第26話 【真名】日記に記された宿敵の名、それも「ルシフェール」
ゴーレムのポチとの再会を果たしたベルは、失われていた過去の記憶を取り戻し始めていた。
まだ断片的ではあるものの、自分がかつて『大魔女』だったことや、この場所でポチと過ごしていたことも、徐々に思い出している。
そして今、ベルはかつて自分が使っていた部屋に足を踏み入れていた。
石造りの狭い部屋には、静寂と、古い紙の匂いだけが充満していた。
「……ベル、ここは一体、どういう場所なの?」
ヨシトが周囲を見渡しながら尋ねた。
金銀財宝が山積みにされた外の広場とは対照的に、この部屋はあまりにも殺風景で、しかし妙に生活感があった。
「決まってるでしょ、私の部屋よ。わたし専用の自室よ」
ベルは当然のように言い放ち、ポチの頭の上に飛び乗った。
「私の部屋? でも、ここは王家の地下遺構の最深部で……」
「この国の昔の王様に命令して作らせたのよ。外にある金塊だの宝だのといったゴミはね、単なるカモフラージュよ。愚かな侵入者どもが、満足して帰るように置いておいた餌。この、何もない、けれど私にとっては唯一落ち着けるこの空間こそが、魔女ベル……いいえ……」
ベルが鏡を覗き込む。
【電撃魔法】に続いて【火炎魔法】が覚醒したことで、霧が晴れるように脳裏へ刻まれたその名を、彼女は誇らしげに、しかし苦々しく口にした。
「……私の真の名は、『ルナ・ベルフェゴール』。かつてこの世界の全ての理を握り、この西の大陸の王族たちを顎で使った大魔女よ」
その名が発せられた瞬間、部屋の空気が震えた。シルバーがその威圧感に思わず後ずさる。
『大魔女ベルフェゴール』
歴史の教科書の隅に、世界を恐怖に陥れた災厄として記されていた伝説の存在が、今、目の前の小さな黒猫と重なった。
「さて、ヨシト。さっさと仕事をしなさい。そこの机、二重底になっているはずよ。今の私の小さな体じゃ、少し力仕事が過ぎるわ」
ベルに促され、ヨシトは質素な木の机へと歩み寄った。
一見すればどこにでもある古びた家具だが、ヨシトの指先は、その表面に施された極微細な魔力の揺らぎを逃さなかった。
職人の眼力が、木の繊維の中に隠された物理的な歪みを捉える。
「……【リペア】」
ヨシトの掌から溢れた青い光が、固着していた古い木材を解きほぐしていく。カチリ、と心地よい音が響き、天板の奥から隠し引き出しが滑り出してきた。
その中に鎮座していたのは、一冊の革装本だった。
表紙は黒ずみ、縁はボロボロに崩れているが、そこに刻まれた魔法文字だけは、持ち主の傲慢なまでの自尊心を誇示するように、今なお銀色に輝いている。
「……私の日記よ。元の体の時のね」
ベルは机に飛び移り、器用に前足を使ってそのページを捲り始めた。ヨシトとシルバーも、息を呑んでその内容を覗き込む。
最初の方には、あまりに煌びやかで、そして尊大過ぎる魔女ベルフェゴールの日常が綴られていた。
――――――――――――――――
――七月十二日。
隣国の貴族が、不治の呪いを解いてくれと涙ながらに這いずってきた。くだらない。宝石箱を三つほど追加させ、十分で終わらせてやった。
人間という生き物は、なぜこうも無力で、私の靴を舐めるのが似合うのかしら。
――――――――――――――――
――八月三日。
宮廷の料理人が、スープの塩加減を間違えた。明日の朝までに、彼を石像に変えて庭の飾りにしてしまおうかしら。あ、でもポチが彼の作るジャーキーを気に入っているから、今回は尻尾を付けるだけで許してあげることにする。
―――――――
「……ベル殿。貴殿、魔女時代はなかなかに……その、苛烈な性格をされていたようですね」
シルバーの引きつった声に、ベルは「それがどうしたのよ」と平然と返した。
だが、日記を捲る手が、あるページでピタリと止まった。
日記の筆跡が、急激に乱れている。
―――――――――――――――
――十月十五日。
今日、不気味な男が、王都に足を踏み入れてきた。ルシフェールと名乗るその男は、礼儀も知らず、私を世界の不純物と呼びやがった。男の瞳……あれは、人間が見る目じゃない。壊れた道具を見定める、ぞっとするほど冷酷な光だ。
―――――――――――――――――
ベルの喉から、低く唸るような音が漏れた。
――――――――――
――十一月十日。
あいつの目的が分かった。狂っている。あのルシフェールという男は、この世界が完成されていない欠陥品だと信じ込んでいる。だから、自分の手で一度全てを白紙に戻し、自分の都合の良いように作り変えようとしているのだ。
奴の語る【リビルド(再建築)】……それはこの世界の全ての生命への冒涜だ。私が、この世界で享受している全ての楽しみを、あいつは無駄だと断じやがった。
―――――――――
――十二月三十日。
この国の王が自分たちも戦いたい、協力してくれと震えながら来た。笑わせないで。私の前でガチガチと歯を鳴らし、床を冷や汗で汚すだけの人間の王ごときが何の役に立つのよ……。
―――
――――――
―――――――――
――――――――――――――――――――
日記には、『魔女ベルフェゴール』が、【リビルド】という名の世界の作り変えを企てる『ルシフェール』という男に立ち向かった、凄惨な死闘の記録が、憎悪と共に刻まれていた。
誇り高き魔女は、ゴーレムと共に人間たちを率いて戦い抜こうとしていたのだ。
だが、その執念の記録は、あまりにも唐突に、そして残酷な形で途切れていた。
日記の最後の数ページはインクが滲み、文字が焼け焦げ、完全に判別不能になっていた。
「……思い出せないわ。私の宿敵がルシフェールってことは思い出した。あいつがどれだけ反吐が出る存在かも、私が奴を阻止しようとしたことも。……ああ、思い出すだけでハラワタが煮えくり返るわ!」
ベルの周囲に、彼女の苛立ちに呼応するように火の粉が舞う。
習得したばかりの火炎魔法が、彼女の負の感情に共鳴して部屋の温度を急上昇させていた。
「でも……! なぜ私が猫になったのか。最後にあいつと何があったのか。そこだけが、霧がかかったみたいに真っ白なのよ!」
ベルは、自分の小さな、毛むくじゃらの前足を激しく机に叩きつけた。
全盛期の記憶、宿敵の名前、愛するペット。それらを手にしながら、最も肝心な自分が敗北した理由だけが欠落している。
その事実が、誇り高き魔女の自尊心を、何よりも激しく逆撫でしていた。イライラと尻尾を振り乱すベル。
その背後で、ヨシトは日記に記された宿敵の名を聞き、漠然とした胸騒ぎを覚えていた。




