第16話 設定が100ページになった
フォロワーが一万人を突破してからというもの、朝霧ひまりのSNSアカウントを取り巻く環境は目に見えて変化していた。影響力が大きくなった分、投稿に対するフォロワーの観察眼も鋭くなっている。過去の何気ない一言や、半年前の写真に写り込んだ小さな背景の描写に至るまで、細かくチェックされ、考察されるようになっていた。
その結果としてオフィスで起きたのが、いわゆる設定肥大化の悲劇だった。
ある日の午後、俺は自分のデスクの上で、分厚く製本されたファイルを開き、深い溜息をついていた。そのファイルの表紙には、手書きの油性ペンで「朝霧ひまり総合設定資料・完全版」と書かれている。ページ数をめくってみると、ついにその厚さは記念すべき百ページの大台に乗っていた。
おいおい、なんだこの辞書みたいな分厚いファイルは。
隣の席から、神谷が目を丸くして俺のデスクを覗き込んできた。神谷の手元にある自分のキャラクターの設定資料と比べても、ひまりのファイルはその三倍以上の厚さがあった。
聞いてくれよ、神谷。これ、全部ひまりに関する設定の蓄積だ。最初はほんの数枚のペラペラの紙だったはずなのに、いつの間にか百ページを超えてしまったんだよ。
俺がパラパラとページをめくると、中には常人には理解不能な細かすぎる情報がびっしりと書き込まれていた。例えば、ひまりの右目の下にうっすらとある小さなホクロの位置から、左利きの父親に育てられたせいで箸の持ち方が少しだけ独特であるという癖、好きなパンの第一位はメロンパンではなく実はクリームパンであるという理由、さらには吹奏楽部で使っているチューナーのメーカー名や、愛用の消しゴムのブランドまで、ありとあらゆるディテールが網羅されている。
神谷はあきれ顔で首を横に振った。
消しゴムのブランドまで指定されてるのかよ。そこまで細かく設定して、フォロワーの誰も気づかないだろ。
気づかないかもしれない。だが、もし万が一、別の投稿で消しゴムのメーカーが変わっていたりしたら、熱心なフォロワーが『あれ、前と違う? 設定ぶれてない?』って指摘してくるんだよ。実際に、先週の投稿でひまりが使っていたシャープペンシルの軸の色が違っていただけで、コメント欄でちょっとしたざわつきが起きただろ?
そう言われて、神谷は納得したようにうなずいた。
確かに、人気が進めば進むほど、ファンの記憶力や観察力は異常なレベルになるからな。小さな矛盾が炎上の火種になることもあるし、油断できないってわけか。
まさにその通りだった。架空の人間を作り上げるということは、完璧な嘘の世界を構築することだ。その世界に一ミリのほころびもあってはならない。だからこそ、設定資料は日々更新され、ページ数を増やし続けてきた。
会議室では、その百ページに到達した設定資料を元にした全体整合性チェック会議が開かれていた。ホワイトボードの前には、相変わらず冷徹な目を光らせた部長が立っている。
全員、よく聞いてくれ。朝霧ひまりのアカウントがフォロワー一万人を超えた今、我々に求められるのは、単なる可愛い日常の演出ではなく、揺るぎない世界観の維持だ。この百ページに及ぶ設定資料は、いわばひまりという人間の戸籍であり、憲法である。これを一文字たりとも違えることは許されない。
部長の低い声が、静まり返った会議室に響く。
美咲が資料のページをめくりながら、補足するように言った。
特に最近追加された、友達である夏海や結衣、莉子との関係性の描写についても注意が必要です。例えば、夏海がひまりの家に遊びに行ったときのエピソード。過去の投稿で夏海はひまりの家でいつも麦茶を飲むと書いているのに、最新の投稿でオレンジジュースを出したりしたら、そこから設定の矛盾を突かれます。細部へのこだわりを忘れないでください。
俺は自分のノートにしっかりとメモを書き込んだ。たかが架空の女子高生の設定に、なぜここまで頭を悩ませなければならないのか。たまに、自分は何をしているのだろうという虚しさが頭をよぎることもある。だが、この百ページのファイルを開くたびに、そこには確かに生きている一人の少女の姿が浮かび上がってくるのだ。
会議が終わり、自分のデスクに戻った俺は、冷めかけたコーヒーを飲みながら、次の投稿の準備を始めた。テーマは放課後の買い食いと、ちょっとした秘密。ひまりが友達の莉子と一緒に、駅前の小さな商店街で買い食いをするという何気ない日常のワンシーンだ。しかし、この投稿においても、設定資料のチェックは容赦なく行われる。ひまりが食べるのは、過去の設定で大好物と指定されている、少し古びたおばあちゃんがやっている店のたい焼きでなければならない。餡子はつぶあんだ。こしあんでは設定違反になる。
俺は画像の生成ツールを開き、指定された条件をすべてプロンプトに落とし込んだ。夕暮れの商店街のアーケード、温かい湯気が立つたい焼きを紙袋から取り出して嬉しそうにするひまり、それを横で見つめる莉子。光の角度は夕方五時十五分、季節は十月下旬なので、空の色は少し赤みを帯びている必要がある。
何度も試行錯誤を繰り返し、ようやく完璧な一枚が出力された。設定資料の百一ページ目に、新しいエピソードが書き加えられる瞬間だった。
俺はふと、窓のないオフィスの天井を見上げた。この百ページの重みは、俺たちがこの仕事に注いできた汗と執念の重みそのものだ。架空の存在であるはずのひまりは、今や俺たちの人生の一部を切り取って作られた、あまりにも巨大で精巧な芸術品になりつつあった。
よし、これでいこう。俺は完璧に調整された画像をアップロードし、キャプションを入力した。放課後に莉子と一緒におじいちゃんがやってる店のたい焼き食べたー! やっぱりここのつぶあんが世界で一番美味しい。寒くなってきたから、こういうあったかい甘いものが染みるなあ。
投稿した瞬間から、フォロワーたちからの温かい反応が返ってくる。そのたい焼き屋さん、以前も写真に写ってたところだよね! こだわりのつぶあん、私も食べてみたい!夕方の商店街の雰囲気エモすぎる、ひまりちゃん風邪引かないようにね。
画面の向こうで喜ぶフォロワーたちの姿を想像しながら、俺は満足げにうなずいた。設定が百ページになろうが、二百ページになろうが関係ない。俺たちが作り上げるこの嘘の日常は、誰かの現実を確実に温めている。その事実がある限り、俺はこれからも、この分厚い設定資料を片手に、最高の物語を紡ぎ続けていくつもりだった。明日はいったいどんな設定の罠が待っているだろうか。そんな楽しいプレッシャーを背負いながら、俺は次のページの構想へと取り組んでいった。




