9日目 ワインの町
ふと、ホテルの一室で目を覚ます。
カーテンの隙間から差し込む光の中で、俺はベッドの上に体を起こした。
目を開けた瞬間、アイツの濃密な気配が、昨日までとは比べものにならないほど、はっきりと室内に満ちているのが分かった。
それなのに――不思議なことに。
あんなに俺を苦しめていた激しい恐怖も、吐き気を催すような嫌悪感も、すべてが心の中からごっそりと抜け落ちていた。
まるで、最初からそんなものは存在していなかったかのように。
代わりに胸に残っていたのは、驚くほど澄み切った清々しさと、昔からの友人に抱くような、どこか懐かしい親しみの一感覚だった。
気づけば、アイツがすぐそばにいないと、むしろ落ち着かないような気にさえなっている。
逆に、昨日までアイツを恐れて取り乱していた自分の方が、なんだか酷くおかしく、愚かに思えるくらいだ。
なんだ……そうか。啓太の方が、最初から正しかったんだな
そう心から納得できた。ストン、と腑に落ちたのだ。
「フフン、フフ、フン……♪」
お気に入りの曲の鼻歌を口ずさみながら、俺は軽快にアクセルを踏み、車を走らせる。
「お、隼也。なんか今日は一段と機嫌がいいなぁ」
助手席の啓太が、お茶のペットボトルを口にしながら声をかけてきた。俺はバックミラーに目をやりながら、軽く頷く。
「ああ。なんかさ、朝起きた時からめちゃくちゃ調子いいんだよな。ここ最近ずっと頭の奥にあったモヤモヤが、すっと綺麗に晴れたみたいでさ」
フロントガラスの向こうを見ると、昨日までのあの陰鬱で重苦しい空気が嘘のように、十勝の空はどこまでも広く、日差しは眩しいくらいに輝いていた。
まるで、旅の初日に新千歳空港に着いた時のような、息をのむほど清々しい光景だ。
そして、後部座席にいるアイツも、なんだか今日は一段と機嫌がよさそうだった。
バックミラーを覗き込むと、何もないはずのシートの空間に、口角をゆるく釣り上げて、楽しそうに左右に体を揺らしている『アイツの姿』が、陽炎のようにゆらゆらと映り込んでいるのが見える。
「……ふふ。アイツも、なんか楽しそうだな」
俺が何気なくそう呟いた瞬間、助手席の啓太が、ガタッと身を乗り出して目を見開いた。
「え……? 隼也、お前……見えるのか?」
俺は視線をバックミラーから前方の一本道へと戻し、ハンドルを軽く指で叩く。
「ああ。まぁ、輪郭だけっていうか、少しだけどな。はっきりと見えるよ」
啓太は信じられないといった様子で、両手で自分の頭を抱え、深く息を吐き出した。
「マジかよ……。俺には今、気配はすげぇ感じるのに、姿は全然見えねえわ……」
たぶん、そういうちょっとした波長の違いなんだろう。俺の方が、よりアイツに近づけたということだ。
「でもお前、昨日よくあんなに自然に意思疎通できてたよな」
俺が少し笑いながら尋ねると、啓太はどこか誇らしげに肩をすくめた。
「まぁな。見えなくたって気配は分かるし、俺が言ったことにちゃんと行動で返してくれるからな」
僕らはそんな風に、新しい旅の仲間の話をしながらドライブを楽しみ、目的地へと到着した。
十勝平野を見下ろす丘の上に建つその場所は、まるでヨーロッパの古城を思わせる、レンガ造りの重厚なワイン工場だった。
「ワインかぁ。やっぱりここの名産だから、美味しいんだろうな」
車を降りて中に入ると、ずらりと並ぶワインボトルの奥に、地元産のチーズや、お洒落な軽いおつまみが綺麗にディスプレイされているのが見えた。
「なぁ啓太、甘口のやつってあるか?」
「ん? 隼也、辛口苦手だったっけ?」
啓太が棚のラベルを見比べながら聞いてくる。
「いや、甘口の方がジュースみたいで飲みやすいからな。アイツもそっちの方が好きそうだし」
俺は自然に視線を冷蔵ケースのチーズへと移し、隣に漂うアイツの気配に向かって、優しく呼びかけた。
「なぁ、チーズ、食べるか?」
十勝産のナチュラルチーズを手に取りながら、バックミラーの代わりに、ガラスケースに反射するアイツの反応をちらりと確認する。
トントン――。
ケースを指先で叩いた直後、カゴを握る俺の手元に、小さく合図のような振動が響いた。
それは嬉しさを表現するような、心地よいリズムだった。
俺は満足して笑みを浮かべ、そのチーズをカゴの中へとそっと入れた。
「お、チーズ買うのか?」
啓太が俺のカゴの中を覗き込みながら、ニヤニヤと笑う。
「ああ。……なんか、これが食べたいらしいんだよな」
俺はちらりと横目で、自分のすぐ隣にある幸福な気配を確認する。啓太の目には見えていなくても、そこに確かな質量を持って『アイツ』が居るのは間違いなかった。
お土産用の配送手続きを済ませ、俺たちは静かに、美しいワイン工場を後にした。
お菓子やワインを買い込んだ俺たちは、そのまま城の最上階、4階にある展望レストランへと向かった。
中に入ると、壁一面の大きな窓から、どこまでも続く十勝平野の大パノラマが一っぱいに広がっていた。柔らかい午後の光がテーブルを優しく照らしている。
壁際には年代物のワインボトルや大きな木樽が美しく並べられ、空間全体にほんのりと、熟成した木の芳醇な香りが漂っていた。
まるで、外国の古い田舎街のレストランに迷い込んだかのような、最高の雰囲気だ。
メニューを開くと、啓太は迷うことなく、ジューシーに焼かれたグリルチキンの写真に視線を落とした。
