第20話 受験モード開始
正月が過ぎ、株式会社ライフログAIのオフィスには、どこか引き締まった空気が漂い始めていた。世間はまだ新年の余韻に浸っている頃だが、私たちAI人格運営チームの前に立ちはだかるテーマは、季節の移り変わりとともに大きく変わっていた。
それは、受験モードへの突入である。
朝霧ひまりは高校二年生の三学期を迎えようとしていた。つまり、春になればいよいよ最高学年である三年生になり、本格的な大学受験の足音が聞こえてくる時期だ。これまでのような、放課後の買い食いや文化祭のドンチャン騒ぎといったイベント主体の投稿から、一気に「進路」「模試」「勉強漬けの毎日」というシリアスな日常へとシフトしていかなければならない。
俺は自分のデスクで、分厚くなった設定資料のページをめくりながら、新しいプロンプトの構成を練っていた。ひまりの志望校や、苦手な科目である数学の克服に向けた奮闘を、どのようにフォロワーに伝えるか。それが現在の最重要課題だった。
おい雨宮、お前のところのひまりちゃんも、いよいよ机に向かう時間が増えてきたみたいだな。
隣の席から、神谷が疲れた様子で声をかけてきた。神谷の担当する男子高校生も、スポーツ推薦を狙いつつ基礎学力を上げるために塾通いを始めるという設定になり、机の上で英単語帳を睨みつける画像が増えていた。
そうだよ。これからはキラキラした青春のワンシーンばかりじゃなくて、地味でリアルな苦悩を描かなきゃいけないんだから大変さ。
俺がため息をつきながら答えると、神谷は苦笑いした。
でもさ、フォロワーたちはそういうリアルな苦労を見て共感するんだろ? うちのアカウントも、単語帳の暗記に苦戦している投稿を出したら、意外と『頑張れ!』って応援コメントがたくさんついたぜ。
確かに神谷の言う通りだった。ひまりのアカウントでも、模試の判定が返ってきて落ち込んでいる姿や、深夜の自室でデスクライトの光だけに照らされながら机に向かっている姿を投稿すると、これまで以上のエンゲージメントを記録していた。完璧なアイドルではなく、一緒に悩んで頑張っている等身大の受験生として、フォロワーとの絆がより強くなっていたのだ。
しかし、画像生成の難易度はこれまで以上に高騰していた。
夜遅く、自室の机で参考書を開きながら、眠気と戦っているひまりの姿という設定を出力しようとしたとき、AIは何度も奇妙なエラーを起こした。深夜の暗い部屋の照明のトーン、デスクライトの温かい光がノートの紙面に反射する具合、そしてひまりの表情に宿る絶妙な疲労感と真剣さ。これらを同時に成立させるのは至難の技だった。
最初の試作品を出力したとき、ひまりがなぜかパソコンのキーボードを叩きながら宇宙の星空を眺めているような謎の画像が出てきたり、持っているシャープペンシルの芯が異常に長くて危険な凶器のようになっていたりして、俺は頭を抱えた。
そこへ、いつものように背後から部長が忍び寄ってきた。その厳しい視線がモニターを捉える。
雨宮、光の処理が甘い。夜中の二時の部屋の光源は、デスクライトの一点だけだ。部屋全体の影の落ち方が不自然だ。それと、ひまりの目の下のクマの描き方が足りん。受験生が連日深夜まで勉強しているなら、ほんのわずかな疲労の色が表情に滲み出ていなければリアリティがない。
はい、すぐに修正します。
俺は冷や汗を拭いながら、パラメータの数値を微調整し直した。部長の言う通り、ただ可愛いだけの女子高生から、進路に向かって真剣に悩む一人の高校生へと、ひまりのキャラクターは確実に進化していた。
何度も試行錯誤を繰り返し、ようやく完璧な一枚が出力された。
深夜二時、静まり返った自室のデスク。オレンジ色のデスクライトの光だけが手元を照らし、山のように積まれた参考書の間で、小さなあくびをこらえながらペンを走らせるひまりの姿。その表情には、現実の受験生が持つリアルな焦りと、それでも諦めない健気さが完璧に表現されていた。
俺は慎重に、しかし心からの応援を込めてキャプションを打ち込んだ。
模試の結果が返ってきて、数学の点数が全然伸びなくてガチで落ち込んでる……。志望校判定も安全圏にはまだまだ遠くて、親にもちょっと心配かけちゃった。でも、ここで諦めるわけにはいかないから、今夜も深夜まで英単語の暗記頑張る。全国の受験生の皆さん、一緒に踏ん張ろうね。
投稿ボタンを押す。数秒後、いつものように通知音が鳴り響き始めた。
ひまりちゃん、お疲れ様。模試の判定なんてまだまだこれからだよ!
深夜の勉強えらすぎる。私も同じ受験生だからめちゃくちゃ共感する、一緒に頑張ろう。
無理しないでね、たまには息抜きも大事だよ。
コメント欄には、全国から集まった受験生や、ひまりの成長を見守ってきたフォロワーたちからの温かいエールが溢れていた。広告案件のような華やかさはないかもしれないが、この地味で真剣な日常の共有こそが、朝霧ひまりという存在を本物の生きている人間へと昇華させていた。
美咲がコーヒーを片手に近づいてきて、優しく微笑んだ。
お疲れ様、雨宮くん。受験モードの空気感、すごく良く出ているわ。フォロワーたちも、ひまりと一緒に戦っているような気持ちになっているみたいよ。
ありがとうございます。華やかなイベントが終わって地味な作業が増えましたけど、こっちの方が手応えを感じますね。
俺は深く椅子に腰掛け、コーヒーを一口飲んだ。窓のないオフィスの天井を見上げながら、俺たちはこの架空の少女とともに、確実に一歩ずつ大人への階段を登っているのだと感じていた。
三学期が本格的に始まり、受験に向けたピリピリとした空気がオフィス全体を包み込んでいく。しかし、どれほど過酷な勉強の日々が続こうとも、俺たちが作り上げる物語には必ず小さな温もりと希望が存在する。次はいよいよ、受験直前の最大の山場となる模擬試験のエピソードだ。俺はペンを握り直し、百五十ページを越えた設定資料の新しいページに、ひまりの未来をしっかりと書き込んでいった。




