
そして――
ユズキも馬之助も、絶望を味わった顔で、診療所の裏に戻り、じっと培養皿を眺めていた。
(馬之助)「なあ、この世界で肺炎になって死んだら、どうなるんだ?」
(ユズキ)「さぁ、体験しないと分からないが、その体験はしたくないな」
悲しみに押し潰されそうだった。
その時――
ドンドンドン!!!....
やかましいほどの力強さで、ドアを叩く音がした。
(馬之助)「患者?にしては元気すぎやろ」
(ヒューストン)「おーい!がはは、どうしたそんな浮かない顔をして」
工房にこもりすぎて、現状を知らないようだ。
(ヒューストン)「待たせたな!」
ユズキの目が見開かれる。
(ユズキ)「……まさか」
ヒューストンは木箱を作業台へ置いた。
いくつもの硝子。粗削りではある。
現代の顕微鏡とは比べものにならない。
(ヒューストン)「ずいぶん苦労したぞ」
ユズキは希望を見出した様子で、そそくさと顕微鏡を組み立てた。
培養皿を手に取り、顕微鏡を覗いている。
何度も、何度も、他の培養皿を眺める。
そして、ある培養皿を眺める。
肉眼では、アオカビ以外の細菌、カビも育っている培養皿だった、しかし、顕微鏡を覗くと、アオカビの周りだけ、異様に綺麗な空白があった。
ユズキに笑顔が戻った。
(ユズキ)「あった!ペニシリン産生菌だ!!」
その場にいた全員、エリンやヒューストンは詳しくわからないだろうが、その喜びは伝わった。
この瞬間に、この異世界に、希望が生まれた。
この異世界にも、確かに科学は通用した。
No.068――成功。
・参考文献 - 「各種かび類と培養液のpHとの関係」Jstage収蔵、住江 金之ら(1950)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jbrewsocjapan1915/45/12/45_12_423/_article/-char/ja