「よし、俺はこれにしようかな」
俺は地元の海の幸を使った海鮮プレートを選ぶつもりでメニューを見つめていたが、つい、サイドメニューにある『十勝産チーズの盛り合わせ』の文字に目が行った。
「すいません、あとこのチーズの盛り合わせも一つ頼みます」
注文する俺の横で、アイツもメニューを覗き込みながら、あからさまに機嫌を良くしているのが分かった。
さっき買ったお土産のチーズを思い出しながら、(やっぱり、こいつはチーズが好物なんだな)と、俺の口元をごく自然な笑みが零れ落ちる。
「おいおい、昼から結構食べるな?」
啓太が、俺が一人で2品も注文したことに、少し驚いたような顔をした。
「ああ。だって、アイツの分もあるからな。分けて食うんだよ」
俺が当たり前のようにそう答えると、啓太は「あはは」と笑って首を傾げた。
「そっか。お前ってさ、昔から本当にそういうところあるよな。面倒見がいいっていうか、お人好しっていうかさ」
「うるせぇよ、性分なんだからしょうがないだろ」
俺も思わず苦笑する。啓太の世話を焼くのは、大学に入ってからいつの間にか当たり前の習慣になっていた。
そこに、もう一人、愛らしい同居人が増えただけのことだ。何かおかしなことがあるだろうか。
さらに俺は、運転のためにノンアルコールのロゼワインを注文した。
啓太はもう今日は運転する気がないらしく、本物の赤ワインを嬉しそうにグラスに注いで、喉を鳴らしている。
三人でゆっくりと贅沢な昼食を食べ終えると、俺たちは建物の外に出て、広大な丘の敷地を少し歩いて腹ごなしをすることにした。
吹き抜ける風がとても気持ちよく、視界の果てまで緑の平野が広がっている。
「……でもさ、ここって景色は良いけど、あんまり他に観光するところないな」
啓太が少し退屈そうに、広大な景色を見つめながら呟いた。
俺たちは顔を見合わせる。
本当は、明日の朝一番に向かう予定だった、さらに奥にある十勝の街があった。
「なぁ、予定変えて、もう先に向いちゃうか?」
ここから車で、約一時間半ほどの道のりだ。
「そうだな。移動しちゃおうぜ」
俺たちは再び車に乗り込み、北海道特有の、人工物の何もない広大な一本道を走り始めた。
だが、走っているうちに。
あれほど輝いていた青空の色が、地平線の向こうから少しずつ、ねっとりとした濁った灰色に変色していく。
「あーあ。なんか雨でも降りそうだな」
助手席の啓太が、車の窓の外を見上げながらつまらなそうに言った。
「嘘だろ? 今日の天気予報、ずっと晴れの予定だったよな」
スマホの予報は確かにそう言っていたはずだ。
それなのに、車を進めれば進めるほど、周囲の空気が急速に変質していくのが肌で分かった。
北海道は町と町の距離が異常に長い。山を一つ超え、少し走るだけで、天気がまるで別の世界みたいにガラリと変わってしまうことも珍しくない。
俺はハンドルを握りながら、そんな北海道の洗礼を、なんとなく他人事のように感じていた。
……もし、ちょっと前の俺だったら。
後部座席に「目に見えない何か」の気配を感じたまま、こんな風に空が急速に曇り出したら、きっと悍ましい怪奇現象の前触れだと思って、薄気味悪さに狂いそうになっていただろう。
いや。恐怖で背筋が凍りつき、今すぐ車を捨てて逃げ出していたかもしれない。
けれど、今の俺は、全く違う。
もし、このあと激しい雨が降ったらどうしよう。
後ろにいるアイツが雨に濡れて、風邪でも引いてしまわないだろうか。
冷えてお腹を壊したりしたら、可哀想だな。
そんなことを、心の底から、大真面目に心配している。
きっと――。
今の自分のこの行動も、この優しい考え方も、すべてが正しく、人として当たり前のことなのだと。
俺は、本気で、そう信じ込んでいた。
「なぁ啓太、悪いんだけどさ。この先でコンビニかホームセンターを見つけたら、一回寄っていいか?」
畑以外に何もない一本道を走りながら、俺は助手席に声をかけた。
「ん? どうした、なんか足りないものでもあったか?」
「いや、これから雨が降ったら傘があった方がいいだろ。俺たち東京から持ってきてないし」
啓太はフロントガラス越しに、どんよりと垂れ込める空を見上げる。雲はさっきよりも一段と厚く、黒くなっていて、今にも大粒の雨が降り出しそうだった。
「あー、確かに。買っておいた方がいいな」
「だろ? アイツが風邪でも引いたら嫌だしな」
俺はそう言って、バックミラー越しに、愛おしい後部座席へと視線を送る。
鏡の向こうのアイツは相変わらず、影の形を歪ませながら、嬉しそうに口元を緩めて笑っているみたいだった。
「……なぁ隼也。さっきからお前、バックミラーばっかり見てるけど……そこに、映るのか?」
怪訝そうに尋ねる啓太に、俺はハンドルを握り直して微笑む。
「ああ。どうやら直接見るより、鏡越しの方が姿が見えやすいみたいなんだよな」
啓太と、そんな狂った内容の会話を交わしているのに、俺の心にはもう、一微粒子の違和感すら存在しなかった。
嫌な空模様と、言葉にできない不穏な沈黙を車内に抱えたまま。
俺たちの、9日目の旅は、ポツポツと窓を叩き始めた冷たい雨と共に、静かに終わりを迎えた。
明日が――。
明日という日が、俺たち二人にとって、
二度と人間の世界へ『戻れなくなる日』になるとも知らずに。




