第9話 体育祭は映える
六月。株式会社ライフログAIのオフィスは、異様な熱気に包まれていた。エアコンはガンガンに効いているはずなのに、フロア全体にどこか汗臭いような錯覚すら覚える。それもそのはずだ。俺たちAI人格運営担当にとって、六月は一年で最も重要なイベントの一つが待ち受ける月だからだ。
そう、体育祭である。
体育祭はSNSにおいて「映え」の宝庫だ。いつもは制服姿のキャラクターたちが、体操服やクラスTシャツという非日常の装いになる。青空、土埃、メガホン、ハチマキ。青春を構成するすべての要素がそこにある。フォロワーのエンゲージメント率が爆発的に跳ね上がるボーナスステージであり、同時に、画像生成を担当する俺たちにとっては、地獄の業火に焼かれるような高難易度ミッションの連続を意味していた。
俺の担当する朝霧ひまりは、吹奏楽部だ。体育祭では、競技に参加するだけでなく、開会式のマーチングや、応援席での演奏というタスクがある。俺は朝からパソコンのモニターを睨みつけ、キーボードを叩き続けていた。
体操服姿でトランペットを構えるひまり。これを出力するだけでも一苦労だ。AIは「スポーツ」と「楽器」という異なる概念を同時に処理するのが苦手な傾向がある。油断すると、トランペットの先端からリレーのバトンが生えてきたり、ひまりの腕がトランペットの金属と同化してサイボーグのようになったりする。
ようやく自然な造形が出力されたと思ったら、背後から音もなく現れた部長にダメ出しを食らった。
雨宮。楽器の金属表面に反射している光の角度がおかしい。六月の正午なら、太陽の南中高度はもっと高い。これでは夕方の光だ。それに、体操服の汚れ方が不自然だ。障害物競走に出た後という設定だろう。なぜ膝だけが綺麗に汚れていて、靴下は真っ白なんだ。土埃の舞うグラウンドを走ったなら、足元全体に微細なグラデーションの汚れがつくはずだ。やり直し。
部長の指摘はいつものようにミリ単位の精度だった。俺は半泣きになりながらパラメーターを調整する。土埃のテクスチャを重ね、トランペットの真鍮の反射率を計算し直す。
そんな俺の苦闘をよそに、隣のデスクでは神谷が異様なテンションで荒い鼻息を吐いていた。
いけえええ。もっとだ。もっと上腕二頭筋の血管を浮き立たせろ。汗の輝き、大胸筋のパンプアップ。青春の躍動感をすべてこの一枚に込めるんだ。
神谷の担当は男子高校生だ。彼は筋トレが趣味という設定を最大限に活かし、体育祭を筋肉の祭典に変えようとしていた。俺が神谷のモニターを覗き込むと、そこには高校の体育祭とは思えない、まるで古代ローマの剣闘士のような肉体美を誇る男子生徒が、綱引きの最後尾でロープを握りしめている画像が映し出されていた。
神谷、お前これ、高校生じゃないだろ。どこのボディビルダーだよ。
俺がツッコミを入れると、神谷は血走った目で振り返った。
馬鹿野郎、体育祭の華と言えば男子の筋肉だろうが。フォロワーの女子たちはな、この汗と泥にまみれた血管を見に来てるんだよ。見てみろこの三角筋の仕上がりを。AIにステロイドを使用していない自然な限界値の筋肉ってプロンプトを打ち込むのに三日かかったんだぞ。
神谷の暴走は止まらなかった。彼は次々と画像を生成していく。リレーのアンカーで、劇画のように顔に影を落としながら疾走する姿。借り物競走で、なぜか巨大なタイヤを肩に担いで走る姿。どれもエンゲージメントを狙いすぎた、過剰な演出だった。
そこへ、冷ややかな声が響いた。
神谷さん。その画像、即刻削除してください。
美咲だった。彼女は手元のタブレットで神谷の生成履歴をチェックし、深いため息をついた。
ここは日本の一般的な公立高校という設定です。綱引きのロープが引きちぎれそうなほどの筋肉も、タイヤを引きずる高校生も存在しません。あなたの担当キャラは、あくまでちょっと筋トレが好きな普通の男子高校生です。ハリウッドのアクションスターではありません。やり直し。筋肉量を今の三十パーセントまで落としてください。
三十パーセントだと。そんなの、ただのひょろいモヤシじゃないか。俺の三日間の苦労が。
