第33話 【思出】古い鍋を見つめながら「生活の中」の尊さに気づく
森の木々が一段と濃くなり、湿った土と鉄の匂いが混じり合い始めた頃、一行は足を止めた。
まずヨシトがしたのは、ポチの頭上で完成した鳥の巣を、慎重に近くの頑丈な枝へと移す作業だった。
ポチは鳥たちが驚かないよう、彫像のように硬直してその作業を見守っている。
無事に移し終えると、ヨシトは小さく息を吐き、視線を正面へと向けた。
そこには、生い茂る蔓に覆われ、半分ほど森に飲み込まれたような古い石造りの工房が佇んでいた。
ヨシトが生まれ育ち、そして数年前、父と決別するように飛び出した場所。ルシフェール家の工房兼、実家だ。
「ただいま……父さん、帰ってきたんだけど?」
ヨシトの声は、静かな森に吸い込まれて消えた。
返事はない。無造作に開かれたままの門をくぐり、一行は中へと入る。
工房に鉄を打つ音は聞こえなかった。
「父さんは、いないみたいだね。近所に出かけてるだけだと思うから少し、ここで待たせてもらおうか」
ヨシトは独り言のように呟き、埃の積もった作業場にベルとシルバー、そしてポチを案内した。
シルバーは「失礼致します」と短く言い、一族の重圧を感じ取ったのか、神妙な面持ちで道具たちを見つめている。
「ちょっと、ヨシト。お客さんを招いておいてお茶も出ないわけ? 私はこの数日、森歩きとポチのゴツゴツした背中で心身ともにボロボロなのよ」
ベルが作業机の上に飛び乗り、不満げに尻尾を振った。
その態度はいつも通り尊大だったが、どこか落ち着かない様子で、周囲の気配を探っている。
「確かにそうだね、すぐお茶を入れるから少し待ってて。……確か、この辺りに古い鍋があったはずなんだけど」
ヨシトは棚の奥から、真っ黒に煤けた銅製の片手鍋を取り出した。
底には小さな亀裂が走り、取っ手は今にも外れそうに歪んでいる。
ヨシトはその鍋を見つめ呟く。
「人の物は、綺麗に直すのに自分の家のものは、気にもしないのは相変わらずだな」
脳裏に、この家を出る間際、父『イヴ・ヨハン・ルシフェール』が震える声で語った言葉が蘇る。
「いいか、ヨシト。我らの一族『ルシフェール』の名は呪いだ。決して人前で口にするな」
父は王国で最も腕のいい職人でありながら、なぜかその名を隠し、ただの村外れの森の鍛冶屋として生きていた。
「私のようなイヴ(夜明け前)とは違い、サン(太陽)の名を持つお前の手が、一体何を直してしまうのか……私には恐ろしいのだ」
かつてのヨシトには、その言葉の意味が分からなかった。
ただ、父が自分の才能を恐れ、否定しているようにしか聞こえなかった。
だからこそ、自分の力を証明するために王都へと向かったのだ。
「……でも、今なら父さんの言葉の意味がわかる気がするよ」
ヨシトは無意識に呟いた。
王宮で、権力や虚栄のために磨かれた贅沢品を見てきた自分。
しかし、父が隠れるようにして直し続けていたのは、毎日スープを温めるための鍋や、家族の空腹を満たすための食器。
そうした、名もなき人々の日常を元通りにすることだった。
「……【リペア】」
ヨシトが鍋に触れると、柔らかな光が煤の層を突き抜けた。
底の亀裂が塞がり、歪んだ取っ手はヨシトの手に吸い付くような完璧な曲線を取り戻す。
ただの古い鍋だが、ヨシトの手によって、火の熱を正しく伝える道具としての矜持を取り戻していた。
「……へぇー。たかが鍋ひとつに、えらく真面目な顔をしてるのね。あんた、王宮の宝物庫を直した時より良い顔してるわよ」
ベルが鼻を鳴らしながら、直されたばかりの鍋を覗き込んだ。
「そうかな。……父さんも、きっと同じ気持ちだったんだと思う。ルシフェールの名が持つ恐怖を知りながら、一番大事なものを守るために、ここで普通の修理を続けていたんだ」
ヨシトは手慣れた様子で炉に火を入れ、鍋に水を張った。パチパチと薪がはぜる音が、静まり返った工房に響く。
「この時間はいつも、近くの村に行って修理の品を引き取っているはずなんだ……もう少しすれば、ひょっこり戻ってくるよ」
ヨシトは遠くを見つめるように、工房の入り口へと視線をやった。
父がかつて守ろうとした静寂の中で、ヨシトは懐かしい鉄の匂いに包まれながら、その帰りを待つことにした。




