第6話 初ボーナス
スマートフォンが短く震えた。夜中の二時。俺は布団の中でその振動をキャッチし、期待と不安を抱えながら画面を確認した。そこに表示されていた数字は、俺の目を疑わせるものだった。朝霧ひまりのSNSアカウント、フォロワー数、一千人突破。
心臓が大きく跳ねた。たかが一千人。現代のインフルエンサー界隈では、鼻で笑われるような数字かもしれない。だが、俺にとっては、これが初めての大きな到達点だった。たった一人の架空の女子高生が、何もない場所から一千人の人間と繋がった。これは俺が、雨宮悠という二十四歳のしがないAIクリエイターが、自分の手で作り上げた成果だ。
翌朝、オフィスに入ると、すでに空気が少しだけ浮ついていた。俺が席に着くと、神谷がニヤニヤしながら俺の肩を叩いた。
おめでとう、雨宮。一千人突破したんだって? おかげで今夜の焼肉は確定だな。
株式会社ライフログAIには、独自の報酬規定があった。フォロワー数が一定の節目を迎えるごとに、チーム単位での打ち上げ費用が支給されるのだ。しかも、それは会社経費の飲み会などという生ぬるいものではない。最高級の焼肉店で、好きなだけ肉を食う権利だ。
美咲が、コーヒーを持って俺のデスクにやってきた。彼女は、モニターに表示されたひまりのプロフィールの数字を見て、満足そうに頷いた。
おめでとう。一週間で一千人。このペースなら、部長の評価も悪くないはずよ。設定資料を完璧に守りつつ、フォロワーを飽きさせない投稿を維持する。それは、あなたが思っている以上に難しいことなんだから。
俺は少し照れくさそうに笑った。
ありがとうございます。でも、正直、運が良かっただけですよ。たまたま体育祭の練習風景の投稿が、同世代の共感を呼んだみたいで。
美咲は首を横に振った。
運じゃないわ。あなたは、ひまりの「息遣い」を投稿している。フォロワーは、画像そのものよりも、その裏側にある「ひまりの日常」を消費しているの。あなたが丁寧に修正した制服のしわ一つ一つが、彼女を実在の人間として認識させている。その積み重ねが、この数字よ。
その夜、俺たちはオフィス近くの高級焼肉店にいた。網の上で焼かれるカルビが、ジュージューと美味しそうな音を立てている。神谷が、トングを片手に熱弁を振るっていた。
いやあ、俺の担当してる男子高生も、ようやく五百人を超えたよ。こいつがまた、最近は筋トレの投稿に加えて、プロテインの味の感想なんていう、女子には理解不能な投稿をし始めてさ。でも、それが逆に「リアルだ」って男子フォロワーからのコメントが増えてるんだ。AI相手に、男同士で語り合う、変な時代だよな。
俺はビールを一口飲み、笑った。
本当に変な仕事だよな。俺なんて、ひまりの制服のしわを修正しすぎて、夢の中にまでシワが出てくるんだぜ。でもさ、こうやって数字が伸びて、みんなで焼肉を食べてると、なんだか悪い気分じゃないんだ。
そうだよな。俺たち、世間一般から見れば、AIを弄繰り回して遊んでるだけかもしれない。でも、画面の向こう側のフォロワーにとっては、ひまりも、神谷の担当も、本物の人間なんだ。俺たちが作り上げた嘘が、誰かの日常を少しだけ豊かにしてる。そう考えると、悪くない仕事だよ。
美咲が、グラスを掲げた。
私たち、AIクリエイターじゃないわ。私たちは、人々の孤独を癒す、ささやかな物語の紡ぎ手よ。これからも、その物語を大切にしていきましょう。
乾杯。
グラスがぶつかる音が、店内の喧騒に消えていく。俺は、焼きたての肉を口に運んだ。とろけるような脂の旨みが、一週間の疲れを吹き飛ばしてくれる。焼肉なんて、本当に久しぶりだ。家賃の督促状と睨めっこしていた頃の俺には、想像もできなかった贅沢な時間。
店を出ると、夜風が少しだけ火照った顔に心地よかった。千鳥足で歩く神谷を横目に、俺はスマホを取り出した。ひまりのアカウントには、まだコメントが届いている。
『ひまりちゃん、今日もお疲れ様! テスト頑張って!』
俺は、そのコメントを読みながら、小さく笑った。テストなんて、ひまりにはない。あるのは、俺が設定した、架空の試験日だけだ。なのに、フォロワーはそれを本物のイベントとして楽しんでくれている。俺は、その言葉に対する返信を考え始めた。どんな言葉が、ひまりらしいのか。どんな言葉が、フォロワーを笑顔にするのか。
この仕事は、終わりがない。一千人のフォロワーを維持し、さらに増やし、飽きさせない投稿を続けなければならない。部長の修正地獄は、明日からも続く。また、制服のしわについて指摘されるかもしれない。それでも、俺は、朝霧ひまりを愛している。自分の手で作り上げた、この偽物の少女を、誰よりも大切に思っている。
俺は、帰りの電車の中で、窓の外に流れる夜景を眺めていた。都会の光が、星座のように輝いている。その光の一つ一つに、誰かの日常がある。そして、その誰かのスマホの画面の中に、俺が作った朝霧ひまりがいる。
俺の人生は、これからも、画面の向こう側の彼女と共に歩んでいく。二十四歳の雨宮悠としてではなく、AIクリエイターとして。俺の作った小さな物語が、誰かの世界を少しだけ明るく照らす。そんな、小さくて、大きな喜びを胸に、俺は夜の街に消えていった。明日は、また新しい投稿のネタを考えなければならない。どんな日常を切り取ろうか。どんな嘘をつこうか。そんな楽しい悩みを抱えながら、俺は、家への道を歩き出した。焼肉の香りが、シャツにわずかに残っている。それは、この一週間の、俺の頑張りの証だ。俺は、スマホの画面をタップし、今日も、ひまりの日常を世の中へ放つ。明日もまた、新しい一日が始まる。俺の高校二年生生活は、まだまだこれからだ。この一千人のフォロワーと共に、俺たちは、新しい物語を紡ぎ続ける。