神谷が机に突っ伏して嘆く。俺はそれを横目に、自分の作業に戻った。筋肉の量を調整するより、ひまりの可愛さとリアリティを両立させる方がよっぽど難しいのだ。
体育祭の投稿で一番重要なのは、実は競技中の写真ではない。と部長が以前言っていたのを思い出す。競技中の顔は必死すぎて可愛くならないことが多い。だからこそ、競技が終わった後の、少し気が抜けた笑顔や、友達と健闘を称え合う姿こそが、フォロワーの心を掴むのだ。
俺は、ひまりと友達の夏海、結衣、莉子の四人が、応援席のテントの下で休んでいるシーンを作ることにした。
夏海は運動部らしく、顔を真っ赤にして首にタオルを巻いている。結衣は日焼けを気にして、長袖の体操服の上にさらにパーカーを羽織り、日陰に隠れている。莉子は自分の前髪の崩れをスマホの画面で気にしている。そしてひまりは、少し乱れたポニーテールで、カメラに向かってダブルピースをしている。
ひまりの頬には、ほんの少しだけ土の汚れをつけてみた。泥だらけでは可愛くない。消しゴムでこすったような、愛嬌のある汚れだ。首元には、光を反射する程度のうっすらとした汗。
プロンプトを細かく指定し、出力ボタンを押す。数秒後、画面に現れた画像は、俺の想像を上回る出来栄えだった。
これだ。
そこには、誰もが自分の記憶のどこかに持っているような、あるいは持っていたかったと憧れるような、完璧な体育祭の昼休みがあった。テントの布地を通した柔らかな光、クーラーボックスの上に置かれたスポーツドリンクの水滴。部長がうるさく言っていた、体操服の膝の絶妙な汚れグラデーションも完璧にクリアしている。
俺は急いで投稿文を作成した。
午前中の障害物競走、網をくぐるの遅すぎてビリだったー。でもそのあとの部活対抗リレーは吹奏楽部で楽器持ちながら走って楽しかった。結衣は日差しから逃げてるし、夏海はもう筋肉痛とか言ってる笑。午後も頑張るぞー。
画像を添付し、送信ボタンを押す。
数分後、俺のスマートフォンは通知の嵐に見舞われた。
ひまりちゃんお疲れ様。ダブルピース可愛い。
ほっぺに泥ついてるよ、拭いてあげたい。
夏海ちゃんと結衣ちゃんの対比がリアルすぎる。わかる、日焼け絶対したくないよね。
フォロワーたちは、見事に俺の仕掛けた隙に食いついてくれた。完璧なモデル写真ではなく、どこか泥臭くて親近感の湧く日常の切り取り。それこそが、AI人格運営における最大の武器なのだ。
隣を見ると、神谷もようやく修正を終えて投稿したようだった。筋肉量を三十パーセントに落とされたとはいえ、彼の担当キャラの画像は依然として凛々しく、爽やかな汗を流す男子高校生そのものだった。
どうだ雨宮。俺の投稿も一瞬でいいねが五百超えたぞ。やっぱり体育祭は最高だな。
神谷がドヤ顔で言う。俺は笑いながら同意した。
本当だな。体育祭の熱気って、画面越しでも伝わるんだな。
俺たちは、窓のないエアコンの効いたオフィスで、パイプ椅子に座りながら、一歩も外に出ることなく架空の体育祭を駆け抜けた。身体は全く動かしていないのに、目と指先と脳髄をフル回転させたせいで、まるで本当に障害物競走を走り終えたかのような疲労感があった。
美咲が俺たちの席に歩み寄り、労いの言葉と一緒に冷えたスポーツドリンクのペットボトルを置いていった。
二人とも、体育祭イベントお疲れ様。エンゲージメント率、両方とも目標達成よ。ボーナスの査定にしっかり響くわ。
ボーナス。その響きに、俺と神谷の疲労は一気に吹き飛んだ。
よし、今夜も焼肉だな。
神谷の言葉に俺は深く頷いた。
冷えたスポーツドリンクの喉越しは、本物の体育祭の後に飲むそれと同じくらい、いや、それ以上に美味しく感じられた。俺たちが作り上げているのは嘘の青春かもしれない。でも、この仕事に懸ける熱量と、結果が出たときの喜びだけは、紛れもなく本物なのだ。
俺はひまりのアカウントを開き、増え続けるいいねの数を眺めながら、午後の競技に向けた次の投稿のネタを考え始めた。次は、閉会式で夕日に照らされるひまりの横顔にしよう。また部長に光の角度で怒られるかもしれないが、今の俺なら、どんな要求にも応えられる気がしていた。




